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2008年03月30日

第310回「言葉は生きている」

 言葉の意味が時代によって変わっていくとき、「言葉は生きている」と言われることがありますが、今回はそのような意味ではありません。言葉というもの自体が、僕ら人間たちと同じ様に、生きているということです。
 「ケータイ短歌という番組の出演依頼が来たのですが」
 はじめてその番組に出演したのは2002年の夏。そのときは、これまでのようなパーソナリティーでなく、ゲストというカタチで、それも数日間のうちの一日の出演でした。
 短歌というと、率先して作った記憶はなかったものの、実際気になる存在ではありました。というのも昔から、少ない言葉で世界を表現することに興味があったからです。その気持ちはのちに、小心者克服口座の一言ネタにも反映されてくるわけですが、長い文章で表現することも素晴らしいけど、俳句や詩、キャッチコピーなどの限られた言葉で世界を構築することに魅力を感じていたのです。だから、出演を断る理由もなく、その一回の出演だけで、この番組に対する愛着が芽生えてしまいました。それが、「ケータイ短歌」との出会いだったのです。
 「これは絶対レギュラーにするべきです!」
 番組を持ちたい、ということではありません。単純に、嘘のない素敵な番組だから残すべきだと、ただその気持ちを訴えていました。それから何度か不定期に放送されたのち、晴れて「土曜の夜はケータイ短歌」というレギュラー番組になったのです。
 放送中をはじめ、局にはいったときや打ち合わせなど、すべてにNHKらしさ、民放にはない独特の空気が漂っていました。そしてそれが、僕にとってとても落ち着く場所になり、2週間に一度体験できるその空気が、欠かせない存在になっていました。
 普段、バラエティー番組で接することのない作家やミュージシャンなどの文化人の方々、なにより多くの歌人の方たちとの出会いはとても貴重な体験でした。一言ネタは字数に制限はありませんが、少ない言葉でという意味では、歌人の方たちと少し作業が似ているのでしょう。彼らの話はとても興味深く、いろんなことを学びました。そしてなにより、リスナーの皆さんが作ってくる短歌は毎回素晴らしく、いつも感心させられていました。会社員の方や主婦の方、学生さんやOLさん、そして年配の方まで、本当に幅広い層の人たちが、それぞれの感性で表現してくれました。31文字で切り取られたその瞬間は、ときに宇宙や永遠をも感じさせるほどの広がりがありました。
 そうして気付くと、出会ってから約6年、僕はどのスタッフよりも長い存在になっていました。毎回いろんなことを感じ、発見してきましたが、この番組を通して僕が一番強く感じたのは、「言葉の力」でした。
 言葉は、人の心を満たすエネルギーを持っているし、ときに人を傷つける凶器にもなります。普段なにげなく使用している言葉は、単なる音ではなく、使い方次第で、人を救うことも殺すこともできるのです。言葉は、ときに映像以上にリアルな実感を与え、言葉が永遠になることもあります。言葉にこのようなはかり知れない力があるのです。それこそまさに「言葉が生きている」からなのです。
 だからときどき、自分の言葉の行方が気になることがあります。自分が発した言葉が相手にどのように伝わっているか、その後、その人の心の中でどのように生きていくのか、とても気になるのです。僕自身、過去に受け止めた言葉がいまでも心の中で生きているものもあります。すぐに消滅してしまうものもあれば、何十年にも及ぶ場合もありますが、言葉も僕らと同じ様に生きているのです。言葉を発するということは、自分の生命を誰かに分け与えることなのです。
 僕がこの番組を好きでいれたのは、まぎれもなく、言葉が好きだからでしょう。言葉が持つ力に惹かれていたからでしょう。言葉が大切な存在だったから、この番組も大切にできたのだと思います。だから、番組を卒業することが決まったときは、正直寂しい気持になりました。寂しい気持ちは否めませんが、でも一番は感謝しています。これまでたくさんの人や言葉、世界に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
 もしも言葉がなかったら、想いを運ぶ道具がなくなってしまったら、どんなに辛い生活になることでしょう。いま心の中にあることを言葉で伝えられることはとても幸せなことであり、素晴らしいことです。たとえそれがうまく伝わらなくても、自分の想いを言葉に括りつけて発送することができるってすごいことなのです。そのことに気付かせてくれた「ケータイ短歌」、リスナーの皆さん、そして番組を支えてくれたスタッフの皆さんに感謝です。今までありがとうございました。

