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2008年02月24日
第306回「雨にぬれても」
「ではみなさん、好きな曲を選んでください」
それは僕が小学生のときでした。図工の授業で小物入れのようなオルゴールを作るのですが、中にいれるオルゴールの曲は自分で選ぶことになっていました。クラシックから歌謡曲までいくつかあるうち、どこかできいたことのあるきれいな曲だなぁと、僕はひとつのオルゴールを手にしました。誰の曲かも知らずに選んだ曲、それは「雨にぬれても」でした。世界的に有名な映画の曲で、おそらくそのメロディーを聴けばほとんどの人が口ずさめると思います。その「雨にぬれても」の作曲者が目の前にいました。オーケストラをバックにグランドピアノを弾きながら、楽しそうに「雨にぬれても」を歌っています。今年80歳を迎えるバート・バカラックです。
バート・バカラックというとピンと来ない人もいるかと思いますが、彼の曲を知らない人はいないでしょう。世界的に有名な作曲家で、前述の「雨にぬれても」やカーペンターズの「CLOSE TO YOU」など、彼が世に送り出した曲やそのメロディーをきかずに人生を歩むことが困難なほど、世界中の人たちに愛されています。さらに、アーティストにも彼を尊敬する人は多く、彼なしに世界の音楽は語れません。
そのバート・バカラックが4度目の来日ということで、普段ライブなどめったにいかない腰の重い僕も、行かずにはいられませんでした。僕が訪れた会場は、実は10年ほど前にも訪れたことがある場所で、セルジオメンデスというアーティストのライブがありました。現在67歳の彼は、いまファーギーをフィーチャリングして「LOOK OF LOVE」という曲をリリースしているのですが、それこそバート・バカラックの代表曲のひとつなのです。10年ぶりに訪れた会場には、やはり年配の人たちが多く目だったものの、若い人がいないわけではなく、ある意味、ポールマッカートニーのときと同じ感じでした。ステージ上は、フルオーケストラでということで、これからクラシックコンサートがはじまるようでした。
オーケストラの人たちがぞろぞろと出てくると、皆チューニングを始めました。しばらくして、3人のコーラスの人たちもマイク前に立つと、中央の大きなグランドピアノの前にあるイスだけが空いていました。
「それでは、バートバカラックのロマンティックなメロディーをお楽しみください」
司会の人がステージからはけると、それに入れ替わるようにスーツを着たおじいちゃんが手を振りながら歩いてきました。大きな拍手に包まれて彼はゆっくりと腰をおろすと、背中を丸めてイスの高さを調節します。そして彼の指がピアノに触れたとき、一瞬にして場内がバカラックの世界に変わりました。彼が一曲目に選んだ曲は「WHAT THE WORLD NEEDS NOW IS LOVE」(世界は愛を求めている)でした。その美しすぎるメロディーに自然と涙があふれてきます。
僕からしたら、もったいないと思ってしまうほど、バカラックの有名なナンバーが、次から次へとまったくもったいつけずに演奏されました。だしてもだしても有名なナンバーが飛び出てきます。中でも僕が一番大好きな「CLOSE TO YOU」は、あまりにさりげなすぎてイントロでは気づかないほどでした。ポールのレットイットビーのときもそうでしたが、ビッグヒットをさらっと出すのです。
バカラックの音楽を言葉で表すのはとても難しいのですが、ファンとして感じるのは、とてもロマンティックでスウィートな音楽なのです。胸がせつなくなるし、キュンとする。しかも、どの曲も「あ、バカラックだ」とすぐにわかるものばかりです。もはや半世紀近くにわたって世界中を魅了してきた彼のメロディーは、今後も色褪せることなく、常に美しいメロディーとして、多くの人の心をとらえることでしょう。
おそらく2時間もの間、バカラックはステージ上でピアノを弾いていました。ときには自ら歌うときもありましたし、僕が聴きたい曲はすべて演奏してくれました。そして最後は再び「WHAT THE WORLD NEEDS NOW IS LOVE」に戻ってきました。素晴らしき起承転結です。「愛」というキーワードで2時間の音楽が括られたようでした。
「ではみんなでうたいましょう」
アンコールの最後は「雨にぬれても」でした。彼が立ってピアノを弾きながら歌うと、皆も立ち上がって歌いはじめました。会場の手拍子と、歌声と、音楽ですべてがひとつになりました。80歳になってもこんな素敵なコンサートができるなんて、素晴らしすぎます。世界中の人々の心を満たし、世界中の人々に愛されてきたバカラック。彼のような人生を歩みたいものです。
