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2016年11月28日

第683回「こんど雪が降ったなら」


 先日、東京都心で初雪が観測されました。11月に観測されるのは、1962年以来、54年ぶりだそうです。

 雪の結晶は、ひとつひとつ違う形をしている、というのはみなさんもご存知だと思いますが、僕はそれらの美しさもさることながら、人間がそれらを美しいと感じる形をしていることがとても不思議でなりません。ひとつひとつが違うというだけでもすごいことなのに。ましてや、空気中の塵をあんなに美しくしてしまうなんて。自然というものは、どれだけ素晴らしい芸術家なのでしょう。人間の美感は、自然が生んだものが原点となっているのかもしれません。

 上空で浮遊する塵の形と気象状況に左右されるので、どんなに降っても、同じ形の結晶は存在しない。それは、人間も同様でしょう。だから、雪の結晶を見れば、上空の気温や湿度などもわかるのは、顔を見て国籍がわかるようなものでしょうか。そういう意味で、雪の結晶は、「天からの手紙」だという人もいるそうです。この形にさまざまなメッセージが込められている。なんて、ロマンチックなことでしょう。我々は、こういったことからも情報を得ることができるわけです。

 雪たちが全力でメッセージを送ってきてくれるのに、既読スルーじゃもったいない。というか、既読さえしていない。既読スルーといえば、スマホのlineの背景がsnowflakeになっていました。あの雪片ひとつひとつも違う形をしていたら、なかなか芸が細かくて感心してしまいます。

 言葉も、時代を超えたメッセージであり、ある意味、芸術。芸術というとどこか非日常なイメージですが、日常における芸術。もっといえば、日常そのものが芸術であるとも言えます。余談ですが、朝の品川駅のコンコースなんて、日本の会社員たちの織りなす芸術作品だと思います。雪の結晶という芸術と、言葉という芸術。言葉と雪の結晶は、非常に相性がいいのでしょう。

 雪の結晶はそれぞれ違う形をしている。しかし、それらはどれも、六角形。これも神秘的な現象。なぜ六角形なのでしょう。六角形だと、ほかの結晶とくっつきやすいからでしょうか。もしも六角形じゃなかったら、雪化粧も違う雰囲気になるのでしょう。結晶も、ひとりでいたくないのですね。放っておいたら、彼らは集まって、大きな六角形を描くのかもしれません。

 ただ眺めているだけでも十分美しいけれど、舞い降りてくるひとつひとつのsnowflakeを想像すると、より一層愛おしくなりますね。融けてしまうのがあまりに儚くて。こんど雪が降ったなら、そんな思いをめぐらせてみてもいいかもしれません。

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2016年11月20日

第682回「Nine Lives」

 もしもこの映画を劇場で観ていたら、僕はどうなっていたでしょう。打ちのめされて、スタッフロールはもちろん、明るくなってもシートから立ち上がれなかったかもしれません。

「9 Lives」

 ロドリゴ・ガルシア監督。2005年アメリカの作品。「美しいひと」という邦題が付けられています。NHK-FM「きらクラ!」に寄せられたリスナーさんからのお便りで紹介された映画なのですが、その文面から漂う香りにいい予感がしてみたら、これがまさしくど真ん中ストライク。本当に紹介してくれてありがとう、という気持ちでいっぱいになりました。

 9篇のショート・ストーリーからなるオムニバス作品で、どれも女性の心情に焦点を当てています。九つの人生。ショート・ストーリーではありますが、決してひとつひとつが軽いものではなく、一本の映画に匹敵するほどの重みを感じるのは、その10分前後のやりとりに、人生という大きなものを感じるからでしょう。長い人生から切り取った、9つの10分間は、女性たちの心の機微にグッと迫り、心を揺さぶられずにはいられません。