1.週刊ふかわ | 09:35

2008年03月16日

第309回「考えなくていいことをわざわざ考えてみようシリーズその2人はなぜ知ろうとするのか(後編)」

 とはいえ、本当に「知りたい欲求」なんてあるのだろうか、やがて僕はその疑問にぶちあたるので覚悟しておいてください。
 「知りたい欲求」はデヴィッド・リンチの映画だけでなく、様々な所で利用されています。身近な所で言うと、最近のクイズ番組過多な状況はまさに、人間の「知りたい欲求」の賜物といえるでしょう。知ることへの欲望がなければこんなにも存在しないのです。だから「知りたい欲求」というのは、もしかすると人間の三大欲求である「食欲」「睡眠欲」そして「性欲」と同じ様な、本能的に備わっているものなのかもしれません。
 たとえば「性欲」というのがありますが、普段からそれに振り回されている人はいません(たまにいますが)。でも、目の前を露出度の高いセクシーな女性にウロウロされたらそれまで眠っていた「性欲」が目覚め、欲求不満状態になります。「性欲」が「空腹」になるのです。これを「知りたい欲求」に置き換えてみます。
 「知りたい欲求」が眠りから覚めるのはどんなときでしょうか。それは、「わからないもの」に遭遇したときです。人は、「わからないもの」に直面すると、知りたい欲求が目覚め、それをどうにか理解しようとします。その代表的な例が「クイズ」です。クイズを出題するというのは、「わからないもの」を提示することなのです。そうすることで、「知りたい欲求」を刺激し、引き付けます。しかも、「あなたがわからないことを、私は知っていますよ」という、生物としてものすごく劣等感を感じさせるシステムになっているのです。
 「では問題です。急がば回れ、という諺がありますが、これは日本のある場所でうまれたと言われています。さて、それはどこでしょう」
 突然こんなクイズが出題されるとします。するとどうでしょう。普段はそんなこと気にしていないのに、ほんの少しだけ知りたくなってしまいます。わからないことを解明したいという欲求と、他者よりも劣っていたくないというふたつの欲望がかけ合わさって、答えが欲しくてたまらなくなるのです。この空腹な状態のときに、「答え」というごちそうを与えられるのです。そうすると人は満足感と安心感が得られるわけです。これに人は「面白い」と感じるのです(面白いの定義はおいておきます)。だからクイズ番組は、その方法とデザートの違いはありますが、基本的には、「空腹」にしては「満腹」にするという、「知りたい欲求をくすぐり続ける番組」なのです。
 少し本線から逸れるかもしれませんが、最近の人間の行動に完全に組み込まれた「検索」という行為もまさに「知りたい欲求」によるものです。数年前まで、ほとんどの人類は検索なんてしていなかったのに、現代社会では、なにをするにしても必ず検索がついてきます。検索をしてから行動するようになったのです。企業は車を買って欲しいからテレビでCMを流します。でも現代の消費者はCMのあと、検索をしてから車を購入します。だから最近のCMは、検索したいと思わせるところまで伝えられればいいケースが多くなりました。「続きはwebで」的な。とはいえ、同じCMを見ても、検索する人としない人とに別れます。それは「自分と関係があるかどうか」の違いによるもので、簡単にいうと、「興味があるかどうか」です。だから、CMはいかに興味を持たせるか、そして自分と関係があると思わせるかが重要なのです。それがないと、「知りたい欲求」は動いてくれないのです。クイズにしても同様のことが言えますが。
 ただ、予告していた通り、ここへきて僕はある疑問にぶちあたります。それは、果たして本当に知りたい欲求というのは存在するのだろうか、ということです。前述の三大欲求に関しては生き物として必然的な欲求と考えられます。生きるため、そして人類が生存し続けるために欠かせないものです。しかし、「知りたい欲求」というのは、生命の生存には直接は関係ないように思われます。別に知らなくても、ある程度の情報さえあれば、わざわざ情報を入手しなくても生きてはいけるはずなのです。じゃぁ人間にとって「知る」とはなんなのでしょう。「知りたい」の水面下にはなにが起きているのでしょう。
 というのも、この世には、「知りたくない人間」も存在します。なにを隠そう、僕自身がそうなのです。「知る」についてはこんなにも知りたがっている僕も、知りたくないときがあるのです。別に、結果が怖くて、ということではありません。これ以上、情報がはいってくるのを食い止めたい、という状態です。その思いは海外にいくと顕著になります。 
