2005年01月23日
第155回「ボンジュール!後編」
前回の、お正月休みのフランス自慢、後編です。
「うわぁ、凱旋門だ!」
叔母の旦那さんであるジャン・ジャック氏は、ホテルまでのルートを、ちょっ とした市内観光のようにしてくれました。夜のパリは至る所にイルミネーショ ンがあり、あらゆる建物がライトアップされているものの、街灯の色が統一さ れているからか、うるさい感じは一切なく、とてもあたたかい印象を受けまし た。すでにエッフェル塔だけで十数枚も写真を撮っていた僕は、なにかを発見 するたびに声をあげては、子供のようにはしゃいでいました。やはり、写真な どで見ていたものが実際に存在すると、たいていは予想を超えているものなん ですね。が、まもなく、そんな僕を黙らせるほどの光景を目の当たりにするの
です。
「こ、これは…」
凱旋門から放射状にのびる12本のうちの1本。日吉で言うと、学生通りにあた るのでしょうか。僕は、有名なシャンゼリゼ通りを真正面にすると、「オー・ シャンゼリゼ」を歌うどころか、あまりの綺麗さに言葉をなくしました。ゆる やかに下っているため、端から見ると、ライトアップされた街路樹が、ずっと 遠くのほうまで続いているのがわかります。両脇には、有名ブランドの店舗や カフェが立ち並び、たしかにただ通るだけで気分が高揚してくるのです。その スケールは、表参道の数倍、日吉学生通りの数百倍、といった感じです。歌も 35番くらいないと足りないのです。
パリの綺麗な街並みを堪能した僕は、興奮が醒めないものの、すっかり時差に やられてしまい、ホテルに到着するや倒れるように眠ってしまいました。ちな みにフランスは日本の8時間遅れなので、現地の22時は日本の朝6時というわ けです。
「えっ?これって並んでるの?」
以前、アメリカに一人旅したときもそうでしたが、僕はあまり観光スポットに 行きたいと思わないタイプで、むしろ、バスや地下鉄に乗ったり、現地の人の 日常を感じれれば満足なのです。ただ、来たからにはある程度の有名どころを おさえておかないと、土産話にもならないので、必要最低限の予定は立ててい ました。そのひとつが、ルーヴル美術館でした。コーヒーのCMにでてきそう な朝もやのかかるパリを味わいながら、美術館まで歩いていきました。する と、美術館の巨大さよりも、それこそディズニーランドの人気アトラクション にあるような長蛇の列に衝撃を受けました。僕は、世界一の美術館を甘く見て いたようです。
「もう…だいたいでいっかぁ…」
美術館の中にはいると、いわゆる美術館のような静寂な空気は一切ありません でした。長蛇の列を吸い込んだ館内は、世界中の観光客でごった返し、美術館 というよりもむしろ、ラーメン博物館に似た活気を感じました。しかも、いく らガイドマップを持っていても、どこになにがあるかわからず、巨大迷路のよ うに思えてくるのです。また、一枚一枚を堪能していたら半年くらいかかりそ うなほどの莫大な数の作品が展示されているため、おそらく有名な絵画なのだ ろうと思うものの、基本的には素通りすることになってくるのです。かと思え ば、突然教科書で見たことのある大作が現れたりするのです。でも、さすがに モナリザの前に到達したときに関しては、巨大迷路のゴールに辿り着いたよう な、達成感がありました。これを見た事実を得たかったかのでしょう。目に焼き付けるように、じっくりと眺めていました。
「こ、これがかの有名なモナリザ…」
僕は、世界一の絵画を堪能していました。
「あれ?ふかわりょうじゃない?」
聞きなじみのあるフレーズが僕の耳に飛び込んで来ました。ルーブル美術館が突然上野美術館になりました。
比較的日本人の少ない場所ではあっても、やはり観光名所となるとどうしても
このフレーズが飛びこんでくるのです。だから、ヴェルサイユ宮殿でマリー・アントワネットの気持ちになっていても、モンマルトルでアメリの世界に浸っていても、この一撃で僕は、日本に返されるのです。でもこれは、しょうがないのです。これは…しょうがないのです。
