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2015年05月31日

第615回「ちくわぶの憂鬱」

「いや、むしろ感謝しかないですよ」
 そういって、彼は続けた。
「そりゃぁ、大変じゃなかったといったら嘘になりますけど、得体のしれない食材をいままで使ってくれたのですから、ありがたい話です。でなかったら僕は、この鍋にたどり着くことすらできなかった。それどころか、世の中から消えていた可能性だってあるのですから。」
 そして彼は、遠くを眺めた。
「ただ、とにかく必死でした。違和感なんて感じることさえできないくらいに。だって、世界はそれしかなかったわけですし、自分がどんな料理に合うかだって僕自身わかっていない。だから、カレーにいれられようが、焼きそばにいれられようが、違和感を覚える余裕なんてないくらい、無我夢中でしがみついていたのです」
 彼いわく、それは10年にも及んだようだ。
「そして、あるとき思ったんです。しがみつくのをやめようって。このまましがみついていたら壊れてしまうと思って。それで、しがみつくのをやめて、漂流して、たどり着いたのがこの島だったのです。島というか、鍋というか…」
 彼は、沈黙を打ち破るように言った。
「だから、おでんがあって、本当によかったってことですよ!おでんがなかったら、相変わらず僕は、漂流していたわけですからね。僕がいまこうやってぷかぷかと浮いていられるのも、おでんのおかげ。お話をいただいたときはあまりピンとこなかったですし、最初は周囲も受け入れてくれなかったんですけど、いまは、この場所をすごく気に入っています。あくまで結果論なんですけど…」
彼は、笑みを浮かべながら言った。
「いま思うとおかしいですよね。カレーや焼きそばにちくわぶがはいっているなんて。だからこそ、これまで僕を使ってくれた料理には、心から感謝なんです!」
「あの、さきほどからちょっと気になっていたのですが…」
インタビュアーが話を遮るように言った。
「ちくわぶ、なんですか?」
あまりの唐突な質問に、彼は訝しげに答えた。
「なにをいまさら言っているんですか、そうですよ、ちくわぶですよ。びっくりするなぁ、もう」
「あなたは、ちくわぶではないです。」
「はい?」
「あなたは、ちくわぶではないです。」
彼は、後頭部を鈍器で殴られたような感覚に襲われたが、平静を装った。
「ちくわぶではない、といいますと?」
「ですから、あなたはちくわぶではありません」
「ちくわぶでないのなら、僕はいったい、なんだって言うんですか?」
「逆にこちらがききたいです!」
そしてインタビュアーが彼の目をじっと見つめた。
「あなたはいったい、何者なんですか?」
彼は、あたりを見渡した。そこはおでんの中ではなく、大きな海だった。