 旅行先でケータイがつながらないと、最初は気になってしまうものの、次第に慣れてきて、むしろケータイからの情報が遮断されることによって、どこか体が軽くなった気分になります。体内にはいってくる情報量が少なくなったときに、ものすごく開放的な気分を味わえるのです。普段の生活が、いかに情報過多であるか気づくのです。
 「情報」というとそこに害はないように思われますが、実は、いくら有益であっても、情報が過多になっていては、有益どころか人間にはストレスを与えるものなのです。つまり、いつでもどこでも情報がはいり、情報に満たされていることは、必ずしもいいことではないのです。実は、これはとても深刻な問題だと思うのです。
 情報にあふれる社会で、大人たちはまだいいものの、子どもたちはストレスのはけぐちも知らずに生活しています。無意識に膨大な情報というストレスを抱えていては、凶悪犯罪も必然と考えられます。情報にあふれた現代社会は、生きているだけで疲れるものなのです。だから、いまとなっては、情報を得ることよりも、情報を選択したり、遮断することのほうが、もはや難しいわけです。情報のない生活のほうが、むしろ贅沢な生活とも考えられるのです。
 情報のない世界、たとえばあなたがもしも1ヶ月無人島で暮らしたらどのようになるでしょう。おそらく最初はいろんなことが気になるはずです。ホームシックにもなるでしょう。でも次第に心が潤ってくるはずです。情報と言うストレスから開放され、心に余裕ができるのです。心に余裕ができて、自分にとってなにが大切かがわかるのです。頭の中も整理されるのです。日常の情報過多な生活では、頭の中を整理するまもなく、どんどん情報が増えてしまうから大変なのです。
 だからといって、いまさら無人島で暮らすわけにはいきません。たとえ頭の中が整理されても、食料も不自由だし、人恋しくもなります。なので、無人島に行かないまでも、毎日とめどなくはいってくる情報を調節するのはどうでしょうか。情報の更新を週一のペースにするのです。それだけでも7分の一です。テレビも週に一回、ケータイのメールチェックも週に一回。そんな生活ありえないと思うかも知れませんが、そうやって脳を休めることによって、ストレスもなくなるのです。ここまで脳が疲れている現代、わざわざトレーニングなんて必要ないのです。
 人は、ラクをしたい生き物なのに、なぜ情報に関しては詰めたくなるのでしょうか。こんなに膨大な情報を背負うことは社会で生きていくうえでの義務のようにさえ感じてしまいます。知ることはたしかに大事だけど、なんでもかんでも詰め込む必要はないのです。情報が多ければいいというのは絶対に誤りであることに、人々はまだ気づいていないのです。僕たちに必要なのは、情報を遮断する勇気と、遮断する習慣、そして、必要な情報を選ぶことなのです。
 結局、情報というのは「刺激」なのです。「知りたい」というのは、脳が刺激を求めていることなのです。ではなぜ「刺激」を求めるのでしょうか。それは、「変化」です。人は「変化を求めている」のです。自分自身があらたな自分に変わる事を望んでいるから、刺激という変化を求めてしまうのです。毎年変わる流行は、それを反映しているかもしれません。だから、満たされないのは、「知りたい欲求」というよりも、その根底にある、生物的な「変化に対する欲求」というほうが適切なのかもしれません。
 ではなぜ僕は、刺激を求めないのか、変化を望まないのか。変化を求めないというと誤解を招きそうですが、もしかすると、考えすぎな体質だから、脳が疲れていて、刺激や変化を望まないのかもしれません。もしくは、音楽による刺激(激しい音楽という意味ではなく)でもう満たされているから、ほかの刺激が不要なのかもしれません。
 単純に「知る」ということだけでよくもここまで考えたなぁと自分でも思いますが、「与えられて知ること」ことと、「追求して知ること」とは、根本的に違う気がします。そして、「知る」ということに関して僕の考えが正しいということでは決してありません。あくまでひとつの考え方であり、予測です。ただひとつ断言できることがあります。それは、人間が不思議な生き物である、ということです。結局行き当たるのはそこなのです。33年生きてきて、33年間人間をやってきて、結局自分自身のことなんてほとんどわかっていないのです。なにがどうなっているのかわからないまま、自分で操縦してきたのです。世界には、こんなにも「人間」でいる人たちはたくさんいるのに、それを理解している人はほとんどいないでしょう。だからこの世には人間の取り扱い説明書は存在しないのです。まぁ、そんなものは必要ないのでしょうが。