もしも、地球全体で聴ける音響システムがあったら、戦争なんてなくなるのでしょう。言葉も確かに大切だけど、言葉や理論は絶対に対立してしまいます。でも音楽は、すべてを超えて世界中で共有することができます。音楽は、戦争をなくすために作られるものじゃないけど、そんな力を持っていると思うのです。
「CLOSE TO YOU」で地球を包み込むことができたなら、どんなに素晴らしいことでしょう。「雨にぬれても」を地球上のみんなで歌ったら、どんなに幸せなことでしょう。音楽があれば、みんなが幸せを感じられるのです。音楽って、なんなんだろう。
1.週刊ふかわ | 09:18 | コメント (0) | トラックバック
2008年02月17日
第305回「考えなくていいことをわざわざ考えてみようシリーズその1愛」
「世界で最も大きい工場は心である」
さっそく格言がでてしまいました。まだ言葉選びに検討の余地がある気がしなくもないですが、そうです、世界で一番大きな工場はトヨタのものでもシャープのものでもありません。皆さんの中にある、心です。そして、その工場で生産されるもの、それは愛です。厳密に言うと愛だけではありません。いろいろな感情が生産されますが、「愛」が一番大きいし、賞味期限も一番長いです。33の男がこんなことを言っていると気持ち悪く思われるかもしれませんが、「愛」について、わざわざ考えてみましょうか。
その前に、現在当たり前のように存在している「愛」ですが、日本では明治時代くらいまでその概念がなかったそうです。「愛」という文字はありましたが、現在のような使い方はされておらず、古典に詳しい人は知っているかと思いますが、「愛し(かなし)」と読まれていました。なんとなく言葉の流れが想像できますね。では、概念でなく、もしも「愛」そのものがなかったら、世界は今頃どうなっていたでしょうか。
大きくいうと、争いが絶えず地球が滅亡しているか、まったく争いが起きずスーパー平和かの、どちらかではないでしょうか。「平和」の定義についてはいまはおいておきましょう。
まず前者ですが、愛がないゆえに争いが絶えず、欲望(広義ではこれも愛のうち)のみが支配する世界です。その結果、あらゆるところで戦争が起き、地球が滅亡する、という考え方。
後者は、愛がなければ憎しみもなく、まったく争いが起きずに平穏無事な日々が続く世界。あるいは、一時的に争いは起きても、権力がすべてを支配し、あらゆるものを鎮圧して、表面的には静かな世の中になっていたかもしれません。
ところで僕たちは、「愛」というものをどこか神聖で清らかなもののように捉えてしまいがちだけど、「愛」は、ひとたび使い方を間違えてしまうと、恐ろしいほどの牙をむくことがあることも忘れてはいけません。愛が地球を救うこともあるし、愛が戦争を起こすこともあるのです。少なくとも、現段階では。愛の使い方を間違ってしまってはいけないのです。これに関しては以前述べたので今回は割愛します。(あ、ここにも愛という文字が!)いずれにしても、実績から見れば、愛がこれまでの地球を支えてきたのであり、もしも愛がなかったら地球は滅亡していたと捉えるほうが適切でしょう。
では「愛」はどうやってうまれるのでしょう。冒頭のとおり、工場で愛が生産されるのですが、いったいどのような工程なのでしょうか。
愛は基本的に、人と人との触れ合いによって生まれるものです。しかし、それは人だけではなく、動物やモノに対しても、それこそ目に見えないモノにも愛は生まれます。家族を愛する人、恋人を愛する人、ペットを愛する人、国を愛する人、音楽を愛する人、絵画を愛する人。僕の持論ですが(っていうか持論だらけ)、共通するのはきっと、心の隙間をうめてくれる、ということでしょう。それが人だろうとモノだろうと、心を満たしてくれたとき、それに対する愛が生まれるのです。だから、すべてが満たされ、心が満タンの人には、愛はうまれないのです。まぁそんな人はいないでしょうけど。また、仮に自分とまるっっっきり同じ人物が現れても、その人に対する愛は芽生えにくいことになります。これも現実的にはありえませんが。結局のところ、愛は心でしか生産できないのです。愛は科学で生産できないわけです。(これも格言!)そしてこれから先、どんな未来が訪れようとも、「愛」を解明できないのです。このことに関しても以前述べたので、ここでは割愛します。(あ、また!)
