« 2005年05月 | TOP | 2005年07月 »
2005年06月26日
第175回「苦痛の器」
連日のワイドショーなどで見せるやつれきった顔に、なにが真実なのかという議論よりも、この人はだいじょうぶなのだろうかという心配の方が先にたってしまいます。おそらく大きな組織のことだから、僕らには理解できないようなことがたくさんあるのでしょう。華やかな舞台の裏側で、それこそ縄のサークルの中でのそれよりも、熾烈な争いが繰り広げられていたのかもしれません。だから、テレビの中の彼の言葉が正しいのか正しくないのかは、僕らにとっては予想の範囲でしかわからず、どこかでメディアに踊らされている部分も否めないでしょう。やがて世間の関心が弱まれば自然と彼の露出も少なくなり、そのまま真実も闇の中に消えてゆくのでしょう。ただ、彼の言動で明らかになった真実もありました。闇に消えない真実がありました。それは、人間の弱さです。それだけは真実として残りました。肉体的なものではなく精神的な、つまり人間の心がいかにもろく、弱いものであるかが露呈したのです。
これは僕の考えなので適当に聞き流してもらってかまわないのですが、人間には「苦痛の器」というものがあるのです。それは「苦痛的状況」に耐えるための器で、皆が持っている器です。当然、個人差はあって、それがコップ一杯分しかない人もいれば、バケツ一杯分の人もいます。海のような器の人もいるでしょう。いずれにせよ、人は生きていくうえで感じた苦痛を一時的にその「苦痛の器」に溜めているのです。その器に溜まっている間はまだ理性でコントロールできるのです。しかし、その苦痛の量が器からあふれたとき、人は理性を突き破り、破綻してしまうのです。「もうやってらんねーよ!!」とバケツごとひっくり返してしまうのです。
某電機会社に勤める耕一は、ふたりの息子と3つ年上の奥さんをもつ、ごく一般的なサラリーマンです。結婚して10年を迎え、仕事も軌道にのり、ようやく生活も安定していました。そんな耕一の生活が揺らぎ始めたのはつい先日のことでした。
「ちょっと、部長!これどういうことですか!!」
耕一は掲示板に張り出された紙をはがすや、部長のところに走ってきました。
「どういうことって、そういうことだ」
「そういうことって、なんで僕がはずされなきゃいけないんですか!」
「きみはまだそのプロジェクトに参加するには早すぎる。まぁ悪く思わないでくれ」
「部長!早すぎるも何も、そもそもこのプロジェクトは僕が企画した...」
「あんまり上司にたてつくと、いいことないですよ...」
「部長!!」
耕一は、あまりに理不尽な上司に対し、やり場のない怒りがぐつぐつ湧いてきました。
「あなた、耕太のことなんだけど...あなた?」
「...ん?あぁ、受験のことだったな...まぁ、また今度にしよう...」
「もういい加減にしてください!また今度また今度って、いったいいつになったら真剣に考えるのよ!仕事と耕太とどっちが大切なのよ!!」
会社で狂ったしまった歯車が、家庭にまで影響してきました。
「ちょっと、なにすんのよ!」
「は?なんですか?」
「とぼけてんじゃないわよ!あなたわたしのお尻いま触ったでしょ!!」
「いや、ちょっと、誤解ですよ...」
「なにとぼけてんのよ!あんた、この車両の常習犯でしょ!」
「いや、なにいってるんだ、キミ!」
「わかってんのよ、いつか捕まえてやろうと思ってたのよ!みなさん、この人痴漢です!常習犯です!!」
気付くと耕一は川を眺めていました。会社も家庭も、耕一にとってはなにもかもうまくいってないように感じました。
「いったい俺の生活はどうなっちまうんだ...」
耕一の生活は苦痛ばかりでした。なにをしてもうまくいきませんでした。苦痛の器はもう満タンでした。表面張力でどうにか保っているようなものでした。あと1滴でもたらしたら一気にバランスが崩れあふれてしまいそうでした。苦痛の器はどのようにして満タンになったのでしょう。
耕一の苦痛の器には「10苦痛」と書かれていました。つまり「10苦痛」までは溜まりますよ、ということです。まず、理不尽な上司によって「5苦痛」が、続いて家庭でのいざこざにより「3苦痛」、車内で痴漢扱いされ「2苦痛」が注がれ、気付くと器にはあふれんばかりの苦痛が溜まっていたのです。もうあとひとつ苦痛をあたえられたら耕一の心は崩壊し、爆発し、破綻してしまうのです。「もうやってらんねーよ!」となってしまうのです。
