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2006年01月29日

第205回「背中」

番組が終了し、会わなかった時間を取り戻すかのように、今年にはいってから顔を合わす機会が増えました。ことに今週に関しては、映画の公開やCDのリリースなどが一気に重なったこともあり、僕たちはほとんど毎日会うようになりました。それは、まるで家族が集合するような、そんな感じがしました。
 「映画は、作って半分、売って半分」と言われるくらい、宣伝活動が非常に重要になってきます。東京のみならず、地方でも積極的に宣伝活動をすることによって、世の中の空気を作る必要があるのです。東京でのあらゆるテレビ、ラジオ番組に出演するだけでなく、地方での番組出演や雑誌の取材、試写会の舞台挨拶などを一日に詰め込むのです。だからスケジュールを見ると、まるでハリウッドスターが来日したときのような、分刻みの予定が組まれているのです。きまってどの番組や雑誌も、だいたい質問事項が似通ってくるので、一日に何度も何度も似たようなコメントをしたりするわけです。だから時折、今までにない質問がでたりすると物凄く新鮮に感じたりするのです。
「いやぁ、うまかったなぁ。腹いっぱいだよ」
一日のハードスケジュールを乗り越えた僕たちは、北海道の海の幸を堪能し、お酒を飲みながら、互いの労をねぎらっていました。
「次、どうしようか?」
札幌の夜は長いものです。
「明日は何時出発なの?」
「朝6時半にホテル出発です」
札幌でのプロモーションの翌日は仙台で行うことになっていました。
「じゃぁ、、、今日はやめとくか」
「そうっすね」
翌日の朝が早いことを考慮し、特に羽目をはずすことなく、そのまま部屋で就寝することになりました。
「いやぁ、昨日無茶しないでよかったよ」
翌朝、空港に向うバス中で、昨日の判断が正しかったことを改めて感じました。とはいうものの、連日のプロモーション活動は老体にはきつかったようで、みんなの足取りは、決して軽いものではありませんでした。
「今日の夜東京戻って収録があるなんて信じらんねぇな」
仙台でのキャンペーンのあと東京に戻り、映画の宣伝を兼ねた、番組の収録が控えていました。
「厳密に言うと、そのあとダンスリハもありますけど、、、」
翌日に控えた音楽番組用のダンス練習が最後に残っていました。だから移動中は睡眠時間にあてればいいのに、僕たちはずっと、とりとめのない話をしていました。以前、番組のロケの移動中に感じた空気がまた、車内に流れていました。スタジオで話し、移動中も話し、楽屋でも話し、僕たちはずっとくだらない話をしていました。
「それではそろそろ舞台挨拶となります。よろしくおねがいします」
そう声を掛けられると、それまでくだけていた表情も、一瞬緊張が走ります。みだしなみをチェックすると、監督を先頭に続々と楽屋をあとにしました。そこから舞台袖までは一般の通路を使わないので、関係者しかはいれない、薄暗い裏の通路を歩いていきます。舞台袖につくと、観客席からの熱気がこぼれてきました。
 落花生の花言葉は「仲良し」だそうです。映画「ピーナッツ」は、監督を中心とした仲間たちの力が結集した作品であることは、作品に携わった人が皆感じていました。僕が、今回「ピーナッツ」の撮影から公開までを通じて強く感じたのは、「映画は、センスや才能で撮るものではない」ということです。映画の公開までの道程には、テレビ以上に多くの人々の力が必要になってきます。膨大な人が動かなければ、公開まで辿り着かないのです。当然、お金も必要です。しかし、膨大な人を動かすのはきっと、お金じゃないのです。心なのです。お金だけでは、「あの人のために頑張ろう」という気持ちにはならないのです。お金だけでは世の中は変わらないのです。みんなの力を結集するには、それらを集めるべく、人としての器、人間性がないとだめなのです。そういう意味でも、内村監督は、監督になるべき人物なのだと、あらためて感じました。
「ではさっそく登場していただきましょう!」
舞台に登場するときはいつも僕が最後でした。監督から順に拍手を浴びていく姿を僕は見ていました。暗闇から飛び出していく先輩たちの背中はまぶしく、とても大きく見えました。それらを間近で感じることができたことは、後輩である僕にとって、かけがえのない経験だったと思います。「子は親の背中を見て育つ」と言いますが、「芸人は、先輩芸人の背中を見て育つ」のかもしれません。だから、あの大きな背中を間近に見た以上、否が応にも成長しなくてはならないです。
 東京では昨日から公開になりました。監督のあたたかさがスクリーンからにじみでてくることでしょう。内村ファミリーの力が結集した映画「ピーナッツ」、是非劇場で感じてください。

