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2017年01月29日

第690回「うつくしきもの」

 清少納言が枕草子のなかで挙げていたかわかりませんが、この世でもっともかわいいもののひとつに、甥と姪が挙げられるでしょう。大の子供好きというわけではない僕でも、この「甥」や「姪」となるとはなしはべつで、高校生の甥、中学生の姪もさることながら、自分の意思で行動し、自分の言葉を発するようになった小学生の甥や姪こそ、国宝級のかわいさ。「甥」そして「姪」としてもっともかわいい時期なのかもしれません。
 孫の存在は、我が子とは違ったかわいさがあるように、甥や姪の存在は、我が子ではないけれど、他人の子供でもないという絶妙な距離感からか、単なる愛着とは異なる感情を抱いてしまいます。
「ここ乗っていい?」
 窓越しにひょっこり顔を出した小学生の甥。大きな車によじのぼると、小さなリュックのなかから、DVDを取り出しました。
「旅館ついたら、これ見よう!」
 彼は、かつて僕が出演したことのある番組のDVDを持参していました。どうしてもこれを一緒に見たかったようです。道中はずっとしゃべりっぱなしで、しゃべりすぎて酸欠になってしまうのではないかというくらい、言葉があふれていました。ときおり大きく息継ぎをしながら話しているかと思えば、急に黙々とゲームをやりだしたり。旅館に到着するや、まだだれもいない露天風呂にふたりで浸かる様子は、親子に見えていたかもしれません。   
 彼よりも一学年下の姪は、つい先日までベビーカーにのっていた印象なのに、いつのまにか活発な小学生になっていました。ほかの高校生の甥や中学生の姪たちが「りょう叔父さん」と呼ぶ中、彼女は、「りょうくん」と呼びます。小学生同士の甥と姪はとても無邪気で仲がいいのですが、僕からみると、やはり姪のほうが精神的にしっかりしていて、同学年どころか、お姉さんのようにすら感じます。
「ひろくん、それどうするの?」
 ラウンジでトランプをしていたときのこと、ひろくんがふたつのグラスを持ってきました。ドリンクバーで興奮しちゃう気持ちはわかるのですが、中にはいっていたのはアイスコーヒーとオレンジジュース。すでに僕はホットコーヒーを飲んでいるから、僕のために持ってきてくれたわけではなさそうです。
「それ両方飲むの?」
 ひろくんは大きく頷きました。大人ぶりたいのか、ミルクのはいっていないアイスコーヒーとオレンジジュース。どちらを先に飲むかも気になりますが、あまりいい飲み合わせではなさそうです。合わないんじゃない?と一応声をかけたものの、まぁ子供だからいいかと、再び持ち札に目をやったとき、彼は信じられない行動にでました。
「ちょっと、ひろくん、なにやってるの?!」
 姪が笑いながら叫びました。彼は、こともあろうに、オレンジジュースとアイスコーヒーのふたつのグラスを同時に口に近づけ、2種類のドリンクを流しはじめたのです。2本のリコーダーを同時に吹く方を見たことありますが、こんな二刀流ははじめて。牛乳とオレンジとか、もう少し合いそうな組み合わせもありそうですが、よりによってオレンジジュースとアイスコーヒー。想像しただけでもいい反応は生まれなそうです。給食のときにもこういう人がいましたが。
「ちょーおいしい!」
 強がっているのか、そう言い張る甥と、一連の流れを冷めた目で見る姪。旅のテンションがそうさせたのか、日常がこういうものなのか。やはり、面倒を見る親は大変です。
 かつて、「僕の伯父さん」というフランスの風刺映画がありましたが、パイプこそくわえていないものの、彼らの瞳に僕は、どのように映っているのでしょう。孫でもあり、甥・姪でもある彼ら。次に会うときは、またひとまわり、大きくなっているのでしょう。

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2017年01月22日

第689回「ちくわぶの憂鬱〜番外編〜」

「弟子にしてください!」
 突然の出来事に、彼は戸惑わずにいられなかった。
「なんだい君、いきなりびっくりするじゃないか」
「あなたを尊敬しています!弟子にしてください!」
「おいおいやめてくれよ、興奮するなって」
「どうしても弟子にしてほしいんです!お願いします!」
「お願いしますったって、そういうのやってないから…」
「お願いします!」