その後、ジャン・ジャック氏の娘の家でホーム・パーティーをして大量のローストビーフを食べたり、サンジェルマンのカフェで思惑と違う巨大なサンドイッチを食べたり、ブランド店を巡っていたら街中でバッタリ小西さん(ロケットマン)に遭ったりと、毎日違う色の日々を過ごしていました。ただ、短い期間ではあったものの、数日間過ごしていて、あることに気付きました。海外旅行に行く上で、とても大事なことに気付いたのです。それは、「今度のお正月にフランスに行くんです!」なんてことは、絶対言っちゃダメ!ってことです。
それがロンドンであろうとハワイであろうと、そこが海外である限り、周囲の人々に告知してはいけないのです。でないと、「いいなぁ、じゃぁお土産よろしくね!」なんて人がいつのまにか50人くらいになってしまうのです。そのときはそれほど気にしてなくっても、いざ行ってしまうとそのことばかり考えてしまい、なまじフランスなんていう言っちゃったもんだから、グアムなどに比べお土産のハードルがあがり、もうわけがわからなくなってくるのです。結局ずっとお土産のことを気にしながら観光していたようなもので、「お土産を買いにフランスに来たのか俺は!」と何度も心の中でつぶやいたものでした。
そんな、お土産ばかりが入った紙袋を下げて、最後の夜はエッフェル塔にのぼることにしました。下から見上げると、上の先端が雲を突き抜けているように見えていたので、高所恐怖症の僕にとっては、かなり勇気のことでした。エレベーターを乗り継いでなんとか最上階に着き、さらに階段を上ると、外の空気を味わうことが出来るようになっていました。おそらく、そこで見た360度のフランスの夜景を言葉で描写することは難しいですが、そのロマンチックな光の絵画は、美術館の中にはなかった芸術作品でした。フランス人の感性を具現化しているようでした。
「結局こういうことだよな…」
僕は、展望フロアにあるお土産やさんで、エッフェル塔のキーホルダーをいくつか買って、下に降りました。次の正月休みは、こっそり行こう。
2005年01月16日
第154回「ボンジュール!!」
「すみません、なんか飛行機遅れちゃって!」
大きなスーツケースを引きずりながら出てきた僕を迎えてくれたのは、美恵子おばさんと、その旦那さんでした。
「もうなかなか出てこないから心配しちゃったわ」
「スイスの空港で乗り換えのときにアナウンスがなにか言ってたんですけど、あんまり聞き取れなくって、、、」
「そうだったの。あ、亮くんね、この人が私の旦那さんよ」
「ボンジュール!!」
「あ、ボ、ボンジュール!!」
美恵子おばさんの旦那さんである、ジャン・ジャックさんと握手を交わしました。
2005年1月2日、現地時間で20時を少しまわったところ。シャルル・ド・ゴール空港は多くの人たちであふれていました。僕は、正月の休暇を、フランスで過ごすことになったのです。
そもそも僕は、お正月休みに海外に行く、という芸能人らしいことを経験したことがありませんでした。というのも、自分自身で、30歳になるまでは「事務所にわがままを言わない」と決めていたからです。いくら正月であっても、プライベートよりも仕事を優先させるためです。そんな僕もようやく30歳になり、芸能生活10周年を迎え、そろそろ海外旅行くらい行ってもいいんじゃないかと思うようになったのです。それでマネージャーに、「年明けなんだけどさぁ、ちょっと海外に行きたいからさぁ、この日まで休ませてもらえないかなぁ?いいよね?いいよね?」という感じでアプローチしたわけです。そうでもしないと、中途半端に仕事がはいり、まとまった休みがとれなくなってしまうからです。
「そりゃハワイとか行ったら最高よ!青い海、青い空、なにもしなくっていいのよ!ただボーッとしてるのが芸能人のお正月ってわけよ!」
晴れて休暇を勝ち得た僕は、お正月にどこへ行くべきか番組の共演者に相談しました。するとたいてい、「ハワイは一度行っておけ」「寒い冬には暑い国に行くもの」という、ハワイ、グアム、サイパン、オーストラリアらの南国系を勧める回答ばかりが返ってきました。特にハワイは、なんだかんだ「芸能人=ハワイ」という定説ができるだけのことはあるらしく、行ったことのある人から「ハワイ否定論」を聞くことはありませんでした。
