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2005年11月27日
第197回「デリートマン」
あまり大きな声では言えませんが、僕は「捨てる」ことがあまり得意なほうではありません。ちょっとした紙袋から書類、衣類など、確実にいらないと思われるものも、ひょっとしたらいつか必要になるかもしれないと、とっておいてしまうのです。だから部屋の片付けをしても結局捨てられないでいるから、ただ場所を移したにすぎないことが多々あるのです。でも、もっとも捨てられないのは、そんなに場所をとるものではありません。デジタル化のおかげで容易に保存できるようになった、大量のデータです。物理的に目には見えない「データ」を捨てられなくなっているのです。
「えっ?メモリーがいっぱい?!」
彼は、新たに電話番号を登録しようとしたところ、ケータイのメモリーがすでに満杯になっていて、新規登録できなくなっていました。
「じゃぁ、なにか消さないとなぁ...」
すでに登録されている700件のデータを流して見ました。
「これも必要だし、これもかけることあるし...だめだぁ、なんだかんだどれも必要だぁ...」
たまにかけるどころか、ほとんどかけたことのない番号さえも、もしかしたら必要になるときがくるかもと、彼は消去するのをためらっていました。
「まいったなぁ...これじゃ、一個も消せないや...」
するとどこからともなく、声が聞こえてきました。
「そのメモリー、本当に必要ですか?!」
「えっ?誰?!」
「不要なデータをやっつける!デジタル時代のヒーロー!その名も!デリートマン!!」
目の前に、正義の味方なのか敵なのか、パッと見よくわからない男が突然現れました。読者の想像に委ねます。
「デ、デリートマン?!」
「そう!紙切れから恋人まで、不要なものはなんでもデリート!さぁ、そのケータイをかしてごらん?」
「なんでよ、いやだよ!」
「だっていま言ったじゃない!メモリーが一個も消せないって!」
「言ったけど、アナタには関係ないでしょ!」
「いいから見せてごらん、ね?とりあえあず一回かしてよ!」
彼は渋々ケータイを渡しました。
「うわぁ、こりゃひどい!無駄な登録ばっかりだ!」
「無駄なんかじゃないよ!失礼だなぁ...」
「デリートマンに任せてくれたらこんなのすぐに100件になるね」
「だめだよ!全部必要なんだから!」
彼はケータイを取り返そうとしました。
「果たしてそうかな?じゃぁまずこれを見てごらん!」
ケータイの画面を目の前に突きつけられました。
「これは?」
「前の彼女だよ...」
「そうだね!じゃぁ早速、前カノのカオリちゃんのメモリーを、デリート!!」
男は、自由の女神のように、ケータイを掲げました。
「ちょ、ちょっとまってよ!!」
「なに?」
「なんで消すの!!」
「なんで消さないの!!」
「だって、またかけることがあるかもしれないし、かかってくるかもしれないでしょ?」
「だめだなぁ、キミは...」
男はケータイをおろしました。
「そんなんだからいつまでたっても成長しないんだよ」
「だって、いくら昔の彼女だって、かかってこないとはいえないでしょう?」
「たしかにそうかもしれない。でもね、ちがうんだ。キミはただ、捨てることを恐れているだけなんだ。捨てることを恐れる、デリート恐怖症なんだ」
「デリート恐怖症?」
彼は目を丸くしました。
「そう。自分でもうすうす必要ないとわかっているのに、もしかしたらいつか必要になるかも、という極めて少ない可能性を信じ、捨てられなくなってしまう。ある意味、想像力が捨てる行為を妨げているとも言えるかな」
「でもそれって、別に悪いことじゃないじゃない」
彼も黙っていませんでした。
「たしかにとっておくことは悪いことではないよ。もったいない、と言う言葉はそのまま海外に輸出されているくらいだからね。でもね、だからといって、やみくもにためていって、それを守ってばかりで、身動きが取れなくなってはだめなんだよ。守るものが重過ぎると、空を飛べなくなっちゃうんだよ」
男は近くにあったペットボトルの水を一口飲みました。
「この60ギガのアイポッド。そしてデジカメには512メガバイトのメモリーカード。これらは便利でいいかもしれない。デジタルになったおかげで、大量のデータを身につけることができた。しかし、キミはきっと感じているはずだ。そんなに必要ないってことを。それなのに、蓄積することで満足してしまう。電話番号なんて、昔はよくかける友人2,3人くらいが頭に入ってる程度だったのに」