「弟子?」
 鏡越しに彼女は笑いながら言った。
「そうなんだよ、もうしつこくてさ。」
「いきなり現れたの?」
「そうだよ、びっくりしたよ。芸人じゃあるまいし、こんなこと言われるなんて夢にも思わなかったから」
「あなたに憧れるなんて、面白い人ね。それで、なんて言ったの?」
「もちろん断ったさ。」
「え、断っちゃったの?」
彼女は、彼に顔を向けた。
「あたりまえだろ。だって教えることなんてなにもない。」
「いいじゃない、面白いからやってみなよ!」
「だめだよ、遊びじゃないんだから。ひとの人生を預かるなんてごめんだよ」
「なにも教えなくても、弟子は師匠の生き様を見て勝手に育つの。」
「勝手に育たれても困るよ」
「いいのよ、ね、話だけでもきいてあげなさいよ、師匠!」
「おい、からかうんじゃないよ!」

「偉大さ?」
彼は目を丸くした。
「パクチーさんの、偉大さに気づいてしまったんです。」
男は真剣な表情で話を続けた。
「誰もが好きというわけではない、むしろ嫌いな人も多い。けれど、好きなひとにはものすごく好かれる存在、それがパクチーさんだと思うんです。僕もそんな存在になりたいんです。」
「君だってそういう存在じゃないのかい?好きな人にはものすごく好かれるだろう?」
「違うんです、僕の場合は、存在すら知られていないこともあるし、なんていうか、パンチがないんです」
「パンチ?」
「しかも、師匠の凄いところは、みんなが苦手前提で話をすすめるじゃないですか。そんな人いないですよ。憎まれっ子世にはばかるといいますが、まさにそういうことです!」

「あはは、憎まれっ子世にはばかるって、うまいこと言うね!」
後日、彼は男と話したことを彼女に伝えた。
「尊敬されているんだか、バカにされているんだかわからないよ。」
「でも、真剣なんでしょ?」
「あぁ、そうさ、いたって真剣だよ」
彼女は、彼の腕に抱きつくように話をきいていた。

「やっぱり、好きと嫌いって表裏一体で、関心がないっていうのが一番良くないと思うんです。みんなに好かれようとすると、なんの面白みもない、無味無臭な存在になってしまうんでうす!」
「無味無臭だって、素晴らしいことだよ?」
彼は、男を諭すように言った。
「クセが強いとたしかに嫌悪感を抱くものも多い反面、好むものも一定数いる。だからといって、無理に奇をてらったり、嫌われる必要なんてないんだよ。君みたいに、無味無臭なのを好む者もいる。世の中、みんなが僕みたいにクセが強くなったら大変だよ。だから、君は君のままで十分魅力的なんだから、別に弟子にならなくたっていいんだよ」
「師匠…」
男の目に、涙が浮かんでいた。

「それで、その青年はそれきり?」
「あぁ。まぁ、衝動的なものだったのだろう。」
彼女は、ベッド横の煙草に手を伸ばした。
「憎まれっ子かぁ…」
「本当に嫌われていたら、とっくに忘れられているだろうね、世の中から」
煙草の煙が彼女の顔を覆った。

