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2007年06月24日
第273回「環境と欲望」
「もういい加減でてってくれませんか?」
「はい?」
「いくら家賃はらっているとはいえ、ここまでやりたい放題荒らされちゃうとこっちも長続きしないんでね…」
「すみません、すぐなんとかしますんで!」
「なんとかするなんとかするって、かなり前から注意してたでしょ!」
もしも地球の大家さんがいたら、きっとこんな風に言ってくるのかもしれません。
日本が先進国と呼ばれるようになってからもうどれくらい経つのでしょう。戦後、すっかり勢いを失った日本を、当時の人たちは汗水たらして働いて日本の経済を支えてきました。それにともなって文化も発展し、いつのまにか日本は豊かな国と呼ばれるようになりました。いま僕たちはそれらの恩恵をうけているわけですが、しかし、経済が発展する一方で、その裏側では悪影響を及ぼしていたことも事実でした。先進国になるがためにやみくもに頑張ってきた陰に、何も言わずじっと耐えていたものがありました。エアコンをガンガンかけて涼しい思いをしているうちに、フィルターが真っ黒になっているのと同じように、経済的な発展に目を奪われているうちに、その真っ黒に汚れてしまった部分に気付いていなかったのです。エアコンならまだ掃除をすればどうにかなるものの、いま真っ黒になっている部分は一日の掃除で終わる規模ではありません。それは、何百年という歳月をかけて積み重ねてできたものなのです。
フィルターを汚している国と、フィルターを汚さない国、果たしてどちらが先進国と呼べるのでしょうか。「先進国」を決めるこれまでそのものさしは、おもに経済面でしたが、ようやくここへきて、それをはかるものさしが変わってきたのです。いくら経済面ですぐれていても、環境に配慮しないようでは先進国とは呼べない時代になろうとしているのです。自国の発展ばかりに力をいれているだけでは、もはや後進国、環境的発展途上国でしかないのです。
少し前に中国人の価値観が問題になりました。違法のコピーをしたり、行列に並ばない、欠陥商品が多いなど。でも、日本人も笑ってる場合じゃないのです。他人のことを言ってられないのです。環境問題への取り組みが当たり前になっている国からしたら、もしかすると日本人は「環境のことを全然考えていない、地球にやさしくない人々」と笑われているかもしれません。「京都議定書」によって日本がそれに取り組んでいるイメージがあったり、そのような団体も増え、個人の意識も高まっているものの、それでもまだ全体には波及していないようです。これまであたりまえだった自分たちの価値観をもう一度見直し、新たな価値観を掲げ、ほかの国に参考にされるような国、国民になるべきなのです。充分にその可能性はあるのです。それができてはじめて世界のリーダー、真の先進国と呼べるのではないでしょうか。もう、アメリカを参考にする時代はおわったのです。
電柱に巣を作るツバメ、ゴミを荒らすカラス、高速道路で轢かれる鹿、彼らに罪はありません。カラスはいつ悪者になったのですか。動物はなぜ人間から逃げるのですか。環境を破壊してきたのは人類であって、自然に罪はありません。
ただ、注意しなくてはならないことがあります。それは、「エコロジー」が「我慢を強いること」ではない、ということです。エアコンを使うなとか、クルマに乗るなということではないのです。なにかを制限することも大切だけど、それによって息苦しい生活になってしまっては絶対にもたないし、人間の本来あるべき姿ではないのです。大事なのは意識を変えること。それが当たり前の世の中にすること。たとえばなにかを買うとき、その奥にあるものをイメージすること。そうすることで、苦痛なものも苦痛には感じなくなるのです。
だから、環境に悪影響を与えない範囲で、豊かな暮らしを目指す、それが今後僕たちが追求するべきことなのでしょう。つまり「調和」なのです。いい日本語がありました。だからきっと、日本人は得意なはずなのです。人間を自然の一部としたならば、自然界に必要ないと判断された時点で絶滅するでしょう。かつてマンモスたちが絶滅したように、人類も絶滅してしまうのでしょうか。人は住めなくなっても地球は残るでしょう
きっと、これからの人間の行動を、自然は見ているのです。自然界から追い出されないように、環境と欲望の調和をとっていかなければならないのです。
では、実際どのようにして環境との調和、自然との共生を果たしているのか、それを実現している人々の暮らしをこれから見に行きたいと思います。いまごろ飛行機の中でしょうか。