P.S.:
考えすぎたので、来週、休みます。ちなみに正解は、琵琶湖です。

1.週刊ふかわ | 09:21 | コメント (0) | トラックバック

2008年03月09日

第308回「考えなくていいことをわざわざ考えてみようシリーズその2人はなぜ知ろうとするのか(前編)」

 デヴィッド・リンチをご存知でしょうか。おそらく誰もが知っている人ではありませんが、日本ではドラマ「ツイン・ピークス」や映画「エレファントマン」などでその名を知らしめた映画監督です。この2作品は比較的わかりやすいものですが、基本的に彼の作品はとても難解なものが多く、ある意味、大衆向けではないかもしれません。だから彼の作品を待ち望む人と、拒絶反応を起こす人とに別れるのです。そんな難解な映画ばかりかと思いきや、「ストレイトストーリー」という、ある老人がまっすぐな道を進んでいくという、非常にわかりやすい(とはいえ深いのですが)映画も残しています。それはまるで、「別にわかりやすいのも撮れるんだぜ」と言っているかのようにさえ感じます。また、別の監督が撮ったかと思わせるほどのあまりのヒューマンな温かいストーリーは、デヴィッド・リンチという監督をむしろ、よりいっそう不可解で不気味な人物に印象付けるのです。
 その彼が5年ぶりにメガホンをとったのが、昨年7月に日本で公開され、裕木奈江さんが出演していることで話題にもなった、映画「インランド・エンパイア」です。デヴィッド・リンチの新作ということで、ニューシネマパラダイスから時計仕掛けのオレンジまで愛する僕は、とても期待に胸を膨らませました。
 「今度はどっちでくるんだ?」
 というのも、これまで不可解なものが続いていたので、かつての「ストレイトストーリー」のように、その流れを裏切るような、逆の方向性の可能性もあると思ったのです。そして少しずつ情報が集まってきました。
 「今回のは今まで以上にやばいらしい...」
 どうやら、これまで以上に不可解であるという噂を耳にしました。誰の感想をきいても、よくわからない、の一点張り。それも3時間もあるらしい。その言葉が僕の体を劇場から遠ざけていきました。そんなある日、体調がよくて夜更かしをしたい気分だったときに、ふと思い出してしまったのです。きいたらちょうどレンタル開始されたばかり。僕は遂に、禁断のリンチワールドの扉に手をかけてしまったのです。
 「なんだ、これは...」
 それは、噂どうりの代物でした。不可解さ200%、ポカン度300%。3時間ジャストという、どこか作為的な長さもさることながら、途中で完全に迷子になってしまうのです。いままでの彼の映画は何度も見返してどうにか読解してきた僕も、さすがに「え、どういうこと?」と何度も顔をしかめてしまいました。本当に3時間目が離せないし、目を釘付けにしたところで理解できるものでもありません。すべてを理解しようとするよりも、むしろ、わからないところを無視していかないと、気になってなかなか先に進まないのです。とはいえ気になることは雪だるま式に増えていきます。だから、常に気になっていることに引っ張られながら物語についていかなければならないのです。マラソンの最後尾の友人を気にしながら先頭集団にも着いていかなければならない、そんな状況です。そして徐々に自分の前を走っている者よりも、後ろにいる者のほうが多くなり、気付けば自分がどこを走っているのかさえもわからなくなっているのです。わけがわからないまま走っていたら目の前にゴールテープがあって、一応完走できたなぁ、というような映画なのです。これほどまで内容をきかれて困る作品に出会ったことはありません。
 正直、彼は意地悪なのです。観る者に親切でないのです。それが「愛がない」という意味では決してありません。だからといって、ただ単に意地悪に作ったってこうはなりません。しっかりと道理にかなった物語じゃなければ3時間も見られないのです。でも、そのしっかりとした世界は常に、曇りガラスの向こう側なのです。