 ここまで引き込まれるのは、どのストーリーもワンカットで描かれているからでしょう。カットが変わらない。つまり、10分で10分を描写している。これが簡単なようで、なかなかできない。もちろん、作品のジャンルや方向性にもよりますが、ワンカットで見せるというのは、それなりの覚悟と意味が必要です。この映画は、ワンカットであることが信じられないくらい自然に流れていくので、もしかすると言われないと気がつかないかもしれません。

 人生から切り取られた10分間は、タイトルにあるとおり、9つのLIVES。9つの人生、いのち。それは、9つの愛の形でもあります。人の数だけ、愛の形がある。

 これほど重みのある骨太な作品にはなかなか出会えるものではありません。BGMもほとんど使用していないのも素晴らしい。あぁ本当に素晴らしい。この作品に出会えたことも素晴らしい。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといいますが、話題になる映画が素晴らしければ、番組も素晴らしい、ということです。

 爆音上映、応援上映、映画の楽しみかたは様々ですが、僕はどうしてもドラマの延長だったり、感動を押し付けるタイプは苦手で、やはり、こういう作品に出会えると、とても安心します。観客を信用している。泣けるかどうかとか、そんな次元で語られるべき作品でもありません。星の数で評価すべき作品ではないのです。

 感動していることに慣れてしまい、なかなかあの頃のように感動できなくなっていると嘆いていた矢先、感動が訪れました。この作品をいいと思えるのは、もしかすると年齢も関係しているでしょうが、おそらく20代の僕も好きになっていたと思います。こういう、振り切った映画を求めていたから。

 もっと前に知っていたかったけれど、いまでよかったのでしょう。必然的な出会い。映画も音楽も、出会い。この映画に出会える人生でよかったと思います。

*似たタイトルの作品があるので、借りる際はご注意ください。

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2016年11月13日

第681回「それは、恋のように」

 お気づきではないと思いますが、こう見えて僕は、日々、闘っています。目覚めから、寝る直前まで、場合によっては、寝ている間もかもしれません。対戦相手、それは、物欲。物欲という大きな怪物相手に、日々、格闘しているのです。

 最近はスマホでもパソコンでも、どういうシステムなのか、個人の趣味嗜好に合った広告がでてくるのは皆さんも経験済みだと思います。これらの広告が最近さらに力を増してきて、そこに引き込まれないようにするのが大変なのです。ターゲティング広告、リスティング広告、リターゲティング広告など、いくつか種類があるようですが、一度クリックしたからなのか、身に覚えのないものまで、まるでストーカーのようにつきまとい、物欲を刺激してきます。この、なかなか抜け出せない状態は、もはや沼。この底なし沼が現れると、ずるずると引き込まれて、購入するまで離しません。広告という沼に潜む、物欲という怪物と、闘わないといけないのです。

 とくに最近はまってしまったのが、「ジープ」の沼。そう、あの「Jeep」。これが、一度なにかをクリックしてしまったのか、あるとき現れたのです。それまで、僕の人生にはまったく関係のないもので、一生乗ることはないだろう、そういう意識すら生まれないほどでした。しかし、数回目にするうちに、踏み込んでしまったのです。軽い気持ちで一度クリックしてしまったが最後、それこそまさに、沼に足元を取られた瞬間でした。

 僕とジープとは不釣り合いに感じるでしょう。ジープといってもいろいろあって、ラングラーというタイプ。もともとは軍用車として作られたものですが、時代を経て洗練され、都会にマッチしたフォルムに仕上がっているのです。だから、オフロードをガンガン走りたいというのではなく、むしろ日常の移動車として。あの車でコンビニの前にとまりたい。あの中で、コーヒーを飲みたい。僕にあっているかどうかはわかりませんが、とにかく、もう数週間ほど沼に体が埋まり、肩まで浸かっています。