1.週刊ふかわ | 10:00

2006年01月22日

第204回「黄金の町」

 長距離列車に乗ってウィーンを発った僕は、駅構内の喫茶店で買ったコーヒーを片手に、窓から冬の景色を眺めていました。頭の中で、「世界の車窓から」のテーマが流れています。

「これなんだよ、こういうことなんだよ!」

流れゆく景色が街から次第に森へと移り変わり、いつの間にか真っ白な世界が広がってきました。僕は旅行用にためてきた曲を聴きながら、ひたすら続く雪景色を堪能していました。といっても、日本の雪景色となにが違うかというと、特別違う要素はないのかもしれません。おそらく違うのは見る側の気分であって、「これがヨーロッパの景色なんだ」と思うからそのように感じるのでしょう。

「でも、なにかが違うんだよ」

そんな自問自答を繰り返しながら、雪山を抜ける列車の旅を楽しんでいました。途中パスポートの提示を示唆されると、自分が国境を越えるんだという実感がわいてきます。いくつもの山々を抜け、やがて赤い色をした屋根の家を多く目にするようになってくると、長距離列車の旅もまもなく終わろうとしていました。そこから乗り継ぎ、地下鉄から地上に出てみると、目の前には想像をはるかに越えた、美しい街並みが広がっていました。ウィーンから列車で3時間半。僕は、黄金の都、プラハに到着したのです。

 プラハというのは東欧チェコの首都です。チェコというと、僕らの世代はチェコスロヴァキアという響きのほうが馴染み深いかもしれません。現在のチェコになったのは1998年のことで、それまでの歴史をひもとくと、まさに共産党支配下における苦しみから自由を勝ち取るまで、激動の時代を経てきたことがわかります。「プラハの春」や「ビロード革命」などはもしかすると歴史で習ったのではないでしょうか。激動の歴史を経てきたチェコですが、社会体制こそ変動したものの、そこにある建物は、かつてのままに残っています。それはまるで中世にタイムスリップしたかのようで、時間がとまっているようにも思えます。実際、「黄金の町」だけでなく「魔法の都」など様々な呼称があるわけですが、言葉がひとつにしぼれないのは、それだけ幻想的な町だからでしょう。

 すっかり石畳を歩くことに慣れた僕は、ホテルに荷物を置くと、町を散策することにしました。その中心を流れるヴルタヴァ川の東には歴史の舞台となった旧市街があり、西側にはプラハのシンボルであるプラハ城がそびえ立っています。そしてこの西と東の間に、カレル橋というとても神秘的な橋がかかっているのです。東西両側に赤い屋根の家並みが続き、ゴシックやルネサンス建築の教会や宮殿もいたるところで見られます。写真を撮り出したらきりがなくなってしまうほど、どこにいてもわくわくさせてくれるのです。パリやウィーンが多少現代的な建築物や商業的な看板などがあるのに対し、プラハではそういったものがほとんど無く、そういう意味では、プラハの町はどの部分を切り取っても、絵画のような光景になるのです。

プラハの夜はさらに幻想的な雰囲気に包まれます。プラハ城はライトアップされ、オレンジ色のあかりで照らされた街並みと、それらを映し出すヴルタヴァ川がとても神秘的に輝いているのです。その上に浮かぶカレル橋から眺めると、まるで町全体が黄金に輝き、それこそ魔法にかけられたかのように思えてくるのです。また、どことなく悲しげな印象も受けました。自由を得られなかった時代を経て残った光景は、物質としては老朽化しているものの、その輝きは時代と共に増していくのではないでしょうか。プラハは色褪せることのない、黄金の町なのです。

 数日後、再び世界の車窓からごっこをしてウィーンに戻ると、どこか魔法をとかれた気分になりました。あれほどまでに感動したウィーンでさえも現実的に感じるわけだから、よほどプラハが幻想的な町だったのでしょう。最終日、モーツァルトチョコレートを大量に買って、空港に向いました。

 それにしても、毎年感じるのは、やっぱり日本人だなぁってことです。旅行中はもう、おせんべとかうどんとか、白いごはんとかおさしみとか、とにかく和食、とくにしょうゆ味が恋しくてたまりませんでした。日常の味を求めて駆け込んだマックだって、日本のと微妙に味が違うから、どうしてもテンションが下がってしまうのです。景色は非日常がよくっても、やはり食べ物に関しては日常じゃないとだめなのかもしれません。成田に到着すると、およそ一週間ぶりの太陽が、突き刺してきました。十数時間ほど前までは、昔の建物に囲まれていたから、高速道路脇に並んだ背の高いビルを見ると、なんだか未来に来たような気分になりました。そして念願のおそばやさんに寄り、久しぶりのしょうゆ味に再会しました。やっぱり日本が一番だと、いつまでも感じていたいものです。