1.週刊ふかわ | 09:30 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月17日
第272回「一人旅のお知らせ」
今週から各地で梅雨入りとなり、連日の猛暑も一旦お休みといった感じになるかとおもいきや、また真夏の暑さが返り咲きました。恵みの雨をもたらす梅雨もそれほど長続きせず、依然として水不足の不安は解消されないようです。
さて、あれから一ヶ月が経ちました。東京での2箇所のサイン会も無事に終え、ラジオを中心としたプロモーション活動もひと段落し、かつての穏やかな日々が戻ってきたように思えます。期間中は、わがJ-WAVEをはじめ、各局でロケットマンの曲を流していただき、それで知った人も少なくなかったと思います。特にJ-WAVEでは、各番組のディレクターがアルバムの中からいくつもかけてくれたようで、ほんとに六本木ヒルズには足を向けて寝られない感じです。しかし、これで満足している場合ではありません。穏やかな日々もつかのま、これから全国各地に旅に出なくてはならないのです。一般的にはそれを「全国ツアー」と呼ぶのかもしれませんが、僕の場合どうもしっくりきません。「今年もツアーまわるんですか?」ときかれて「はい、そうです」とこたえるものの、なんか体がむずがゆくなるのです。
「全国ツアー」というととても華やかなイメージがありますが、それは、EXILEとかの話で、僕の場合はむしろ旅、それもヘッドホンを持った「一人旅」というほうが合っている気がします。新幹線や飛行機に乗ってのんびりと景色を眺め、時間があれば各地の名産を食べ、クラブでDJをする。そこでお客さんたちと触れ合い、みんなと写メを撮り、病室のようなビジネスホテルのシングルルームに戻って一人寂しく寝る、これを「全国ツアー」と呼ぶには少なからず抵抗があるわけで、僕からすると「旅先での人々との交流」という感じなのです。それこそ「全国ツアー」というと、団体が各地へと移動していく感じもありますが、基本ひとりで、CDとヘッドホンとお菓子を持って旅をしているだけなのです。だから、「今年も一人旅するんですか?」「はい、しますよ!」のほうがしっくりくるのです。余談ですが、地方のクラブでお客さんたちと写真を撮ると、たいていその写真は友人にメールで送られます。だからイベントのときは局地的に僕の顔のデータが飛び交うわけです。データって不思議ですね。
今回の一人旅の目的地は、クラブだけではありません。もうひとつ立ち寄るところがあります。それは、地元の本屋さんです。旅先でサイン会もしてしまおうということです。これには、交通費がどうとかいう意外にもちゃんとした理由があります。というのも、クラブは20歳未満の人は入場できません。それに、クラブというとなにかと抵抗がある人が多いわけで、どうしても人種が偏ってしまいます。しかし、クラブに抵抗を感じる人たちでも、街の本屋さんならそれほど抵抗もなくなるはずです。本屋さんなら未成年でも入場できますし、開店時間も朝10時から20時までと、非常に健康的な時間に営業しています。当然、お酒が飲めなくても問題ないですし。ちなみに、書店によって多少の違いはあるかもしれませんが、今回の2タイトルのいずれかを購入していただいた方が対象になります。でも、遠慮せず、両方買っちゃっても全然かまわないです。
ということで今回は、クラブのDJと書店でのサイン会をしながら一人旅をするわけです。ちなみに今年も、ロックインジャパンに出場します。8月5日の日曜日、DJブースの17時すぎからです。やっぱり夏フェスはいいです。あの雰囲気がたまりません。
これらを踏まえたうえで、今回のツアータイトルが決まりました。今回のツアータイトルは、「ロケットマンのTHE SOUND OF MUSIQUE TOUR 厳密に言うと一人旅だけど、各地でサイン会もやります!あ、フェスは3日目に出ます!やっぱりフェスはいいですね!っていうかふかわの文字は入れなくていいのかな?2007 夏から年末にかけて...」
に、決まりました。簡略化すると、「ロケットマンの一人旅」になります。情報は追ってホームページなどで発表するので、もしお近くであれば、ぜひ遊びに来てください。
P.S.:
「T子の部屋」のオンエア日が変更になり、26日なりました。それと、今月のイエローのイベントは都合により欠席します。ごめんなさい。
1.週刊ふかわ | 09:30 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月10日