 ガラス越しにおもちゃを眺めた子供の頃と同じ感覚。ガラスがスマホの液晶にかわっただけ。あの頃は、「買っちゃだめよ!」とブレーキがかかりましたが、そんな年齢をとうに過ぎ、だからといって、衝動的に購入するべきものではないのはわかっています。燃費も悪いし、場所もとるし、故障もしやすい。なんなら雨漏りもするらしい。しかし、そんな抜け出すために悪条件攻撃をしかけてみても、通じないのです。車好きのだれかも言っていました。「最悪なんだけど、大好きなんだ」と。一度惚れてしまったら、買うしかない、たとえ後悔が押し寄せても。もはや、これは恋なのです。

 車選びというのは、一度惚れてしまうと、盲目的になってしまいます。100人中99人に不評でも、自分の気持ちを尊重してしまう。

 もうお気づきでしょう。僕の体は沼にはまっているどころか、怪物に抱きかかえられています。もはや、ディーラーの思うつぼ。全国に配置した沼にはどんどん人がはまっていきます。あとは溺れるのを待つだけ。車との出会いは、恋のようなもの。溺れてゆくものなのです。

 僕がこの沼から抜け出す日が訪れるのか、この沼に溺れてしまうのか。この恋の行方は、だれも知りません。

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2016年11月06日

第680回「最後の砦」

 郵便受けにはいっている茶色をみて、中身がわかりました。いまでは翌日、はやければ当日届いたりするので、ピンときてあたりまえなのですが、昨今の情報過多や、購入も簡単になっている状況は、自分でクリックしたことを忘れさせてしまいます。

「やはり、このサイズがちょうどいい」

 今年は、第一希望の手帳が届きました。モレスキンのマンスリー・ダイアリー。見開きで一月の予定がわかるタイプ。毎年、買わなくちゃと思ったときには遅く、違うサイズしか残っていなくて、ノートパソコンくらいのサイズと一年向き合うこともよくありました。

 ご存知の方も多いかと思いますが、イタリア製の手帳で、かつてはピカソやゴッホらも愛用していたとのこと。だから選んだわけではありません。いいなと思ったら、「え?ピカソも使ってたの?」という順番。シンプルなデザイン、革の質感もさることながら、なんといってもこのゴムバンドがたまりません。ゴムバンドなんて、小学生の紅白帽以来かもしれませんが、この閉じる動作があるだけで、だいぶ印象が変わります。

 手帳といっても、胸ポケットや常にカバンにいれているわけではなく、基本、在宅ワーク。ぎっしり書き込むでもなく、一週間に一度開く程度なのですが、この時間がとても大事で、自分の予定や過去と向き合う時間というよりは、ただ、漠然と絵画を眺めるような感覚に近いかもしれません。いまは、スマホでスケジュール管理もできてしまうし、実際、忘れてしまいそうなことはそこに書き込んでいるので完全移行も可能なのですが、その流れにブレーキをかける自分がいます。完全移行したくない理由。それは、上記のような時間が大切なのもひとつですが、もうひとつ、字を書かなくなってしまうからです。

 比較的女性は手紙を書く習慣など残っている気がしますが、僕の場合、暑中見舞いはもちろん、年賀状や手紙も書かなくなり、思い当たるところでクレジットカードのサインくらい。原稿もパソコン。もはや文字を書かない生活になってしまいました。ここで、手帳までスマホに移行してしまうと、僕は完全に、「文字を書かないひと」になってしまいます。

 言葉は伝える道具であるから、伝わることが大切ですが、文字を書くという行為を生活から取り除いてはいけない気がするのです。「あ」を記す時に、「あ」を描かない生活は、健全ではない気がして。

 人類はやがて、文字を書かなくなるかもしれません。手書きの良さは重宝されていますが、それも時間の問題。文字は、書くのではなく、打つものになってしまうのでしょう。まったく胸を張っていうことではないのですが、手書きの手帳を使用していることで、どうにか、文字を書く習慣を保っているのです。

 習字を習うまではいきませんが、文字を書くことの大切さは感じていたい。そういう意味で、このモレスキンの手帳が、最後の砦なのです。

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