「でも、別にデータなんて場所をとるものじゃないんだから、60ギガだろうが100ギガだろうがいいじゃない」
彼は言いました。
「それもちがうんだよ。キミは、大きさを求めているんじゃないんだ。仮に30ギガのを買って、万が一足りなくなったら、という不安を解消したいだけなんだ」
「そりゃそうでしょ。じゃぁ、もしそうなったらどうしたらいいのさ?」
「そういうときは、我慢すればいいんだ」
男はきっぱり言いました。
「我慢?」
「そう、僕らには我慢という、何事にも屈しない、最大の武器があるんだよ。なのに、便利さにおぼれて我慢することを忘れてしまった。我慢することを避けようとするようになってしまったんだ。我慢できないからすぐにキレてしまうんだ。子供たちがそういった事件を起こすのは、まさに我慢できない子供たちが増えているからなんだよ。だから、学校で我慢することを学ばせなければいけないんだよ...」
「なんとなくわかるけど、それとケータイのメモリーと...」
男は、彼の言葉を制するように言いました。
「つまり...人間は欲望に負けてしまっているだけなんだ!」
「欲望?!」
「そう。人類がどんなに優秀な生き物でも、どんなに便利なものを開発しても、結局欲望を追い越すことはできないんだ。人間の欲望は、一旦満たされてもやがて嵩がへり、物足りなくなってしまう。一つの欲望が満たされても、またあらたな欲望は生まれる。欲望という器は底なしなんだ。なのに人類は欲望を満たすために文明を発達させてきた。欲望を満たし続けてきた。でも、どうだろう?人類はこんなにも欲望を満たしてきたと言うのに、いまだに満足していないじゃないか。それどころか、ストレスだなんだと、悩みだらけじゃないか。人類の未来はどうなってしまうんだ。便利さを追求した先に幸福はあるのか。もしかしたら便利さこそが人類を苦しめているのではないか。ならば、欲望を満たすことを追及するのではなく、欲望に翻弄されない、我慢する力を追及するべきではなかろうか。人類が欲望のままに進んでいたら、きっとなにが便利なのかもわからなくなり、やがて滅びてゆくだろう。人類の敵は、まさに欲望なのだ」
二人の間に沈黙が流れました。
「あ、ごめん、だいぶ大げさになっちゃったね...とにかく、僕が言いたいのは、ためる便利さも大事だけど、それと同じくらい捨てる勇気も大事ってことなんだよね。捨てることはけっして悪いことじゃなくて、むしろ素敵なことなんだ。捨てることで、新しい自分に変われるんだよ。だから...」
「わかったよ。消すよ。デリートマン!」
彼はケータイを自由の女神のように掲げ、メモリーを一つ消去しました。
「いいぞ!新しい自分に生まれ変わるんだ!」
みるみるうちにメモリーが消去され、男が言っていたように、100件にまで減少しました。メモリーを削除できないとき、捨てる勇気がないとき、そんなときは叫んでみよう。アナタの部屋にも、デリートマンがやってくるかもしれない。
P.S.
自然とこういった文章になってしまうのは、日常生活に疲れている証拠だなぁ。温泉とかいきたいなぁ。
2005年11月20日
第196回「ピーナッツ」
「ただいまから、映画ピーナッツの試写会を行いたいと思います。ごゆっくりお楽しみください」
スタッフの人がそう挨拶すると間もなく、試写室とはいえもはや映画館と変わらない設備の整った会場はゆっくり暗くなりました。
「遂に始まりますね...」
「いやぁ、緊張するなぁ...」
隣に座っている監督と言葉を交わすと、じゃぁあとでな、という風にスクリーンのほうに向きなおしました。暗がりではあるものの、頭をさわったりするしぐさに監督の緊張がひしひしと伝わってきました。監督にとって初の監督作品であり、それの試写会ということは、ある意味、客観的な反応を始めて体感するわけで、どんなに自信があっても緊張しないわけはなく、もはや唾をのんで見守るしかないわけです。
その監督の右隣には三村さん、大竹さんらが座り、僕は逆の隣に座っていました。それぞれに期待と不安を抱えながら座っていたと思います。単純に作品として楽しみではあるものの、果たして自分は与えられた役をしっかり演じきれているだろうか、空気をこわしていないだろうか、笑いはうまれるだろうか、そんな責任感がのしかかってくるわけです。だから、監督ほどではないものの、緊張せずにはいられないわけです。ただ、僕には出演者としてでなく、もうひとつの役割がありました。
「音楽を担当してくれないか」
監督の口からそんな言葉が飛び出したのは、今年の初めの頃でした。