おそらく、テレビでしゃべりまくる彼は、それはそれは大きな器を持っていたはずです。その大きな器にずーっと溜めてきたのです。幼い頃から文句ひとつ言わず、ただただ溜めてきたのです。しかし、大切な人を失った悲しみによる苦痛が注がれ、その大きな器の容積を越えてしまったのです。それで、いままで溜めてきた苦痛がすべて溢れ出てしまったのです。「もう溜めるなんてばかばかしいや!」となってしまったのです、きっと。
「あら?耕一先輩?」
振り向くとかわいらしい女性が立っていました。。。長くなりそうだから来週にしようかな。
2005年06月19日
第174回「家庭の事情」
昔のひとは頭がいいなぁ、と思うことがあります。とくに、ことわざや慣用句などを耳にすると、そのハイセンスぶりに驚かされることがあるのです。たとえば、なにかに釘付けになっていることを、「目が離せない」と表現したり、楽しくてうきうきしている状態を「心が弾む」と表現したり、いまだからこそなのか、妙にポップな印象を受けるのです。ことわざにしたって、「時は金なり」「良薬口に苦し」など、これほどまでスマートに表現された人生の教訓は、豊かな感性と知恵の結晶といえるでしょう。現代人の生活を車や電化製品が支えているように、昔の人たちの生活を、彼らの知恵が支えていたのです。科学技術が発達していなかった分、知恵で人生と向き合っていたのです。
そんな昔の言葉のなかに、迷信と呼ばれるものもあります。おもに人々の度が過ぎる行為を禁止する際に使用されるもので、あまり信憑性はないものの、これらによって人々の生活の秩序を守ってきたといえるでしょう。たとえば、「食べてすぐ横になると牛になる」だとか「夜口笛を吹くと蛇がでる」だとか、これらはおそらく子供たちの目に余る行動に対して生まれた言葉でしょう。なかなか言うことをきかない子供に対してただ「こんな遅くに口笛なんてやめなさい」と言ってもなかなかやめないので、もっと効果的な表現はないか考えた結果、「蛇が出るわよ」となったのです。同様に「牛になるわよ」となったのです。このように昔の人は、ただ禁止するのではなく、そこにセンスを加えていたのです。「夜の口笛禁止!」だと響かないけど、「夜口笛ふくと蛇が出る!」だと心に響くのです。ここで一旦今日のテーマからそれます。だから僕は「運転中のケータイ禁止」はだめだなぁと思ってしまうのです。いくら事故の要因になるからといって、やみくもに禁止すればいいってもんじゃないのです。マナーをルールにしてはいけないのです。そもそも事故の原因は人類が車を運転するようになったことにあるわけだし。もし減らしたいのなら「運転中のケータイ禁止」ではなく、「運転中にケータイ使うとロバになる」みたいなことをとひたすら言い続ければいいのです。何十年もかけて言い続ければ、やがて心に響いてくるのです。話を戻しましょう。
「コラ!いつも言ってるでしょ、やめなさい!」
「だってしょうがないじゃん、伸びてるんだもん」
「だめよ、ツメは夜切っちゃだめなの!」
「べつにいいじゃん、いつ切ったって。なにが起こるわけじゃないんだし!」
息子の言い分に手を焼いている母は、どうにかやめさせたいものの、ただ「やめなさい!」としか言えませんでした。
「...ほら、なにも言えないじゃん。べつに夜ツメ切ったっていいんでしょ」
「よくないわ!夜ツメを切るとねぇ...夜ツメを切るとねぇ...」
母親は、なにも浮かんでいないのに発進してしまいました。
「なに?どうせ牛になるとか、蛇がでるとかでしょ...」
「夜ツメを切るとねぇ...お、親の死に目に会えなくなるわよ!」
ツメを切っていた息子の手がとまりました。
「昔からそう言われてるのよ!いいの?親の死に目っていうことはつまり、そういうことよ、それでもいいの?」
「...母さん...」
こんな、親と子のやりとりから生まれたのではないかと考えられます。前述の「蛇」や「牛」などにくらべ、ツメを切ることと親の死に目という言葉がリンクしづらいので、おそらく相当追い込まれて湧き出て来たのではないかと思われます。いずれにせよ、このひとりのお母さんの発言によって、息子は学校で友達に話し、その友達は「ねぇねぇお母さん!」とそれぞれの家庭に持ち帰り、その話は村中に広がり、町中に広がり、城中に広がり、そのまま日本中を網羅してしまったのです。ここでもし、「おちんちんが伸び悩む」だとか「へそが臭くなる」的なことをいっていたら、そんな風にはならなかったかもしれません。ありえなそうでありえそうな、そんな程よい距離感が、当時の日本人の心に響いたのです。「じゃぁ、夜はツメを切るのやめよう...」となったのです。よほど他に強力なノミネート作品がなければ、確実にその年の流行語大賞になったことでしょう。それが現代にまで残っていることは、なんともすごいことです。僕自身も夜になってツメが伸びていることに気付いても、そのときは切らないで翌朝に延期したりします。その迷信を信じきっているわけではないけど、なんか気になるからです。このように、あのとき息子に追い込まれてなんとか搾り出したお母さんのセンスはどんなに時間がたっても色褪せない、不朽のフレーズを生んだわけです。それにしても、どうして夜切っちゃいけないのでしょう。たぶん、なんらかの家庭の事情があったんでしょうね。