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2015年05月24日

第614回「だからロケットマンというわけではないですが」

 どちらかといえば、捨てられない人間です。おしゃれなショップの紙袋にはじまりiphoneの箱やパソコン購入時以来二度と開かない冊子、なにに使うのかわからない謎のコードまで。「いつか使う日が来るかも」という幻想に惑わされて、いつまでたっても捨てられない。かつて、ゴミ屋敷を片付けるロケでも、地域住民より屋敷の住人の肩を持ちたくなるほど、物に対する愛着が強いのか、捨てられない性格なのです。
 その一方で捨ててしまうものもあります。むしろ、これまでの人生を振り返れば、残酷なほど貴重なものを捨ててきた気がします。
 たとえば、白いヘアターバン。まだデビューして間もない頃、「シュールの貴公子」として颯爽とお茶の間に登場していた僕の頭の中では、ヘアターバンを脱ぐタイミングを考えていました。トレードマークでもある貴重なヘアターバン。無印良品で大量に購入こそしていましたが、イメージがのちに邪魔になるからと、脱ぐタイミングを見計らっていたのです。一言ネタもそうです。一言ネタは好きですし、僕の原点でもありますが、バラエティーに出る際は、一言ネタを持参せず臨んでいました。あくまで世に出るきっかけ。デビュー曲。いまつでもデビュー曲の上であぐらをかきたくない。のちに訪れるいじられ芸人としてのキャラクターや、マッシュルームなども同様です。時代に捨てられる前に、こちらから意図的に捨てました。
 時間を遡れば、小学生のころから培ってきたスポーマンの香りも捨てました。学歴も捨てました。まるでロケットのように、切り離していきました。マリメッコの紙袋は捨てられないのに、マックの箱を捨てられないのに。
 たとえば経営が危うくなっているシャープのように、液晶で掴んだ栄光だからこそ液晶を大切にするべきという考え方もあれば、液晶で掴んだ栄光だからこそ液晶を捨てるべきだという考え方もあります。誇りを持つことは大切ですが、あまり過去の栄光にしがみついていると船が沈没してしまいます。
 僕の場合、捨てるというよりは、押入れにしまっているのかもしれません。もしくは、自分のなかで消化したのかもしれません。いずれにしても、一連の「捨てる」作業は、自分を貫くための行為。自分の道を進むために、大きな荷物を置いてゆく。ロケットが月に到着するためには、途中で切り離さないといけないのです。たとえそれが、これまで大事にしてきたことであっても、これからの妨げとなるようのであれば、切り離さないといけないときもある。自分を維持するため、自分自身を捨てないために。本当に大事なものは、目に見えないから。果たして僕は次に何を捨てるのでしょうか。どこにたどり着くのでしょうか。その前に、紙袋をどうにかしないと。

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2015年05月17日

第613回「カフェとサロンとスイーツと」

 もうかれこれ20年になります。もちろん、ずっと同じ家ではありません。一人暮らしをするならここがいいと車窓を眺めていたのが高校生の時。晴れて契約したワンルームマンションを皮切りに、一度離れたことはあるものの、基本、この街の中で引越しを繰り返しています。ここは、カフェとサロンとスイーツの街。週末ともなればお祭りのように若者たちで溢れかえり、日曜日は歩行者天国にもなります。それでいて、少し離れれば閑静な住宅街。メルヘンおじさんにとってはとても居心地のいい空間。入りたいけど勇気がなくて店の前を自転車でいったりきたり。家に帰ってネットで覗いてみたり。行かなくても、素敵な雰囲気のカフェがあるだけで日常生活は潤い、ちょっとした隙間に小さなお店がいくつもあるから、宝探しのようで、散策していてとても楽しい街並み。それでもどうしても行きたくなったら、海外に行くくらいの決意で扉を開けます。
 この街は、多くの美容院を見かけます。犬も歩けばサロンにあたる。数えたことはないですが、クリーニング屋さんをいざ数えてみると想像以上にあるので、その数は数百にもおよぶのかもしれません。以前もお話ししたでしょうが、この街に一軒しかないファストフード店がなくなり、なにができるのかと思って期待に胸を膨らませていれば、まさかの美容院。ただでさえ飽和状態だというのに、こんなにも満員電車にさらに乗り込んでくるとは。ラーメン街道などのように、同じ業態のものが集まることによる効果はあるにせよ、それにしたって、一軒しかない店舗が不振で300件近くある美容院が成功する不思議。経済学をもっと勉強しておけばよかったです。
 この街では、行列を見かけます。ラーメンではありません。そうです、スイーツです。どこで嗅ぎつけてくるのか、朝から女の子たちが並んでいる光景。並ぶことが苦ではなく、まさしくディズニーランドのアトラクションと同じような感覚なのかもしれませんが、まぁよく並んでいます。駅の近くならまだしも多少離れていても。かつて、ロールケーキ専門店ができたとき、さすがにこれは厳しいだろと思ったのですが、それ以降、いまだに行列のない日を見かけません。見たとしたらそれは販売終了のとき。さすがはスイーツの街。僕はいまだに食べることができていません。いったいどれほどのロールケーキなのでしょう。
 そんなメルヘンの街が、ここへきてまた勢いを増している気がします。大きな焙煎機が見えるカフェだったり、スイーツも増えてきているようです。エストニアのように、そろそろ街全体からシナモンの香りがしてくるでしょうか。コーヒーとシナモンの香る街。ぶらぶら散歩したり、ぼーっとお茶するのにいい街。原稿もカフェで書いてみたり。20年在住ながら、はいりたいけどなかなかはいれないもどかしさを日々味わっています。