突然そんな話があったとき、正直、戸惑わずにはいられませんでした。というのも、映画にとって音楽は、世界を盛り上げることも壊すこともできてしまうとても大切な要素です。だから、いくらやりたいことであっても自分の好奇心だけで軽率に受けてしまってはいけないと思ったからです。
「是非、やらせてください!」
頭の中のもうひとりの自分が、引き受けちゃって大丈夫なの?しらないよ?と冷静に見ていました。でも僕は、監督が僕に声を掛けてくれたことの重大さ、意味を考え、絶対にそれに応えなくてはならないと思い、引き受ける事を決めました。監督は、僕にチャンスを与えてくれたわけです。そうして僕は、「ふかわりょう」としての役割と「ロケットマン」としての役割を担うことになったのです。
もともと家にいるときはこの原稿を書いているか、曲をいじっているかという地味な生活なので、その日から生活が忙しくてわけわからなくなるということではありませんでした。しかし、曲を作る上でいままでと大きく違うことは、「状況にあった音楽を作る」ということでした。
僕のパソコンのハードディスクの中には、膨大な量の曲がたまっています。完成された曲もあれば、未完成のままの状態のものも多いのですが、その数は今でも増えていく一方で、まるで地上で羽ばたくことを夢見る蝉の幼虫のように、何年も地中に眠っているのでした。でも、そういった曲のほとんどが、仕事から帰ってきてなんとなくピアノを弾いていたら、「あ、この感じいいな」という部分を見つけ、そこから広げていった曲ばかりで、美化して言えば、体内から湧き出てきた曲ばかりでした。しかし、今回の場合、映画のサウンドドラックになるわけで、あくまで映画のための音楽なのです。ということは、そのシーンにあった曲、例えば悲しい状況だとか、不安な状況だとか、そういった状況に合わせた曲を作る作業になるので、それまでのような作り方では追いつかないのです。さらに、主張が強すぎても駄目だし、なさすぎても駄目なわけで、それに加えて監督のイメージもあります。だから僕は思ったのです。
「とにかく作るしかない!」
作るだけ作って、「これはこのシーンに使える。これはもうちょっとこうすればあのシーンに使える」と、多少効率は悪くても、監督のイメージにはまるまで作るだけ作ろうと思ったのです。そんなことを何度も繰り返し、アレンジャーの方のバックアップもあり、ようやく音楽を必要とするシーンの曲をすべて完成させるにいたったわけです。
「ロケットマン」という文字がスクリーンを上昇していくのを見ると、なんともいえない感動が押し寄せてきました。作品としてできあがったいま、あのときに断らなくてよかったと痛感しています。支えていただいたスタッフの皆さん、そして、ロケットマンとしてDJはしているものの曲制作においてはあまりに未知数の多い僕に、音楽という重要な役を与えてくれた内村監督に、感謝の気持ちでいっぱいです。いままでバラエティーでお世話になったお返しの一部になれば嬉しいです。そして、この作品が公開されるのは来年1月下旬の予定です。まるで、番組の卒業制作のようなタイミングになりましたが、実際、あの時だから作れた映画だったんじゃないかと、僕は思います。これは見ないわけにはいかないです。
2005年11月13日
第195回「言葉の力2」
言葉には計り知れない力がある、ということは前回でわかってもらえたことでしょう。むしろ、言われなくてもわかってたよ、なんて人も少なくないと思います。さて今回は、僕がかねてから苦悩していた、「言葉の力でなにができるだろうか」「言葉の力を世の中のためにもっと活用できないだろうか」ということについて言及したいと思います。
たとえば、コンビニのトイレの張り紙に、こんな言葉をよく見かけます。
「いつも清潔にお使いいただきありがとうございます」
これはまさに言葉の力を利用したもので、「トイレは清潔に!!」なんていうのよりも抜群に心に響くのです。これを見た人は、「あ、そうだね、きれいに使おう!」という気になるのです。頭ごなしに言われるよりも、感謝の気持ちのほうが受け入れやすいわけです。
「ほんとみんな綺麗好きだからやることなくってまいっちゃいます!」
ちょっと嫌味なくらいまで言ってもいいかもしれません。つまり、人に何かを伝えるとき、同じことを意図していても、言葉の選び方、並べ方次第で、その伝わり方は全然違ってくるということなのです。特に、人に何かをしてもらおうというときは、いくら言葉を投げてもそれが力のないものだと人は動かないものです。人の心を動かすには、力のある、生きた言葉が必要なのです。どんなに強い信念をもった政治家でも、生きた言葉を使えなければ、世の中に伝わらないということです。