第271回「考えない世界」
第271回「考えない世界」
いま、陶芸をはじめようか迷っています。陶芸というと、どこか年配の人の趣味という印象があるし、自分の人生とは一切接点のないものだろうと思っていましたが、ここへきてなんだか無性に引き寄せられはじめたのです。
といっても、陶器を作りたくなったのではありません。あそこに座ってみたいのです。こんなことを言うと、陶芸をものすごく真剣にやっている方たちから文句をいわれるかもしれませんが、パイロットやレーサーに憧れる子供たちが運転席に座りたがるように、僕は、あのろくろの前で粘土を操縦する陶芸家の座布団に座りたいのです。あの場所に魅力を感じてしまったのです。座布団の上に座る職業というと、落語家さんとか、あと落語家さんとか、まぁ、ちゃんと調べればいろいろあるはずなのに、なぜあの場所かというと、自分の求める世界がありそうな気がしたからなのです。
「もう、そんなに必要ないんだから半分おいていきなさい!」
旅行の前日になるとやたら荷物を詰め込んでカバンをパンパンにしていた少年を見ては、いつも母が注意をしていました。再三の注意にも関わらず少年は、成長とともにその性格に拍車をかけ、大人になったいまでは一泊の旅行で5足の靴下をカバンに詰めてしまうほどの人間になりました。3足目以降が何用の靴下なのかわかりませんが、それくらいはいってないと気が済まないのです。過去に、靴下が足りなくなってすごく困ったという経験があるわけでもありません。もしかすると、受験勉強の副作用だったのかもしれません。いずれにしても、これはちょっとした病なのです。考えすぎ症候群なのです。なにをやっていても、その先その先を気にしてしまい、余計なことばかり考えてしまうのです。一旦原稿のことから離れようと家を出てジョギングしていても、ほかの情報がはいったことで、むしろ発想が膨らんでしまうこともあります。これでは脳が休まらないのです。そればかりか、いつも難しい顔になって周囲から話しかけづらい雰囲気をだしてしまうのです。僕は、なにも考えないで行動できる人に、憧れを抱き始めました。
「別に、向こうに行けばなんとかなるでしょ!」
たいした荷物を持たずに旅行にいけてしまう人を、誰よりも尊敬するようになりました。男性であれば単に尊敬で済むのだけど、それが女性であると、尊敬と好きの感情が混同してしまいます。手ぶらでハワイに行ってきた、なんていわれたら、ハートを撃ちぬかれてしまうわけです。だから最近まで理想の結婚相手は、手ぶらで旅行に行ける人でした。カバンをパンパンにしてしまう人のパートナーはやはり手ぶらがいいだろうということです。でも、いちいちそんなこときけないし、その一側面だけで女性を判断するのもよくないので、これからは自分の荷物を減らす、つまり自分自身がそういう人間にならないとだめだと考えたのです。
「なにも考えず行動したい!手ぶらで旅行にいきたい!」
今後の目標をきかれたら、いまはそのように答えるでしょう。そのたくましさを身につけるために僕は、考えない場所を探しました。僧侶のように滝に打たれたらいいのだろうか、長時間座禅を組めばいいのだろうか。しかしながら、滝は冷たいし、座禅は足がしびれるます。じゃぁ一体どこに考えない場所があるのだろうか、そもそもそんな場所は存在するのだろうか、それでも僕は一生懸命考えました。そんなある日、僕の頭に、ある光景が浮かびました。
「あそこになら、あるかもしれない!」
それがまさに、陶芸でした。僕は、ろくろの前に座って粘土を操っている場所に、考えない世界があるような気がしたのです。誤解されないように言っておきますが、決して陶芸が考えないで作るものだ、ということではありません。ちょっとでも考えたらそれが粘土に歪みをきたしてしまうから、陶芸を追求することは、考えない世界を築きあげることのような気がしたのです。それはある意味、無の境地かもしれません。だから、陶芸をはじめて、考えないことの練習をしようと思ったのです。
「人間は、考える生き物である」
これは誰の言葉だったでしょうか。誰の強制でもないし、自発的に率先してやっているものでもありません。そういう意味では、たしかに人間は、考える生き物なのです。「考える」を意識しはじめるとほんとに迷宮にはいってしまいます。でもその混乱具合が心地よくもあります。考える世界が宇宙なら、考えない世界はきっと、宇宙のその先にあるもっと大きな世界なのでしょう。考えない練習をしたら、その世界が見えてくるのでしょうか。考えない世界はどこにあるか、それを日々考えているのです。