プラハ城の近くに作家のカフカの家が残っています。今はちょっとしたお店になっているのですが、そこで買ったプラハの本を眺め、当時を思い出しながら原稿を書きました。ボキャブラリーを駆使してどうにか想像してもらおうとしましたが、やはり百聞は一見にしかずです。ぜひとも一度見にいってほしいものです。あっ、年賀状、年賀メールありがとうございました。

1.週刊ふかわ | 10:00

2006年01月15日

第203回「誓い」

 どこからともなくヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」が流れてくると、人々は手を取り合い、ワルツを踊り始めました。ライトアップされたシュテファン寺院の先端を追い越すように花火が上がり、そのたびに歓声が起こりました。現代的な建築物など一切無いその通りには、露店が並び、人々は瓶を片手に歌っています。まさに音楽の都ならではの光景でした。

 そもそも僕がお正月を海外で過ごすという考えを抱き始めたのはつい最近で、30歳を過ぎてからでした。お正月といえば若手芸人の書き入れ時であり、連日の生放送にたくさん出演することが、ある意味ステータスでもありました。若手芸人に正月なし、くらい思っていました。しかし、芸歴10年を越え、年齢こそ近いもののもはや若手とは言えなくなると、そろそろ自分の時間も作らなくちゃと感じ始めたのです。それまでずっと我慢してきた海外へ旅する時間を積極的に設けるようにしたのです。その一発目が去年の正月でした。おばがフランスに住んでいることもあり、パリのオープンテラスでカフェオレを飲みながらお正月を過ごしたわけです。エッフェル塔や凱旋門を見ることよりも、カフェでカフェオレを飲みたかったのです。ルーヴル美術館よりもベルサイユ宮殿よりも、カフェでカフェオレを飲むことが最大の目的だったわけです。ちょっとむかつくでしょ?

そんなことですっかり味をしめてしまった僕が今年の正月に過ごす場所として狙ったのが、音楽の都ウィーンだったのです。同じ芸術の都ではありますが、どちらかというとパリは絵画でウィーンは音楽といえるでしょう。モーツァルトやベートーベン、前述のヨハン・シュトラウスなど、偉大な作曲家は皆、ウィーンで活動をしていました。ウィーン少年合唱団やウィーンフィルなんて言葉は聞いたことがあると思います。またモーツァルトに関して言うと、今年はちょうど生誕250周年ということもあって、世界のクラシック愛好家が関心を寄せているのです。僕がテレビで時折自慢げに演奏するトルコ行進曲はモーツァルトの曲で、いってみれば、現代でいうトランスを作曲していたようなものかもしれませんね。

「ということで明日から行ってくるから」

年末のロックフェスを勝手に仕事納めに設定した僕は、お正月の生放送を放棄するかのように日本を発ちました。昨年のパリは年を越してからだったけど、今回はウィーンで年を越すことにしたのです。実際ウィーンという街は、昔教科書に出てきたと思いますが、ハプスブルク家時代の色が濃く残っていて、王宮や宮殿などを中心に、当時の建造物をたくさん目にすることが出来ます。また、音楽の教室の後ろに飾られているような作曲家たちの像などが点在していて、普段クラシックを聴くような人にとっては非常にテンションのあがる街なのです。逆にいうと、そういった関心がなければ、なんの魅力もない街に感じるかもしれません。僕自身、もしピアノに出合っていなかったら、ワイドショーのレポーターを尻目に、スーツケースをひいて、ワイハに行っていたかもしれません。ましてや、ヨーロッパの冬なんて異常に寒く、空もどんよりとして、気が滅入るほどです。寒い日本を抜け出して、もっと寒いところへ行くのです。食べ物だって、お肉ばっかりで日本人の口には合わないでしょう。そんなところに行って楽しいのかというと、決して楽しくなんてないのです。つまり、よほどのことがなければ、わざわざ冬のウィーンなんて行く必要なんてないのです。でも僕には、よほどのことがあったのです。

「ここらへんにベートーベンの家はありますか?」

ウィーンはドイツ語が主体ですがたいてい英語も通じます。受験で培った英語を駆使し、大きな犬を連れた男性に声を掛けました。すると、おそらく男性は「ベートーベン」という単語を聞き取った段階で了承したようで、吹雪にもかかわらず、快く案内してくれました。