「シートベルトをしめましょう」
車を運転しない人でもよく目にする言葉だと思いますが、これなんかはほんとにクソみたいな言葉を使ってるなぁと思うのです。たしかに意図はそうだとしてもあまりに無機質で、センスも知恵も一切感じられません。ただ並べているだけで、ほんとにシートベルトをしてほしいんだ、という情熱が感じられないのです。こんなんじゃ、人の心は動かないのです。あってもなくっても同じようなものなのです。もっと心に響く、生きた言葉を使うべきなのです。
「いつもシートベルトしてもらってありがとうございます。今後もひとつよろしくおねがいします」
トイレの張り紙風に表現するとこうなります。さらに「お願いします」を「お願いしやす」にするだけでも、腰の低さが伝わり、じわじわ効いてくるでしょう。
「大変お手数かけて申し訳ありませんが、シートベルトのほうを少し...すみません、いつもわがままばかり言っちゃって...」
これくらいへりくだって言われるとさすがにしないわけにもいかないでしょう。とても謙虚なお願いです。スペースに余裕があれば、「...あと、この前もごちそうになっちゃってすみません...」などのオプションフレーズを足すことで、器のでかい人間だという自覚がうまれ、率先してベルトを着用するでしょう。
「あいつ...あの時シートベルトさえしてれば今頃...」
情に弱い日本人向けの表現です。やはり情に訴える言葉は心に響きます。オプションフレーズとして、「今頃グラウンドで...」などのワードを足すと、何らかの選手だったんだという具体性が増し、よりイメージしやすくなります。
「よぉ久しぶりー!元気?シートベルトは?しないの?!」
まるで旧友かのよう感じをだしちゃうのもいいでしょう。フレンドリーな空気は相手をリラックスさせ警戒心を解いてくれます。オプションとしては、「葉書とどいた?田所結婚するんだってな!」という、共通の友人の話題なども有効でしょう。
「陽介、変わっちゃったね...だって、前の陽介はシートベルトしてたもん...変わっちゃったね...」
このように、恋愛タッチに表現されるとまたグッとくるものです。なにがそうさせてしまったのか、東京が陽介を変えてしまったのか。昔の彼女の言葉にはっとさせられるのです。オプションとして、「わたし、東京って好きになれないな...」などがおすすめです。
「シートベルトがあなたの人生をバラ色に変えます!」
これくらい大げさなのも結構いいと思います。英語的な表現ですね。
「しないと死ぬわよ! 数子」
「殴られたくなきゃシートベルトくらいしろよ! 力也」
「シートベルト、しめとくもんだなぁ...みつを」
「このカチッっていう音、素敵だよね! 修造」
「え、なに?シートベルト?いいよしなくて! ウエンツ」
このように、著名人の力を借りると、言葉がより生きてくる場合もあります。標語のポスターなどに有名人が使用されるのもやはり、普通のおっさんが言うよりも伝わりやすいからでしょう。キャラクターによってはウエンツ氏のように、あえて逆のことを言わせて反面教師的な扱いにするのもいいかもしれません。他に考えられるシートベルトの標語をいくつか見てみましょう。
「ねぇ、そろそろシートベルトしてくれない?もう57回くらい言ってるけど...」
「シートベルトしろよ、バイトのクセに!」
「あの、シートベルト...ちっ!誰も聞いてねぇや!」
「ねぇパパ、どうしてママはシートベルトしてなかったの?ねぇ、どうして?!」
「いま時間ないから簡単にいうけど、シートベルトだけしめといてくれない?」
「俺もさぁ、立場上しなくていいよとは言えないのよ、だからシートベルトだけたのむよ...」
「ほら!シートベルトしないから三田さん怒っちゃったじゃないか!」
「そんないやらしいことばっかり考えてないでシートベルトしなさいよ!」
「みんな、おまえがシートベルトするの、待ってるぞ」
「村中のみんなが、お前がシートベルトするの、待ってるぞ」
「おじいちゃんが最期にこう言ったの、シートベルトだけはしなさいって...」
「今週の第3位、TOKIOで、しなくちゃ!シートベルト!」