万が一、科学が「愛」を解明できたら、そう、科学で「愛」を作ることができたらどうなっているでしょう。「愛」のカタチが見えて、「愛」の量をはかることができる世界です。するとどうでしょう。世のなかのほとんどの恋人たちはことごとく別れていくことでしょう。愛のカタチも愛の量も、そんなこと知らないほうがいいのです。
では、愛の量をコントロールすることはできるでしょうか。もしかすると、ペットなどの別のものに振り分けることはできても、ひとつのものに注ぐ量を直接調節することは無理でしょう。
ついでですが、好きが愛に変わる瞬間がいつなのかわかったらどうでしょう。科学の進歩により、「好き」が「愛」に変わった瞬間にメールが送られてくるシステムになるのです。「好きが愛になりましたよ」と。おそらく言われてもピンとこないでしょう。愛は意識することではなく、心が感じるものなのです。(ややこしいですか?)
「愛」はわからないから偉大で、わからないから永遠なのです。そして、その愛を生産できる工場を持っている人間ってどんなに素晴らしいのでしょう。トヨタよりも、シャープよりも大きな工場を持っているわけですから。そんなことをときどき思い出してもいいかと思います。見えない世界の話ですが。
わざわざ考えてみようシリーズ、いかがでしたか。次回もしやるときは、「考えなくていいことをわざわざ考えてみようシリーズその2人はなぜ怒るとモノを投げるのか」をお送りしたいと思います。
1.週刊ふかわ | 08:16 | コメント (0) | トラックバック
2008年02月10日
第304回「永遠と一日」
今年の正月、ほぼ動かずじっとしていた僕が、一度だけ出かけた場所がありました。コンビニなどを除いて、お正月に唯一出かけた場所、それはお墓です。
自慢することではありませんが、儀式的におこなわれることや、実家の仏壇の前で手を合わせることはあっても、自発的にお墓参りというものをしたことがありませんでした。行かなきゃ行かなきゃと思っていても、日々の生活にかまけてしまい、結局いつも後回しになっていました。そんなある日のことです。
「そうだ、今日お墓参りに行こう」
朝、目覚めると、頭の中にふと浮かんでいました。なんの前触れもなく、なにかを感じていたのです。
うちのお墓は郊外にあり、たくさんのお墓が集まる、いわゆる墓苑タイプで、車だと家から高速道路を使っても2時間以上かかります。音楽を聴きながら一人、運転していると、思い出そうとしてるわけではないのに、頭の中におばあちゃんとの日々が浮かんできます。祖父は僕が生まれる前になくなり、祖母が亡くなったのは今から7年ほど前でした。僕はわりとおばあちゃん子だったので、小さい頃からよく遊んでもらっていました。元気だったおばあちゃんも、ベッドの上でチューブまみれになっているおばあちゃんも、僕がこれまで目にしていた光景が頭の中をめぐっていました。
いつのまにか建物はなくなり、周囲は自然の景色が広がっていました。途中に立ち寄ったサービスエリアは、平日の昼間ということもあってとても静かで、自販機で買ったコーヒーを飲んでいると、これまで目にしたその賑やかな印象との違いからか、どこか非現実的な空間にいるような感覚になりました。
「ずいぶん田舎だな...」
山の中に放り込まれるように、高速の出口がありました。その一帯は陶器が有名なのか、やたら陶芸の看板が目にはいります。それ以外にも、普段みかけないような珍しい店が点在し、どこか昭和の空気も漂っています。それらの光景が、またどことなく僕を異次元空間にいるような感覚にさせました。父が書いた手書きの地図と時折現れる墓苑の看板を頼りに、車を走らせていました。
「ここだ...」
目的地までの距離が徐々に少なくなり、ようやくそれらしきものが見えてきました。名前があっていることを確認し、車のまま中にはいっていくと、僕の目に衝撃的な文字が飛び込んできました。
「まさか...」