「やっぱりハワイなのかなぁ、、、」
と、心の中でぶつぶつとこぼしながら書店に立ち寄った僕は、気付くとフランスのガイドブックを手にしていました。
「だめだ!どうしても意識がヨーロッパに向ってしまう!どうしたらいいんだ!やはり僕は、暖かい国よりも歴史や芸術を感じれる国に関心があるのだろうか!僕はやはり芸術家タイプなのだろうかー!!」
共演者の意見を無視することに抵抗を感じながらも、僕はヨーロッパの国々の本ばかり立ち読みしていました。
「結局フランスに行くことにしました!」
「なんだよお前!あれだけみんなで南国を勧めたのに!」
収録前の楽屋で集中攻撃に遭いました。
「はい、そうなんですけど、やはりどうしてもアートの世界に興味がいってしまうっていうか、自分には嘘がつけないっていうか、、、」
「なんだよお前、腹立つなぁ!じゃぁハワイとか行ってるウチらがアホみたいじゃんかよ!」
「そういうんじゃないですよ。ただ、僕って昔からヨーロッパに対する憧れがあったんですよ。やっぱりピアノを習ったころから、、、」
ヨーロッパに対する憧れの話が始まると、共演者のシャッターが一斉に閉じられました。こうして、共演者の助言を聞いたうえで、僕はお正月の海外旅行に、フランスを選んだのです。エロDVDが日ごろのご褒美なら、これは10周年のご褒美です。
「いやぁー、やっぱりフランスってかんじですねー!!」
ジャン・ジャックさんの運転する車の中で僕は、フランス的な物体をまだひとつも目にしていないにも関わらず、ひとり興奮していました。
「亮くんおなかは空いてる?もし空いてるんだったら、、、」
「いや、もう機内で4食くらい食べた気がするんで今日は大丈夫です」
「じゃぁとりあえずホテルに行きましょう」
その旨をジャン・ジャック氏に伝えました。叔母が流暢にフランス語を話しているのは、少し不思議な感覚でした。ちなみに、美恵子叔母さんとは、僕が小学生の頃、おばあちゃんちに行ったときによく遊んでもらいました。僕がこの仕事に就いた頃にはもうフランスに住んでいたために、母の言葉からしか、僕の活動状況は伝わってなかったと思います。
「それにしても綺麗だなぁ、、、」
フランス的なものはないにしても、街頭や看板などの明かりは、どこか日本のそれと違い、ロマンチックな気がしました。
「あっ!もしかしてあれは!!」
空港を出て40分くらいでしょうか。徐々に中世の建築物がちらほら見られるようになって来た頃、僕の目の前に、フランスのシンボルであるエッフェル塔が現れました。わりとこじんまりしているのだろうという僕のイメージを裏切るように、それは大きく、悠然と立っていました。
「あと5分くらいで光るわ」
「え?エッフェル塔が、ですか?」
ニューイヤーの時期になると、夜は毎時10分間、キラキラ輝くということでした。といっても、すでに光っているわけで、僕には、何が起こるのかわかりませんでした。
「うわっ!なんだこれは!!」
突然、エッフェル塔がキラキラと輝き始めました。なんというか、巨大なダイヤモンドのように、全身がキラキラしているのです。また、周囲に高い建物がないために、より一層大きく、美しく見えました。
「これはすごいなぁ!!」
キラキラしたエッフェル塔をバックに写真を撮った僕は、フランスにいれる数日間への期待で、胸を膨らませました。次週へ続く。
2005年01月14日
第153回「新たな時代へ」
「というわけではじまりました!、、、というわけではじまりました!」
スーツに着替えた僕は、本番を間近に控え、ウーロン茶を何度も口に含ませては、台本の言葉を復唱していました。
「さっきから同じところばっかりじゃないですか」
そばにいた番組の作家さんが見るに見かねて言いました。
「いや、この最初が肝心なんだよ!ここをクリアすればあとはどうにかなるんだよ!」
そう言って、再びお経を唱えるようにセリフを繰り返しました。