大切なのは、伝えること、表現することを甘んじてはいけない、ということですね。どんなに自分の頭の中にしっかりとしたビジョンがあったとしても、それと同じ形、同じ温度を相手に伝えることは決して容易なことではなく、ましてや人の心を動かしたいときは、言葉の中に情熱がこめられてないとだめだということですね。言葉は、発する人の熱意や知恵によって、そこに力が宿るものなのです。だから、日本語ブームと言われる昨今、正しい言葉を使うことも大事ですが、温度のある言葉を使うことも大切ですね。
2005年11月06日
第194回「言葉の力」
最近「日本語」を扱った番組を多く目にします。数年前から「日本語ブーム」なんていう声がきこえていましたが、その頃から日本語関連の著作物は売れ続け、いまだに店頭に平積みされていたりします。かつての血液型がそうだったように、どこかの局で成功すると、それに続けとばかりに各局で同じような番組を放送する風潮もどうかと思いますが、連日放送されている状況はまさに「日本語ブーム」を象徴しているといえるでしょう。そもそも「日本語ブーム」というのもおかしな話で、「英会話ブーム」「中国語ブーム」みたいに、外国の言葉が流行するのならまだわかるけど、日本人の間で、母国語である日本語がブームになるというのはなんとも妙な気がします。ブームもなにも、僕たちはずっと日本語を使用していたわけで、裏を返せば、ようやく今になって日本語の魅力に気付いたのか、という風にも感じます。ともあれ、僕たちが普段なにげなく使っている「日本語」というものを、もう少ししっかり理解しようという流れになってきているわけです。するとどうでしょう。そこにはルールがあり、由来があり、歴史がありました。まるで洞窟を探検するかのように、日本語の奥行きの深さに感嘆するわけです。母国語だからすべてわかっているかと思いきや、ずっと間違った使い方をしていたりします。それも、日本人のほとんどが間違って使っているのです。それを指摘されたときは、なんともいえない恥ずかしさと、それを超えた爽快感すらおぼえます。そういった認識のズレを矯正する時期がたまたま現在になったのです。ズレの矯正、つまり、日本語のクオンタイズなのです。
クオンタイズとは音楽用語で、小節内の音符のタイミングのズレを直す機能のことを言います。長年使用されて生じた日本語の認識、使い方の微妙なズレもクオンタイズしなければならなくなったのです。しかし、です。微妙なズレをクオンタイズして正しい位置にすることはできるのですが、あまりにズレ具合が大きいと、本来のあるべき位置にはいかず、間違った位置にクオンタイズされてしまうのです。言葉の場合も同じで、本来の意味からだいぶかけ離れてしまったら、いくらクオンタイズしても正しい位置には戻らないわけです。やがてその間違った使い方が、多数決によって正しい使い方になるのです。だから、文法的に間違っていても、それが間違いじゃなくなることは往々にしてあるわけです。実際、本来の意味から進化して現在当たり前のように使用されている言葉はたくさんあります。つまり、言葉は進化、変化を繰り返す、生き物なのです。言葉は生きているのです。「やばい」だとか「微妙」「キモい」なんていう言葉はまさしく進化の途中といったところでしょうか。それらのことばは、いくら文法的な間違いを指摘されても、大衆のパワーによってどんどん進化したうえで、未来の辞書に載ることになるのでしょう。
言葉は変化を繰り返す生き物と言いましたが、必ずしも変化をするとは限りません。そのままの形で生きている言葉もあります。
「お前のことが好きだ」
そんな言葉を発したところで、その相手の心に響かなければその言葉たちは死んでしまいます。しかしその相手の心を貫き、揺さぶることができたなら、それらの言葉は彼女の心の中で生き続けるわけです。物理的には見えなくても、ずっと心の中で生きているのです。軽い気持ちで発した言葉が、相手の心を傷つけることだってあります。言葉というのは、物理的な重力はないのだけど、確実に人の心を動かす力は持っているのです。人を動かし、時代を動かす力を持っているのです。それらをうまく発する人たちが歴史に残る人たちであって、彼らは必ず世の中に生きた言葉を投げいれてきたのです。言葉によって時代を築いてきたのです。僕らが無意識に発している言葉も、適当に並べても成立はするけれど、使い方によっては大きな力を持つと言うことを知っておくべきなのでしょう。そんな言葉の力を僕は信じたいのです。言葉の力でなにができるだろうか。言葉の力をもっと世の中に役立てることはできないだろうか。そんなことをここ数ヶ月間ずっと考えていたのです。そのことは次回にしましょうか。あぁ、200回記念、どうしよう...