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2013年11月25日
第551回「なにげない一言が動かす人生」
先日、某アーティストの20周年ライブでのことでした。
「ふかわさんは、どうします?」
昼の部と夜の部の間。マネージャーの言葉を、すぐには理解できません。
「どうしますって?」
「ふかわさんの、20周年です」
まるで、解凍されるイカのように、全身が温まりはじめました。
うっかりしていました。他人の20周年に気をとられていたのか、自分にもやがて訪れる、ましてや結構近いところまでやってきていることを、すっかり忘れていました。いったい、なんのために区切りのいい20歳からはじめたのでしょう。のちのちカウントしやすいからというのも理由のひとつだったのに。昔から、演歌歌手や大御所の芸能人がパーティーを開催しているのをワイドショーなどで拝見していましたが、まさか、自分がそういった立場になるなんて。
「でも、まぁ、いつも通りでいいんじゃない?」
本当にそう思っているのか、見栄を張っていたのか、判別は難しいけれど、その言葉を発してからというもの、「20年」を意識する時間が増えてきたからか、「いつも通り」ではいけないのではないか、いや、「いつも通り」にしてはいけない、したくない、という想いがみるうちに増殖し、いまとなっては過半数を超える一大政党にまで成長してしまいました。ワイドショーで見たようなド派手なことをするわけではないけれど、2014年という年を、僕なりの、それなりの、メモリアルな一年にしたい、そんな気持ちがいま、体のなかで温かくなっています。
とはいっても、何年活動しようがしまいが、本人以外はあまり気にしていないもので、押し付けがましい印象もあるかと思いますし、あまり気負わない方が、功を奏す場合もあります。しかし、どうでしょう。ヘアターバンをして踊りはじめてから20年。あれから20年も経ったのです。光陰矢の如し。みなさんをはじめ、多くの方たちに支えらなければ、今日はありません。そんな感謝の気持ちをエネルギーにして、普段とは違う一年に、例年とは違う輝きにできないだろうか。竹のように、ここからさらに伸びていくための節目の年。いまこそ、数字の力を活用するとき。
年が明けてから慌てて用意していたら間に合いません。というか、すでにもう遅いくらい。厳密にいえば、20歳の誕生日に門を叩いたので、8月で20周年を迎えるわけですが、意識しているだけでも全然違うものです。ということで、気が早いですが、来年は、誠に勝手ながら、わたくし、ふかわりょうの芸能生活20周年メモリアルイヤーということにさせていただきますので、どうかお力添えのほど、よろしくお願い致します。さぁ、「大切な話」は、どこでしましょうか。
2013年11月20日
第550回「正義が世界をダメにする」
早いもので今年も、クリスマスソングを耳にする季節になりました。清水寺で発表される今年の一文字は、東京五輪の「輪」なのではと思っていましたが、まだまだ油断はできません。とりわけ、偽装の「偽」は、まだ射程距離内にいるといえるでしょう。
下半期は、食品偽装、ねつ造、など、芋づる式に「偽」にまつわるニュースが続きました。「羊頭狗肉」という言葉があるように、昔から「看板に偽り」はあったわけで、もしかすると今後もなくなることはないのかもしれません。もちろん、それらを善しとしてはいけないのですが、徹底的に「偽り」を糾弾していることには、違和感を覚えます。「偽る」ことよりも「偽りを根絶させようとする風潮」の方が、僕は、はるかに恐ろしく感じるのです。見えない力、集団の圧力。それは、戦争に向かう流れに逆行できなかった空気やエネルギーに、似ているのではないでしょうか。
ご存じの方もいるかと思いますが、引っ越してからというもの、毎朝、クイックルワイパーをかけていました。それは、引っ越ししたてというのもありますが、なにより、家が白いから。床も壁も白く、ちょっとしたゴミやほこりが目立つのです。フローリングだったときは滅多にそんなことしなかったのに毎朝掃除をするのは、以前が綺麗だったからではありません。気づかなかっただけ。ひとたび真っ白な世界に移った途端、小さな汚れまでも目に付くようになっただけ。しかし、時間が経つにつれ、意識に変化が現れました。そういうものかと、徐々に大目に見られるようになったのです。これでもし、引っ越し当時のモチベーションを維持していたら、きっと、いまの住まいに疲れていたことでしょう。ある程度、部屋は汚れるものだ覚悟しておかないと、精神がもたないのです。