ゲートの前に「休園日」と大きく書かれた看板が目の前に立ちはだかっていたのです。こともあろうに、よりによって、はじめて自発的に向った日が休園日だとは。
「っていうか、休園日なんてあったの...」
目覚めとともに感じた何かはなんでもなく、単なる気のせいだったのか。3文字で突きつけられた現実にショックで倒れそうになっていると、奥からやってくる警備員の姿が見えました。
「すみません、今日休みなんですよ」
「そうなんですか、東京から3時間もかけて来たんですけど」
「はい、お気持ちはわかるんですけど」
「なんとかなりませんかねぇ」
「申し訳ありませんが...」
そんな感じだろうなと思いました。
「お墓参りですか?」
警備員はそう声を掛けてきました。
「はい、そうなんです、休みって知らなくて」
「建物は利用できませんが、お墓参りはできますので」
「あ、そうなんですか」
そういって、車のナンバーを控えると、彼はゲートを開けてくれました。
「よかった」
大きな3文字が脇に寄せられ、ほっとひと安心してゲートを抜けました。そこには山に囲まれた広大な敷地に、膨大な数のお墓が見えます。ほかに来園者はいないようで、静かにお墓が並んでいました。静寂に包まれた墓苑内に、桶に水がくべられる音が響き渡ります。僕はそれらを両手に持つと、何列の何番という、劇場の席を探すようにお墓を探しました。芝生を踏む音が聞こえてきます。
「おそくなってごめんね」
僕はこれまでを償うかのようにお墓を掃除すると、府川家と書かれた石の前に座り、しばらく目を瞑りました。
それは、なにかがつながったような感覚でした。お墓の前で目を瞑り、手を合わせていると、本当に会っているかのように、元気なおばあちゃんの声が聞こえてきました。普段考えすぎだからちょっと休んだほうがいいよ、そんなことが言いたかったのかもしれません。おばあちゃんの永遠と、僕の一日がつながった瞬間でした。しばらくして僕は、また来るねといって、お墓をあとにしました。
「お仕事がんばってください」
そう言って、警備員さんに見送られると、なんともすがすがしい気分になりました。これまで後回しにしていたことがようやく成し遂げられたということだけではなく、どこか心と頭の中が浄化されたようなすっきりした気分で、体もなんだか軽くなっているようでした。
これが昨年末のことで、それからというもの、すでに3回くらい会いに行っています。たくさん行けばいいというものではありませんが、すっかりはまってしまったのです。行くまでの道中、そして行った先での風景、それは一人旅にも似たところがありますが、現実と非現実の中間くらいのところにいるようで、とても楽しいのです。
お墓参りというと、どこか儀式的な匂いがしますが、もっと気軽に行ってもいいような気がします。先祖を大事にすることは大事なことですし、決して特別な日に行われなくてもいいと思うんです。だから僕の中では「お墓参り」でなく「ストーンウォッチング」と呼んでいます。こうすることで堅苦しい感じが払拭され、カップルでも行きやすくなるのです。すでに僕にとって「ストーンウォッチング」は、サービスエリアめぐりと並ぶか、もしくはそれを追い越す勢いで、趣味の領域にはいろうとしています。
永遠と一日が交わるところ、そこには見えない世界の入り口がありました。なにかあったら、いや、なにもなくても、ストーンウォッチングをおすすめします。きっと、心が満たされるから。
1.週刊ふかわ | 09:58 | コメント (0) | トラックバック
2008年02月03日
第303回「地球的にアウト!」