2005年06月12日
第173回「前に住んでいた部屋」
第173回「前に住んでいた部屋」
ちょっとだけ遠回りして帰れば、僕が前に住んでいたマンションを見ることができます。僕が初めてひとり暮らしをした、3階建てのうぐいす色のマンションです。その部屋から数えて引越しを3回していますが、一度渋谷に出たものの、だいたいがその近隣を転々としている感じでした。だからいまでも、ちょっと帰り道のルートを変えれば以前住んでいたマンションの前を通ることができるのです。実際そのマンションの前を通ってみると、やはり以前生活していただけあって、どこかふるさとに似た懐かしさがあります。特にこのうぐいす色のマンションは、初めて一人暮らしをした場所だけあって、独特な空気が流れているのです。
「203の府川さん?」
「はい、203の府川です」
この都内のワンルームマンションに引っ越したのは大学をでてすぐのことでした。なんかわからないけど、社会人になったら一人で生活するべきだというイメージがあったようです。新築で1Kタイプでバストイレ別で、2階の角部屋で、7万8千円だった気がします。当時の僕はすでにテレビで活動していたので、それくらいの家賃であれば仕送りなく生活できました。男にとって一人暮らしというのは、それはもう夢の生活であって、自由の象徴でもあります。ことに、20代前半の男にとって、自分だけの城があることがどんなにうれしいことか。結局のところ、毎日でも女の子を連れてきたくなるわけです。連れてこなきゃ損だと思ってしまうわけです。自分のこととは思えないくらい、本能が理性を上回っていた時代でした。このように、初めての一人暮らしを謳歌していた僕でしたが、1年以上経ち、なにかが足りないと感じていたのでした。
「じゃぁ、とりあえず運ぶルートを確認しますんで」
「わかりました、エレベーターがないんで階段なんですけど...」
僕はグレーの作業着を着た運送屋さんを自分の部屋まで案内しました。
「このベッドのまえあたりにおいて欲しいんですけど...」
「ん?ここに置くの?」
どんなに自由な生活ができても、どれだけ女の子を連れ込んでも、僕の心が満たされなかったのは、ピアノがなかったからでした。
「そうです、ここしかないんで...」
「じゃぁ、とりあえず運んじゃいますよ...」
実家に住んでいる頃は、たまにちょこっと弾く程度だったので、ピアノの必要性なんて、これっぽっちも感じていませんでした。しかし、実際に一人暮らしがはじまり、たまに弾くこともなくなり、ピアノに触れる機会が全くなくなってしまうと、なぜだか禁断症状のように無性に弾きたくなって、いてもたってもいられなくなってしまったのです。ピアノのない生活が1年以上も続き、どうしてもこのワンルームの部屋にピアノが欲しくなったのです。で、さっそく大家さんに相談したところ、音の出ないタイプであればいい、ということだったので、僕はすぐに「普通にも弾けるし、ヘッドホンをしても弾ける、猫足のクラシカルなピアノ」を購入したのでした。
「じゃぁ、ここでいいですね?」
「はい、ありがとうございました」
よくこんな狭い部屋にピアノを置くなぁなんて表情をしながら運送屋さんは帰っていきました。これによって、僕の部屋はピアノ部屋へと変わりました。7畳ほどの部屋の真ん中にドーンとピアノがあり、その横にベッドがありました。テレビはピアノによって完全にふさがれ、ピアノの横からななめに見ないといけなくなりました。
「毎日弾くわけじゃないけど、弾きたいときにすぐ弾けることが大事なんだよ」
まるで音大生の部屋のようになった僕の部屋には、女性の出入りも少なくなりました。
「今はどんな人がすんでるのかな?」
僕が去ってから6,7年たっているのだから、もう5代目くらいになっているかもしれません。同じ部屋に住んでいたからといって、そこにタテのつながりがあるわけじゃなく、先輩だからと言って勝手に部屋にはいっていいわけでもありません。ただ、いまになってあの部屋に自分が住んでいたんだなっておもうと、不思議な気持ちになります。なんかタイムマシンで過去を見にきたような。前に住んでいたマンションの前を車で通過する、ほんの数秒の間、あの頃の空気がよみがえってくるのです。その空気を味わいに、僕はときどき遠回りをして帰るのです。