最近の世の中は、ネットが普及してからというもの、あらゆることが浮き彫りになるようになりました。人々は、白い部屋に住むようになったのです。ちょっとした汚れさえも目立ってしまう。いままではそれほど問題視されなかったことも明るみにでてしまう。それは決して悪いことではないのですが、それらを根絶しようとすると、かえって息苦しくなってしまうもの。どこかで汚れの存在を受け入れないと、結局、キリがないのです。
テレビにしても、ホテルにしても、やってはいけないことには間違いないですが、やはり人間社会。「偽り」が存在していてもおかしくないと、頭の隅に置いておくほうが賢明でしょう。むしろ、テレビにしたって、疑いを持たず鵜呑みにしていることのほうがよほど危険なこと。信用をなくしている状態のほうが健全。騙すほうも悪いけれど、騙される方にも非がある、くらいの意識も、ときには必要なのです。
フィリピンでの治安悪化を見れば、日本人がいかに秩序や和を重んじているのかわかります。反面、和を乱す者への制裁は目を覆いたくなるものがあります。マスコミに踊らされ、少し、目くじらを立てすぎなのでしょう。目指すのは、偽装のない社会ではなく、偽装があってもガタガタさわがない精神、空気。動じない心。覚悟と寛容なのです。そのほうが近道でしょう。世界を変えたいのなら自分が変わればいい。偽りなき世の中を期待するものではないのです。
ゴミひとつ許さない生活にするのか、大目に見るのか。僕たちはもう、真っ白な家に引っ越してしまったのです。
2013年11月13日
第549回「数字では計れないもの」
時折見かける、有名人が月収などを打ち明ける光景に違和感を覚えるのは、人の心を動かすことを生業とする者が収入という具体的な数字を公表することで感動を与えるようではあまりに芸がなさすぎる、という理由のほかにもうひとつ、最近、必要以上に数字で切り取る光景を目の当たりにするから。ドラマがはじまれば、その内容もさることながら、あがっただのさがっただの、その視聴率が取り沙汰される。以前からあったとはいえ、ここ数年でしょうか、数字で切り取られることが顕著になりました。
映画は興行収入、アルバムは売り上げ枚数、たしかにそれらはひとつの指標であり、数字で計られることは仕方のないこと。それでしか計りようがありません。しかし、人間がそうであるように、物事すべてが数字で計れるわけではありません。というよりも、むしろ、数字で計れないもの、数字の向こう側に、大切なことが存在しているのではないでしょうか。それなのに、どうしても人は数字で計り、判断してしまう。低い視聴率だからといって、質が悪いかどうかはわかりません。たしかに数字も大事ですが、それだけで判断する世の中は、うわべだけの社会、奥行きのない世界を生んでしまうのではないでしょうか。
数字ばかりで切り取っているから、偽装問題や、やらせまがいの演出が横行する。数字に気をとられた結果、本当に大切なことを見失ってしまう。数字や記号で切り取る社会に、外見が重視される美魔女が生まれるのも必然。栄養をとるために、錠剤だけを摂取する生活のようなもの。
もしも数字がなかったら。そんな生活は考えらないでしょう。だからといって、数字ばかりに気をとられていると必ずどこかで歪が生まれる。時間がなくなっては困りますが、時間に縛られすぎると、いつか破綻してしまう。なんでもそうなのです。結局、数字もひとつの道具にすぎず、ツイッターなどと同様、使い方を誤ってはいけないのです。
なぜ数字が横行するのか。なぜ数字で計り、数字で判断するのか。それが簡単だから。それが楽だから。もっといえば、自分で計り、自分で判断することを放棄しているのです。果たしてそれで、賢い生物と呼べるのでしょうか。