ではいったい世界はどんな風に変わるのでしょう。まず、資本主義はもうすぐその役割を終えようとしています。むしろ、もう終わったと言ってもいいかもしれません。たしかに資本主義による恩恵は大きかったかもしれません。高度経済成長を成し遂げ、われわれに豊かな暮らしを与えてくれました。でもそれにはブレーキがかからず、ちょうどいい所でとまることができなかったため、気付けば環境は汚れきってしまいました。地球環境がすべての根底にあるのに、それらを破壊しながら経済が発展していったのです。また、豊かな暮らしの陰で貧しい生活を強いられている人々の存在も黙殺してきました。豊かな国が貧しい国を利用し贅沢をしている。僕たちはただそれを感じていなかっただけで、いってみれば、植民地支配は終わっていなかったのです。
ようやく、そんな時代が終わろうとしています。終わらせないといけないのです。もう、資本が世界を支配する時代じゃないのです。温暖化によって環境に関心が寄せられる中で、資本家による乱暴な搾取が露呈し、もはや金があればなにをしてもいい時代ではないのです。たとえ便利でも、たとえコストが安くても、環境に悪影響を与えるもの、「地球的にアウト」なものは、世の中から消えていくのです。
ただ、傍観者であってはいつまでたっても世界は変わりません。新しい時代がずっと近くで足踏みしていることになります。そうならないために、国民一人一人が早急に意識を持たなくてはならないのです。
政治家を批判するつもりはありませんが、基本的に彼らは目先の選挙が一番大事です。そうでない人も当然いますが、全体的にはそんなものです。だからといって悲観する必要もありません。選挙で通ることしか考えていない政治家なのだから、彼らに「今回の選挙は環境問題に力をいれないとだめだ」と思わせればいいのです。つまり、国民の関心が環境に向いていれば、政治家はそれを汲み取って、嫌でも環境問題に取り組むのです。電化製品がいつのまにかエコ商品ばかりになったのと同じように、選挙のポスターには「環境」や「地球」の文字が目立つようになるでしょう。選挙に当選するためなら、地球のためができるのです。なんだか清清しくはないですが、結局のところ、国民が賢ければ、政治家をコントロールできるわけです。政府が国民の意識を反映するようになるのです。
テレビだってそうです。一連の不祥事のおかげで、国民の政治に対する関心はたかまり、そういったことを扱う番組が一気に増えました。国民の意識が高まれば、それらが反映されるのです。最近のハンドボールもそうです。関心があつまれば、メディアで取り上げられ、それによってさらに裾野は広がるわけです。そういう意味では、政府やテレビ番組、そして街並みなど、あらゆるところに国民の意識が反映されているわけです。
そもそも人間は、関心がなければびっくりするほどなにも見えてません。関心がないとまったく見えなくなってしまうのです。現にこれまでまったく見えていなかった地球の裏側が、いまになってようやく見えるようになったわけですから。そういった人間の性質を考えた上で、政策を進めていかないといけません。単なる押し付けは短命に終わります。しっかりと順序だてなければ、脱落者ばかりになってしまうのです。国民が政治家をコントロールし、政治家は国民の意識をカタチにする。決して国民より偉い政治家なんて存在しないのです。
僕たちは国民であると同時に、地球人でもあります。いくらお金があっても、権力があっても、それが「地球的にアウト」だったら、胸を張って主張するべきなのです。「でもそれって、地球的にアウトじゃないですか?」と。109で買い物している女の子も、「これって、地球的にチョーアウトだよね?」と言うべきなのです。
資本主義がおわると、これからは環境主義、地球主義、そんな言葉が生まれることでしょう。新しい時代がもうすぐそこまでやってきているのです。自国の贅沢のために他国の森林を伐採することや、コストが安いからといってはるばる遠方から輸入することが当たり前じゃなくなるのです。経済的に豊かな国が貧しい国を利用するのではなく、お互い助け合う世の中になるのです。そのためにもまず、この言葉を世の中に浸透させなければなりません。「地球的にアウト」、これが人類共通の価値観になるのです。