2005年06月05日
第172回「ストイックな僕は」
そのとき僕は、亀屋万年堂の前にいました。「亀屋万年堂」といっても、東京の人にとっては馴染みのあるフレーズだけれど、もしかすると地方の人にとってはそうでもないのかもしれません。最近こそあまり見かけなくなりましたが、僕が子供の頃は頻繁に「ナボナはお菓子のホームラン王です」というテレビCMが流れていたものです。このCMこそまさに「亀屋万年堂」のCMであって、お店の名前よりも、実際のホームラン王である王さんが言ったこのフレーズのほうが有名になったのかもしれません。現在で言うと、長嶋さんの「セコムしてますか?」に匹敵するほど、一般の人の体内に浸透しているものでした。その「亀屋万年堂」の前に車を停め、僕は苦悩していたのです。
「あぁ、ナボナが食べたい...」
その日の僕は、なんだか無性にナボナが食べたかったのです。「お菓子のホームラン王」であるナボナを体が求めていたのです。あのふんわりとしたスポンジの食感、その中には程よい甘さのクリーム、そして周囲を覆う粉雪のような白いものが指先を快楽へと導いてくれます。味、見た目、さわり心地、全てが僕の心を満たしてくれるのです。ナボナはお菓子のホームラン王どころか、お菓子の三冠王なのです。そのナボナをどうしても食べたくてお店の前に車を停めたのに、すぐに車から降りることができませんでした。なぜなら僕は、あることが気になったからです。
「ナボナを自分のために買っていいのだろうか...?」
お菓子のホームラン王である「ナボナ」は、いわゆるお菓子とは違います。かっぱえびせんだとか、じゃがりこだとか、そこらへんのコンビニに陳列されているスナック菓子とはわけがちがうのです。グレードが違うのです。高級お菓子なのです、ナボナは。なんせホームラン王なのですから。そんな「ナボナ」は、その高級さゆえに、誰かしらから頂くものの定番となっているのです。東京のおみやげはもちろん、お中元やお歳暮、引越しの挨拶などに多く用いられるものなのです。そういえばCMのときの王さんも、そういった贈り物風のケースを抱えていました。実際僕も、引越しの挨拶をする際に「ナボナ」をもっていきました。このように「ナボナ」は、大切な人に贈るもので、日常的にというよりも、ここぞというときに登場するものなのです。そんな、贈り物としてのイメージが強いナボナを僕は、単なる個人的な欲求のために購入してしまっていいのだろうかと、悩み始めたわけなのです。いくら食べたいからといって、自分のために「ナボナ」を買ったら、ある意味、バースデーケーキを自分で買うような、敗北を意味する気がしてならなかったのです。「ナボナ」は、人から頂いて食べるべきもので、自分で買ったらだめなんだと、ストイックな自分が現れたのです。ちなみにコンビニにいけば、限りなく「ナボナ」に似た他社の商品がありますが、僕の体をそういった類似品では満たしたくなかったのです。僕は、「亀屋万年堂」の「ナボナ」じゃなきゃだめだったのです。
「すみません、ナボナ、あります?」
「はい、ございますよ。こちら12個いりのタイプから16個いりのもの、そして36個いり、、」
「えっと、2個くらいでいいんですけど...」
「えっ?」
「2、2個でいいんですけど...」
「2個?...少々お待ちください...店長!店長!」
奥から店長がやってきました。
「お客様申し訳ありません、当店ではバラ売りを致しておりませんので...」
「でも、12個だとちょっと多いくて...」
「申し訳ござしません...」
「...じゃぁ、12個いりので...」
みたいなことになるのではないかという不安もありました。それでも僕は「ナボナ」が食べたかったのです。僕に残された選択肢は2つでした。ひとつは開き直って自分のためにナボナを買うこと。もうひとつは、誰かからナボナが送られるのを待つこと。僕は悩みました。夜の目黒通りは、少し渋滞していました。
「よし!誰かから送られるまで待とう!!」
僕は、誰かにとって大切な人になり、その人から「ナボナ」を贈られるのを待つ人生を選択しました。それまでは「ナボナ」を口にしないと決意しました。たとえどんなに食べたくなっても。それが、「お菓子のホームラン王」に対する敬意なのです。
「自分が本物になるまで、本物は食べれないということだ」
そして僕は、コンビニに置いてある類似品を買って帰りました。ちなみに亀屋万年堂では、「ナボナのバラ売り」はやっているそうです。僕が本物を食べれる日は訪れるのだろうか。