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2015年05月03日

第612回「手間を取り戻せ!」

 ころころと転がってゆくコーヒー豆たちを閉じ込めるように、竃のような鉄の蓋を閉めたら、左手で木製の台を抑え、右手で小さなドアノブをゆっくり時計回り。
「がーがーがーがー、ごりごりごりごり」
 コーヒーの香りが、鼻を刺激しはじめます。
 ということで、コーヒー・ミル生活始めました。コーヒー好きのイメージからか、ファンの方から珈琲豆をいただくことがあり、以前からなんとなく目をつけていたのですが、これからアイスコーヒーのおいしい季節だしという若干の気がかりを突き破り、購入してしまいました。もちろん、自動ではなく手挽き。クラシカルな雰囲気漂う手挽きミルは、置いておくだけでも部屋のアクセントになりますが、あまりにかわいらしいので、ついつい挽きたくなります。
「がーがーがーがー、ごりごりごりごり」
 下の小さな引き出しを開ければ、挽きたてのコーヒーが鉛筆削りのように溜まっています。閉じた勢いで、また鼻までやってくるコーヒーの妖精たち。やがて部屋に充満していく朝のひととき。こんなことなら、もっと早くやっておけばよかったと思わずにはいられません。
 それにしても、この「ごりごり」という手応え。幼少期のガチャガチャのように絶妙な手応えが癖になります。正直、こんな心地いいことを機械にやらせてはもったいない。それに、ゆっくりまわしている時間は、ぼーっとするのにちょうどよく、心にゆとりが生まれるようで。豆を挽く行為は、利便性を追い求める過程で文明の利器にとってかわられ、削ぎ落とされてしまいましたが、この省かれた時間と手間を取り戻し、あらためて自分のものにしてみれば、贅沢とさえ感じます。もしかするといまは、機械にやってもらっていたことを自らの手で行うことがひとつの「贅沢のカタチ」なのかもしれません。硯で墨をする時間しかり、こういった「のりしろ」は必要で、そういうものが削ぎ落とされてしまうと、生活に「余裕」や「うるおい」がなくなってしまいます。まぁ、校長先生の話はここまでにして、淹れたてのコーヒーをいただきましょう。
 自分で挽いたコーヒーがまずいわけありません。多少濃かろうが、薄味だろうが、旅先でただバスに乗ることに感動が生じるように、自分で豆を挽いて淹れたコーヒーは格別なのです。ボサ・ノヴァ流れるfukawa bucks coffee。ベートーベンは毎朝好みのコーヒー豆をひとつひとつ選んでいたようですが、そのうち豆一粒一粒にもこだわりそうな気がします。
「がーがーがーがー、ごりごりごりごり」
 新幹線を散々味わったいま、各駅停車の旅に新たな価値が生じるように、時代によって、「贅沢のカタチ」は変わるもの。機械にやってもらうことで手間が省けた便利な時代から、その省かれてしまった手間に目を向ける時代へ。いまから川で洗濯しようということではありません。すべてを機械に任せてしまうと味気のない生活になってしまうから、そのどこか一部分を担うことで、生活にコクがでてくるのではないでしょうか。利便性と手間のブレンドで、人生は、ちょっとビターで深みのある味がしてくるのです。
「がーがーがーがー、ごりごりごりごり」
 それは、文明に奪われていた音。人はどこかで面倒くささを愛しているから。第三楽章に、新たな楽器が加わりました。

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