「ここで生活してたのか...」

ウィーンから電車とバスで30分ほどのところにハイリゲンシュタットという町があります。ここはまさに、ベートーベンが生活していた町として世界的に知られているのです。ちなみにベートーベンが生まれたのはドイツですが、22歳の時に活動の拠点をウィーンに移し、何百回もの引越しをしたようです。このハイリゲンシュタットにはベートーベンが住んでいた家がいくつも残っているのですが、この地が特に有名になったのには理由がありました。それは、ベートーベンが遺書を書いた家があるからなのです。

「ここが遺書の家か...」

吹雪の中到着すると、コートもすっかり真っ白になっていました。聴覚が戻らなくなってしまったことに絶望したベートーベンが弟宛に遺書を書いた家が目の前に立っていました。中に入るとそういった遺書や楽譜などが展示されていました。時期のせいか他には誰もいなく、部屋でベートーベンの像と対面すると、まるで天から声が聞こえてくるかのようでした。しばしば、音の聞こえない音楽家は目の見えない画家にたとえられます。彼は、どれだけ自らの人生を悔やんだことでしょう。それでも頭の中で響いている曲を書き続けたのです。そんなことに感動しながら、近くの広場にある彼の胸像のところに行きました。相変わらずの吹雪の中、僕はベートーベンを前に、誓ってきました。今思うと、ベートーベンの写真だけなぜか、どれも吹雪の中でした。

ウィーンでカウントダウンをし、ベートーベンに会い、偉大な作曲家たちと写真を撮りまくっても、僕はまだ帰りませんでした。まだ行きたい場所がありました。そこに向かうために僕は長距離列車に乗っていました。それでは次週にしましょう。

1.週刊ふかわ | 10:00

2006年01月01日

第202回「happynote.jp」

 あけましておめでとうございます。昨年中は大変お世話になりました。クリスマスのときにはプレゼントをたくさん頂きまして、本当にありがとうございました。入浴剤や癒しグッズ、衣類など、僕のことを理解しているなぁというものばかりで、みなさんの愛情を感じました。中でも一番多かったのが「お菓子」ということで、30過ぎた大人がこんなことでいいのかと思いましたが、これも僕のことを理解してくれている証だと感じました。
 さて、一月一日になりましたね。素敵な年越しを過ごしましたでしょうか?本来なら、今日のような日は配信もお休みするもので、翌週からが新年一発目、みたいなことになるのですが、この第202回を今日配信しなければならないのには理由がありました。というのも、知っている人もいるかと思いますが、今日からホームページがスタートするのです。僕のホームページです。これまで正式なものがなかったのも不思議ですが、確かに公式ホームページというものは存在しなかったのです。なので、ファンの方が設置してくれたものが、情報的にも信憑性的にも、公式サイトみたいになっていました。しかし、いつまでもそこに頼っていてはよくなくて、実際情報の責任みたいなのもあるので、「ふかわりょう公式ホームページを作ろう!」と重い腰を上げたのは半年ほど前のことでした。それから僕の理想形と予算との戦いの日々が続き、ようやく今回のような形になりました。ただ、今日からスタートとはいっても、どうしても工事中の箇所はいくつかあり、未完成の空気が払拭できないのですが、世界観だけでも感じてもらえればと思います。ちなみに僕がイラストによってだいぶ美化されていますが、そこらへんはご了承願います。
そしてホームページのタイトルである「happy note」は、「happy」な「note」ということですが、この場合の「note」は大学ノートとかのノートじゃなくって、音のほうの「note」です。つまり「blue note」に対する言葉ですね。ゆくゆくはハッピーな音があふれるホームページにしたいものです。また、この中では「ふかわりょう」としての活動と、「ロケットマン」としての活動を併記することで、僕という人間を両面からわかってもらえればと思います。おそらく今年は、ロケットマンの活動を気持ち強める予定なので、このホームページでチェックしてもらえればと思います。とはいうものの、このホームページのエンジンがちゃんとあたたまるまでは半年くらいかかると思うので、何卒長い目でお願いします。なにか不都合などがあったらその都度教えてくださいね。また、今回このホームページ作成にあたり僕のイメージ、理想像、わがままをきいてくれたスタッフの皆さん、本当にありがとうございました。
 さぁ、200回記念の温泉はどうしましょうか。いつ、どこへ、そして何人で、しかも予算はどうするのか?どうやって抽選するのか?など年明けから問題山積みです。来週はお正月休みということで、配信はありません。次回第203回は1月15日となります。2006年も「週刊ふかわ」、そして「happy note」をよろしくお願いします。

1.週刊ふかわ | 10:00