PS:本日、6月10日19時より、新宿タワーレコードでアルバムのインストアイベントを行いますので、お近くの方はぜひ遊びに来てください。
1.週刊ふかわ | 09:30 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月03日
第270回「いつまでもあると思うな親と金、そして...」
そして...のあとには、なにが続くのでしょう。地位でしょうか名誉でしょうか。それとも友人、恋人でしょうか。
ロシアの首都モスクワでは、5月後半にはいってから連日のように30度を超す猛暑が続いているそうです。通常ならまだ涼しさが残る季節なのに、29日は気温が32.1度、その前日の28日は33.2度を記録し、例年の平均気温を10度以上も上回っているのです。
日本でも、毎年のように異常気象という言葉がきかれ、結局異常でない年がありません。最近では、ラニーニャ現象なる聞きなれない言葉も耳にするようになり、いよいよ地球温暖化も本格化、というよりむしろ末期といった印象を受けます。もしも人間ドックのように地球をCTスキャンしたら、きっと見るに耐えない結果が待っているのでしょう。しかし、人間はなかなかその現実を受け止めようとしません。温暖化が、地球の容態が悪化しているその顕著なサインであるにも関わらず、大胆に生活様式をかえようとしないのです。なかなか好きなタバコがやめられないのと同じように、結局人間は、自分の生活に直接影響が及ばないと大きく行動を変えないのです。医者から「やめないと死にます」って言われてはじめてタバコを捨てるように、どこかで自分の危機につながらないと、快楽を切り捨てることはできないのです。
僕たちは、温暖化を気にしつつも、心のどこかで、自分が生きているうちは大丈夫だろうと、たかをくくっています。なんだかんだずっと存在するものだろうと、勝手に決め付けているのです。でもそんなことは人間の都合のいい解釈、いわば幻想であって、真実ではありません。地球が瀕死の状態にある真実を受け止めなければならないのです。地球がいつまでも存在するなんて、絶対に思ってはいけないのです。だから、「そして...」に続くのはまさに、「地球」ということになります。
「いつまでもあると思うな親と金」
この言葉は、生きるうえで大事なこととして、どの時代も親から子へ語り継がれてきました。この言葉を小さい頃から耳にすることで、若いうちは気付かない親とお金の大切さも、あたりまえのように感じられたのです。でももはや、「親と金」だけでは不充分な時代になりました。これからの時代は、「いつまでもあると思うな親と金、そして地球」なのです。いや、いっそのこと、順番も変えていいかもしれません。何十年何百年とその地位をキープしてきた「金」が、遂に2位の座を奪われる日が訪れたのです。
「いつまでもあると思うな親と地球」
これからはこれなのです。比べるものではないけれど、金よりも地球のことを考えなければならない時代なのです。金は大事だけどそれは個人を主体とする考えで、それよりも環境を主体とする価値観に変わるのです。だから今後は子供たちにこのようなかたちで語っていかないといけないのです。そうすることで世の中が、「地球を大事にすることが当たり前の空気」になるのです。
地球環境保護団体や、個人で温暖化防止に努めている人は今現在でもかなりの数存在します。しかしながら、まだその波は全体にまで広がっていないように思えます。「田中くんってかっこいいけど地球のことなんも考えてないよね...」「お前、就職の前に地球のこともっと考えろよ」みたいに、日常的に地球を考えるようにならないといけないのです。でも、おそらくもう何年かするとそうなるはずです。みんなが毎日地球のことを考えて生活する日がもうすぐ訪れるのです。
人間がこれまで何百年とやりたい放題やってきたことへの代償は、大きいどころの騒ぎではありません。これから長い年月をかけて、地球の補修工事をしていかなければなりません。それはまさに、一人一人が自覚して、地球温暖化防止に務めることです。そうしないと、ほんとうに地球がなくなってしまいます。地球を破壊してほかの星に住むほど傲慢な生き方はありません。冗談でなく、エゴからエコにシフトしないともうシャレにならないのです。地球の未来の鍵を握るのはまさに僕たちであって、地球の未来は、いま、作られているのです。
JCCCA Web::全国地球温暖化防止活動推進センター
→ http://www.jccca.org/