普段バラエティー番組に出る際、セリフを憶えて出るということは滅多にありません。台本こそあるものの、ドラマのそれとは大きく異なり、それはあくまで大まかな流れの台本であって、その通りに進むとは限らず、そこに書かれたセリフに関してもあくまで想定にすぎなかったりするのです。だから、本番前にさっと目を通すことはあっても、セリフを暗記するようなことはないのです。なのに、その日の僕は台本を手放しませんでした。トイレに行くときも着替えるときも、目の届く範囲に置いていました。もっというと、3日前くらいから僕の手元にあったのです。その台本に目を通し、事前に体内に叩きこんでおいたのです。なぜなら、今までにない形でバラエティー番組に出演することになったからです。もうお気づきのことでしょう。そうです、司会です。MCです。マスターオブセレモニーです。厳密に言うと、完全なる初司会というわけではないのですが、民放バラエティー界においてはおそらく、ふかわ初司会番組、ということになるのです。
司会を務めるということは、番組を進行することであり、番組の形を作ることでもあります。だから、どんな番組にもたいてい司会という立場の人が存在し、その人の個性で番組のテイストも変わってくるのです。自分を一番面白くする司会者もいれば、周りを引き立てる司会者もいます。司会者の比重が重い番組もあれば、その逆のケースもあります。いずれにしても、司会者の存在は大きく、番組の顔であることは否めないのです。その「司会」という重要なポジションを与えられたことは、小学生の頃から責任感の強い子供だと通知表に必ず書かれていた僕からしてみれば、これまで番組に出演してきた時の何百倍もの任務を与えられた気分になるのです。当然、これまでも、それなりの責任感を持って番組に臨んでいました。いじられる側にはいじられる側なりの責任感があったのです。しかしながら、ピッチャーを務める人とライトを守る人の違いというか、言ってみれば、自分のところに球が飛んできたときに頑張ればよかったのです。よきところで、「ちょっと待ってよぉー!!」と叫んで、はいり込めばどうにかなったのです。特に最近は、「コラーッ!!」「ちょっとちょっとー!!」「おかしいおかしい!!」といった、3種の言葉でたいていのふかわ業は果たせていました。しかし、司会という業種は、それらの言葉は役に立たず、冒頭のような、「というわけで」とか「はいっ!」「さて!」「それでは!」のような、展開の節目となるような言葉がメインになってくるのです。で、僕に関して言うと、「コラーッ」は20パターンあっても、そういった仕切りの言葉は何年と発していなかったのです。言い慣れない言葉なだけに、何度も発音しておきたかったのです。そんな僕に司会という重要なポジションを与えてくれた番組制作サイドは、ある意味リスクを背負って賭けにでたようなものです。
「お待たせしましたぁ、まもなく本番になりまーす!!」
楽屋にスタッフが連絡に来ました。僕はスーツの上着をはおり、ウーロン茶を口に含むと、台本を握り締めました。そして鏡の中の自分に、「よし!どうにかなるさ!」的なことを心の中で言いました。
「というわけではじまりました!というわけではじまりました!」
階段を上りながら、何度も口にしていました。
「だいじょうぶですか?というわけでを練習してる人、はじめて見ましたけど」
周囲のスタッフが、僕の緊張を楽しんでいるようでした。
「それでは本番10秒前!8、7、6、、、」
数が少なくなるにしたがって鼓動が激しくなります。
「3、2、1!!」
というわけで、その模様は実際の放送で確認してもらうのがいいでしょう。来る12月30日、フジテレビ深夜1時15分から2時15分放送の「やぱんすか」という番組です。スウェーデン語で「日本語」という意味らしいです。この時期によくありますが、特番と言って、レギュラー番組になる前の段階です。ちなみに全国放送ではないので、オンエアしないところはごめんなさいね。見たらわかると思いますが、キーワードは「いじられ進行」です。これがおそらく僕にしかできないスタイルなのかもしれませんね。さぁ、2005年は司会業をこなしていくぞ!!よいお年を!!