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2017年01月14日

第688回「それでも、紅白は続く」

 いまさらですが、紅白を見ての感想です。ほかのチャンネルも見ながらではありましたが、いままでで一番ではないかというくらい見ることができました。
 「2016年」がたくさんありました。旬なアーティストはもちろん、PPAPやシンゴジラから平野ノラまで、「2016年」を彩った顔がたくさん集まっていました。とても豪華で、盛りだくさん。あそこまで集めるのは相当尽力されただろうなと、感心してしまいます。もはやバラエティー番組になってしまったかと思うほど、内容の濃かった今回の紅白。これだけたくさん詰まっているのに、欠如しているものがあった気がしました。
 やはり一番大切なのは、歌を届けることです。「そのうえで、笑いが載せられたり、盛り付けられたりするもの。歌を届けたい」「音楽を届けたい」しかし、先日の紅白には、それが希薄に感じてしまいました。たとえあったとしても、ほかの要素がありすぎて、相対的に薄まってしまった気がします。紅白歌合戦と謳っている以上、本線からずれすぎてしまうと、一番伝えるべきものが隠れてしまいます。
 もちろん、歌に興味のない人のも見てもらう、テレビにとってそれは確かに必要なことですが、いまやテレビは見たくて見にくる人がほとんど。映画館と同じなのです。だから、リモコンこそ脅威ですが、見に来てくれているお客さんに対してどう向き合うかが重要です。歌を届けたいあまり、歌を届けることがおろそかになっては本末転倒。そのさじ加減は難しいかもしれません。
 タモリさんとマツコさんのくだりも、とても面白いのですが、あれも、本線の歌がしっかりしているからこそ際立つもの。すべてにおいてバラエティー的要素が強いと、あの二人のやりとりのスパイスが効いてきません。音楽をしっかりやっているから、あの「笑い」が効いてくる。緊張と緩和。そういう意味では、「笑い」というものも甘く見られている気がしました。
 ただ、あのコーナーに関して、「無駄遣い」と揶揄する人がいましたが、それはとても悲しいことです。なぜなら、「無駄遣い」だからこそいいのですから。「無駄遣い」ではなく、「贅沢」だというのならまだわかるのですが。「あのふたりに司会やってもらえばいいのに」という意見は、テレビをあまりわかっていない素人的発想といえるでしょう。いまやそういう「テレビの見方」を知らない人たちが増えて、ミスリードしてしまうのも現実として受け止めるべきなのですが。
 笑いにしても、こういう風にすれば笑うでしょうという狙いや、仕掛けが見えてしまうと、感動できるものもできなくなってしまいます。見ている方が冷めてしまう。笑いとは違いますが、昨年、長渕剛さんが、生放送の歌番組で、イントロ部分にアドリブなのかわからない、いわゆる長渕節を炸裂させたことがありました。非常にもったいなかったのは、あそこに字幕がでていたこと。収録ならまだしも、生放送で字幕をだしてしまっては、「長渕節」の魔法の効きが弱くなってしまいます。しっかりと魔法をかけたいのであれば、あそこに字幕を出さない方が適切で、字幕を出した段階で、打ち合わせ的なものが見えてしまいます。なにをいっているのか伝えたいというやさしさかもしれませんが、なにを言っているかよりも、「打ち合わせにないことを言い出したのでは!」、という緊迫感が優先させるのがテレビではないでしょうか。大事なのは、「字幕をだすべきなのかどうか」という議論が行われたか、なのです。
 DJ的な見地からすると、こんなに盛りだくさんのコンテンツも組み立て方次第で大きく印象は異なります。緩急。流れ。そういった抑揚をつけないと、お茶の間というダンスフロアと温度差が生じてしまう。どこで爆発させたいのか。毎回爆発していたら爆発になれてしまいます。
 本当にその歌を愛していたら、その歌手を尊重していたら、過剰な演出に抵抗を感じてしまうもの。歌を届けるためとはいえ、踊りを付け加える演出などは、まるで、応援演説に依存している候補者のようにも見えてしまいます。
 では、なにを尊重していたのか。それは、数字かもしれません。「紅白」というコンテンツかもしれません。はたまた「NHK」かもしれません。
 テレビは音楽をどのように伝えるべきか。Eテレでのクラシックコンサートを拝見しましたが、そこはまさしくクラシック一色。クラシック愛に満ちていました。もう、それでいいのです。笑いたいのであれば、笑いを提供しているチャンネルにする。歌を楽しみにしている人たちには、やはり、良質な歌、音楽を提供するべきでしょう。お寿司やさんで、パスタを出す必要はないのです。視聴者を信用して、歌を届けて欲しいと思いました。
 以前、紅白は富士山であって欲しいと言いました。やはり、今回はイルミネーションのされた富士山だった気がします。そんな年もあってもいいのでしょう。次回はぜひ、美しい富士山を眺めたいと思います。

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