 ただ、この映画のすごいところは、彼のほかの作品もそうなのですが、これほどまでに不可解でなんだかよくわからない映画なのに、「メチャメチャ面白い」ということなのです。(「面白い」の定義に関してはいまは置いておきます)完全なる5つ星なのです。理解してこその評価ですが、理解してなくても面白いと思わせる映画なのです。そこが彼のすごさなわけですが、こんなにワクワクして、観終わったあと何日間もあとをひくものは滅多にありません。いまでもいろんなシーンが脳を掠めるのです。いまだに頭の中でさらに熟成し、まるで映画はまだおわっていないかのようにすら感じるのです。
 そう考えると、ストーリーってなんなんだろう、と思ってしまいます。理路整然としたストーリーは確かにわかりやすいけれど、そのわかりやすさは果たして現実か?と問いかけたくなります。リアリティーを追求すればするほど、それは不可解なものになるのかもしれません。そういう意味でこの映画は、これまでの映画やドラマなどの物語の見せ方を覆す作品なのかもしてません。かといって、こういう類のものばかりが増えてもこまりますが。
 ここまで切々と書き連ねてきましたが、実はこの映画の素晴らしさを伝えたいのではありません。伝えたくないわけではないのですが、今回の主役ではないのです。今回伝えたいのは、この映画の素晴らしさを支えているものです。これがあるからこそ、この映画が成り立っているといっても過言ではありません。今回の主役、それは、人間の「知りたいという欲求」です。
 この映画の特徴のひとつは、途中まではとてもわかりやすいところにあります。(といっても、彼の作品の中での基準なので一般的な映画の中においては難解)途中までとても汲み取りやすい話が進んできて、ある瞬間突然、ありえない映像を突きつけられるのです。当然「え!!!」となります。ここにデヴィッドリンチの作戦があるのです。
 最初から迷わせないで、少し楽しい時間を過ごさせてくれた矢先に突然暗闇に放りこまれるのです。「ちょっと待ってよ!どういうこと!」と叫びます。叫びながら暗闇の中を彷徨っているうちに、だんだんその暗さに目が慣れてきて、ぼんやりと世界が見えてくるのです。でも決して視界は良好ではありません。もやもやした世界がずっと続き、「もしかしたら、ここはあの時の...」くらいで結局霧が晴れないまま3時間たってしまうのです。
 最初にわかりやすくしておいて、そのあと暗闇になる。そしたら人は電気のスイッチの場所を探すでしょう。本来暗闇でないことを知っているのだから、なぜ暗闇になったのか原因を探すでしょう。スイッチの場所を知りたがるのです。「知りたいという欲求」がうまれるのです。この「知りたい欲求」こそが、この映画を支えているのです。つまりこの映画はそれがなければ成立しない、ということです。当たり前のことをいっているように思うかもしれませんが、そこは冷静になってください。人に「知りたい」という欲求がなければ、面白いとは感じないのです。そうでない映画はほとんどないですが、この映画は「知りたい欲求」を<特に利用した>映画なのです。僕がワクワクしたのは、「知りたい欲求」の器をちょうどいいところで突然ひっくり返され、完全なる空にされたからなのです。
 人はなぜ、知ろうとするのでしょうか。人はなぜ、知りたいという欲求がうまれるのでしょうか。別に知らなくても生きていけます。でも人は、知ることに対して強い欲望があります。それは、「好奇心」という言葉だけでは片付けられないもっと奥深いものがある気がするのです。「知りたい欲求」、これはきっと「インランド・エンパイア」以上に不可解なものです。次号に続きます。