第152回「路地裏の青春」
この時期になると否が応にも、街は勝手に華やかになります。所々に見られるイルミネーションや、恋人たちが寄り添い歩く姿は、人によっては押し付けがましく映るものです。ましてや渋谷ともなると、意識していないと人の波に流されてしまいそうになるほど、年末でテンションのあがった若者たちであふれかえっています。しかしながら、光には影がつきもので、宮益坂から1本はいれば、まるで窓を閉めたかのように、都会の喧騒が半減し、薄暗い世界が広がっています。その暗い道を、僕は歩いていました。
「いま宮益坂を曲がったところなんですけど、、、」
場所の地図を忘れてしまったために、お店に電話して道を尋ねていました。聞いたとおり角をまがると、向こうにタキシード姿の父が見えました。
「地図忘れちゃってさぁ」
「あ、そう。とりあえずいま休憩で、次は9時からだから」
「じゃぁもう少し時間あるね」
「とりあえず中はいろうか」
二人は暗闇に突入するように、ビルの階段を降りて行きました。駅からのびた坂道を曲がり、さらに脇道にはいった路地裏に、ひっそりと佇む一軒の老舗クラブがあります。クラブというべきか、ジャズバーというべきか、若者たちが踊りまくるクラブではなく、音楽を聴きながら飲食をするというような場所です。バーカウンターを抜けるといくつかのテーブルが並び、さらにその奥にステージがあります。そのステージ上では日替わりで演奏が行われ、それに合わせて来るお客さんもいれば、なんとなく飛び込んでくる人もいます。いずれにせよ、かっちりとした演奏会というものではなく、お酒を飲み交わしながら演奏を聴くというスタイルなわけです。父のあとについて中に入ると、人々の話し声と食器の音が聞こえてきました。脇に掛けられた無数のロングコートの前を通ると、数十人の年配の紳士淑女たちが、テーブルをうめていました。
「じゃぁ始まったらすぐに声かけるから、前のほうに座ってて」
父はそう言って、別の部屋へ入っていきました。僕はステージに一番近いテーブルに座り、9時からの演奏を待ちました。
その日の演奏は、KBRタンゴアンサンブルと書いてありました。それは、父が学生時代に所属していた音楽サークルで、6名ほどのメンバーによるタンゴの演奏グループなのです。実家にいると時折バイオリンの音が2階から聞こえてきたのは、たまに行われる演奏会の練習をしていたからです。そのように、卒業後も何らかの形で存続していたわけです。
「じゃぁ今度、演奏会にピアノで参加するよ」
普段、バラエティーでお世話になっているからか、今度は僕が父の活動の場に参加することになりました。
「いつも父がお世話になっています。息子の亮です」
その日のために、一度、父の練習場に訪れました。練習場といっても、そこは東京から車で1時間半くらいにあるメンバーの方の家で、その1室に時折集まっては練習しているようでした。8畳ほどの部屋に、ピアノをはじめ、ウッドベースやらアコーディオンがあるのだから、それぞれに人が付くので、とても窮屈そうにも見えました。
「ちょっと待っててな。まずこっちの練習済ませてからな」
僕は、すぐ横で父たちが練習しているのをしばらく見ていました。
「この曲の出だしの音なんだけど、、、」「ちがうちがう、そうじゃないって!」「うん、いいねぇ、いまの感じだよ」
おそらく学生時代も同じような感じだったんだろうなぁと、まるで、50年前の部室をのぞいているかのようでした。
「今回が最後の演奏となりますが、ここで私の息子が来ておりますので紹介したいと思います」
僕はすぐにステージにあがり、お客さんたちに向かって一礼しました。年齢的に僕のことを知らなくても不思議ではないので多少不安ではありましたが、温かい拍手を頂きました。
「まず最初は、チャップリン作曲のスマイルという曲を演奏したいと思います。このスマイルという言葉は、、、」
父の、おそらく前もって用意しておいた話を交えながら、無事に3曲の演奏が終わりました。
その後、僕は、元のテーブルに着き、最後まで演奏を聴いていました。平均70歳近い男たちが、タキシードを着て演奏する姿は、感動せずにはいられませんでした。そして、仲間と演奏を楽しむ父は、父のようにも見え、若者のようにも見え、自分の将来のようにも見えました。
「車で送ろうか?」
「だいじょうぶ、みんなと電車で帰るから」
そういって、父たちは駅の方へ歩いていきました。都会の路地裏に、あの頃の青春が輝いていました。