もし、数字よりも大切にしているものがあれば、やらせだと糾弾されるような演出法は選ばないはず。視聴者よりも、まず自分が許さない。それは、どこの世界でも同じ。数字にしがみついていると、ろくな行動をとらなくなる。数字の奴隷になってはいけないのです。
年齢だって、それが人間を決定付けるものではありません。あくまで目安にすぎず、ひとつの尺度。5段階評価の成績にしてもそう。教育機関が人間を数字で計るところにそもそもの矛盾がある。数字は利用する、活用するものであって、振り回されるものではありません。あとからついて来るもの。便利だからこそ、過度に依存してはいけないのです。
数字が横行する社会、それは奥行きのない、うわべだけの世界。数字では計れないものはきっと、見落としているだけで、たくさんあるはず。そういったものに目を向けなければなりません。数字の向こう側にある、数字では計れないもの。それこそ、尊重すべきものなのです。
2013年11月02日
第548回「美魔女について」
遂にというか、やはりというか、「美魔女論争」なるものが勃発したそうです。たしかにこの三文字はよく目にするし、論争自体は悪いことではありません。ここまで発展するのは、良かれ悪しかれ、世間が関心を持っている証拠といえるでしょう。参戦するわけではありませんが、もし、どちらかにつかなければならないとすれば、僕は、肯定派になります。
たしかに、「美魔女」と呼ばれる人たちのなかには、若干、見るに堪えない、直視できないケースもあります。また、八千草薫さんのような、ナチュラルに年を重ねているほうが、見る側としては安心もします。「美魔女」というネーミングや、「国民的」という響きに違和感を覚えるのも事実。しかし、それら以上に、「女性とはこうあるべき」とか、「主婦とはこういうもの」などと、やたらと「こうあるべき」を主張する人々に、強烈な嫌悪感・違和感を抱くのです。
一体だれが決めたのでしょう。主観でしょうか。常識でしょうか。「女性はこうあるべき」だなんて、教科書でもあるのでしょうか。「こうあるべき」を自分自身で貫くのは一向に構わないのですが、それを他人の生き方に当てはめることは、誰にも許されていません。自分の理想を他人に押し付けているだけ、型にはめようとしているだけなのです。
そもそも、この国では、人を外見で判断したり、外見を磨くことに対して、どこかネガティヴな印象を持っています。私は結婚相手を外見で決めました、というと、白い目で見られてしまう。いったい何が悪いのか。彼の優しさに惚れたという人ほど、実際は外見に惚れていたりします。本当は外見を重視しているのに、口にしてはいけない風潮。「やさしさ」なんて曖昧で、その尺度こそ千差万別。それで他人は否定できないだけ。外見は内面を反映しているのだし、顔には人生が集約される。下手に内面を探るよりも、第一印象で決めるほうがむしろ良い結果を生むもの。もっというと、外見を磨いている人は内面は磨いていない、という発想こそ、偏見甚だしいのです。
おそらく、否定的な人たちも、きっと、美魔女に対してではなく、「美魔女たちをちやほやする風潮」に対してであるのでしょう。時代に対するフラストレーション。しかし、そんなこといったら、もっと目くじらを立てるべき人々はたくさんいます。なぜあんなにちやほやされるのかと。
かつて、「オバタリアン」という言葉をよく耳にする時代がありました。美貌よりも、そのパワフルさ、大胆不敵なキャラクターが世の中を席巻しました。あのときだって、「オバタリアン」は一部だったでしょうし「美魔女」も存在していたでしょう。時代がスポットライトの向きを変えただけなのです。
結局、この国の根底に流れているのは、島国根性。仲間外れや、いじめ、差別意識。これらは半永久的に拭えないのです。出る杭は打たれるか、村八分にされる。多数決が重んじられ、人と違う者は異端扱い。ちやほやされるものは妬まれる。これらは昔からあって、食品偽装同様、もう、なくならないのです。
美魔女さえも許容できない社会になったらおしまいです。それこそ魔女狩りと変わりません。注目を集めている分、向かい風を覚悟しなくてはならないことも事実ですが、いくら整形しようが豊胸しようが、彼女たちが自分の憧れを追求すること、ちやほやされたいと願うことを、だれも否定はできないのです。