P.S.
デヴィッド・リンチをまだ体験していない人は、「エレファントマン」「ストレイトストーリー」「マルホランド・ドライブ」を観てから、今回の「インランド・エンパイア」にチャレンジしてみてください。

1.週刊ふかわ | 09:23 | コメント (0) | トラックバック

2008年03月01日

第307回「歩くこと」

 最近、よく歩くようになりました。コンビニやスーパー、ちょっとした用事があるとき、これまでは原付で行っていたのをやめて、歩いていくようになりました。決して環境のためとかではありません。自分のため、いや自分のお腹のためです。近頃、よくメタボリックという言葉を聞きますが、僕の場合は昔からお腹が幼児体型的なところがありまして、20代ではまだ目を瞑れたものの、30を過ぎたあたりから、これはシャレにならないぞという感じになってきました。それで夏にはジョギングをしたり、どうにか膨張を食い止めることができていましたが、それもいまとなっては昔のこと。去年に関しては夏になっても減少せず、もはや万年雪ならぬ、万年メタボになりつつあるのです。
 さらに、拍車をかけてひきこもりがちな日常は、ひどいときで一日12歩くらいしか歩かないこともあります。この前もアマゾンから届いた郵便物を取りにいくだけで一日が終了したことがありました。もはや僕と社会とをつなぐ唯一のパイプがアマゾンになってしまいました。今アマゾンを奪われたら僕は孤独死してしまうかもしれません。かといって、家で一日中ボーっとしているわけではありません。頭の中ではものすごい想像の大海原を大航海しているわけです。だから毎日ぐったりなのです。ただ、いくら想像の世界で大航海していても、現実の世界で12歩しか動かなかったらいつまでたってもメタボ体型はなおりません。やはりなにかを改善しなくてはと思い、「なるべく歩く」ことにしたのです。
 するとどうでしょう。原付であれば1分で到着していたのが、歩くと5分かかるようになります。銀行に行くのに3分だったのが10分、スーパーに5分だったのが15分、往復だと30分以上かかるようになります。お腹が空いてごはんを買いにいくのにわざわざ30分も歩くのかと、ついつい原付にまたがりたくなりますが、それをぐっとこらえて、歩いて買いに行くようにしたのです。するとその分、いつもは存在しなかった時間がうまれるのです。そして、うまれるのは、時間だけではありません。
 「歩くと普段目の届かない所に目が行くようになる」
 なんてことを、これまでに死ぬほど聞いてきましたが、たしかにそのことに関しては否定する余地がありません。ほんとに、「あれ、こんなところに」といった感じで、普段原付や車、ジョギングなどでは気づかなかったものが目に飛び込んでくるのです。そこに新たな世界があるのです。歩いて見える世界、原付で見える世界、車から見える世界、それらはすべて違うもので構成され、まったく別の世界を生きているようです。だからきっと、同じ場所にいる人たちも、それぞれに違うものが見えていて、それぞれに違う世界を生きているわけです。
 やはり、人生でも同じことが言えるでしょう。あんまりスピードが速いと見えるものも見えなくなってしまいます。誰かが傷ついていることに気づかなくなってしまいます。ジョギングでも自転車でも車でもいいけど、ときにはゆっくり歩いていくことも必要でしょう。それこそ立ち止まることも。人はいつのまにか、ごくあたりまえなことができなくなってしまいました。
 日々の生活をどのスピードで進んでいくかで、見えてくる世界は違ってくる。見えてくる世界が違ってくると、幸福に感じることも変わってくる。空が青いことを忘れていたら、太陽の輝きを感じられなくなったら、それはどこかで無理をしている証です。そろそろペースを変えるときかもしれません。空の青さや太陽のまぶしさ、澄んだ空気、周りの人たちの表情、それらをいつでも感じられるペースでいることが人間には大切なのでしょう。そうすると、いつのまにかお腹のまわりも改善されているかもしれません。歩くって、奥が深いです。

1.週刊ふかわ | 08:42 | コメント (0) | トラックバック