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2013年05月26日

第531回「それをガチモードと呼ぶ」




 文明によってさまざまな時間が短縮されているけれど、その力ではどうにもならないものもあるなかで、僕の場合、13年かかりました。月日を重ねて築き上げるもの。それは、ひとつの決断に至るまでの時間。





ROCKETMANを、なくそう」





芸人さんがコントをする際に、カツラをかぶったりメガネをかけたり、なにかひとつ記号を加えることによって、それがフィクションだというサインにもなりますが、なにより、その世界に入りこむ足がかりになります。僕にとっていわばそれにあたるわけで、「ROCKETMAN」と名乗ることで、音楽の世界に入り、動きやすくなる。気持ちの整理がつく。そんな役割を担ってきたのですが、ここへ来て、心境に変化が生じてきました。重大な記号を、「なくてもいいかな」と思うようになったのです。





具体的、直接的なきっかけはありません。一年かけて花を咲かせるように、歳月、時間、が必要だったのです。13年という時間が、音楽に対する情熱においても、また、制作する楽曲においても、胸をはって、ひとりのアーティストとしてやっていく覚悟と自信を、僕に、与えてくれたのです。決して、遠回りをしたとも、時間をかけすぎたとも思いません。この心境に至るまで、それだけの時間が必要だったのです。





なので、これから発表するものは「ROCKETMAN」ではありません。ラジオ番組もありますし、まったくそれがなくなるわけではありませんが、目にする機会は減ると思います。アルファベットにしたのは、海外の人でもわかるため。自分の力を、音楽の力を、試したくなったのです。





かくして僕は、ガチモードに突入しました。今夏リリースするアルバムはインディーズ、レーベルはテノヒラレコーズ、つまり、すべて自腹。自分の尺度で作り、youtubeなどで自由にあげたりしたいので。また、これまでsoundcloudにおいて、無料で聴ける場所を作りました。無料で聴いてもらうことも大切ですが、「無料だからいいか」と、自分の作品作りに油断が生じてしまう恐れもあります。お金を払ってでも聴きたいと思える音楽、お金を払って手にしたい作品、そういったモノを創りたい。誰でも発信できる時代だからこそ、お金は重要なのです。だから、今後はそのバランスを保ちながら、soundcloudyoutubeなどを活用します。それにしても、前回のアルバムから一年もたたないうちに、こんなお知らせができるなんて。果たしてこのエネルギーはどこからきているのか。では、楽しみにしていてください。みなさんの夏を、今年も彩らせていただきます。



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2013年05月19日

第530回「それがマイノリティーだとわかったうえで」




「映画10000本見放題!」というフレーズになんの魅力も感じないどころか、むしろこういったものに恐れを抱いてしまうのは、僕は、足りない世界にこそ満足感があり、満たされない世界にこそ輝きが生まれると思っているから。なんでも簡単に手に入る環境が、人を不幸にしてしまうと思っているから。





たくさん汗をかいたあとだからビールはおいしいし、プールの大きさのプリンはクソまずいもの。簡単に手に入れたアカデミー賞作品よりも、初めてのデートで観に行ったクソ映画のほうが、価値はある。記憶と感情は密接につながっていて、感情が強いほど記憶は深く刻まれる。飛行機のなかで観た映画が長く残るのも、旅の途中だからかもしれません。





一万本観られる環境を手に入れる、ということはつまり、そういうことで、映画と決別するようなものなのです。見放題は決して、本当の快楽ではなく、苦悩なのです。水や空気のように、常に映画を観ていないと死んでしまう人以外は、無限という地獄のなかで、もがき苦しむだけ。





もちろん、人の生き方は自由だし、なにを幸福に感じようが、不正解はありません。おそらく、僕のような考え方のほうがマイノリティー。しかし、一万本観られることの方が幸福だと思っている人たちと、一万本観られることは不幸だと感じる人たち、どちらの考え方が争いを生むのでしょう。





 すべて満たされたいと思っていたら、それはやがて、衝突を生みます。満たされないことが幸福だと思っている人は、どんなに幸福を追求しても、どこにも衝突しません。しかし、多数派は前者。多数決でだされた答えなんて所詮、そんなものなのです。





やがて地球は太陽フレアによって、いま手にしているケータイ・スマホが単なる鉄の塊になります。実は、鉄の塊のほうがまだましで、現在のはかり知れない機能を備えている状態の方が、むしろ人間を苦しめています。そんなインターネット時代を謳歌するあの微笑みは、僕には悪者に見えてしまう。悪の微笑み。悪を倒すのは、「カギリスト」です。無限の世界に限りをつけてくれる人、「カギリスト」が必要なのです。一万本観ることよりも、最高の一本に出会うことのほうが人生には大切。これからの時代は、「見放題の環境」よりも、「一本を提示してくれる人」が求められるのです。それこそまさに「カギリスト」。この世を救う正義のヒーローは「カギリスト」なのです。





 



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第529回「ラーメンとカップラーメン」




 いまさらですが、僕はカップラーメンが好きです。おそらく嫌いな人もあまりいないのではないでしょうか。世の中のほとんどの人がカップラーメンが好きで、実際、世界でもっとも多く食べられているラーメンがカップラーメンのようです。





ちょっと小腹がすいたとき。深夜、いま食べたらよくないなぁと思いながらすするカップラーメンは、罪悪感さえもスパイスとなり、格別の味。ときどき食べるからさらにおいしく感じられます。幼少期の頃から親に「カップラーメンは食べちゃダメ」と散々言われたから、いまでも僕は、深夜であろうとなかろうとどこかに罪悪感はあるのですが、プラスチックの容器にはいった独特の麺とスープは、いわゆるどんぶりにはいったラーメンとは違った味わいがあります。そしてなんといってもあの手ごろさ。お湯さえあればいつでも簡単に、即座に食べることができるカップラーメンが、どれだけ多くの人々の胃袋を、生活を支えてくれたことでしょう。





と、いまさらながらカップラーメンの魅力を語るのは、ひとつ、気になることがあるからです。





それは、「カップラーメン」と「ラーメン」の区別です。どんなに「カップラーメン」が愛されようと、進化しようと、ラーメンとは別のものということを忘れてはいけません。「ラーメン」と「カップラーメン」、ふたつを同じ土俵にあげてはいけないのです。だから冒頭で述べた、「世界でもっとも多く食べられているラーメンがカップラーメン」は間違いで、比較してはいけないのです。しかし、だんだんその区別がつかず、境界線が曖昧になり、気づいたら、世の中、「カップラーメン」ばかりになってしまいました。





「カップラーメン」ばかりの世の中で、「ラーメン」がまっとうに評価されない。多くの人に伝わらない。もちろん「カップラーメン」がいけないわけではありません。どちらもこの世には必要です。なにが「ラーメン」で、なにが「カップラーメン」か。それこそ非常に難しい基準でしょう。しかし、消費された数だけで計っていたら、「カップラーメン」だらけになってしまうのも当然。そして、「カップラーメン」を「ラーメン」だと思いながら食べている人がいる。「ラーメン」を知らずに、「カップラーメン」を本物だと思っている。そうした人たちが増えれば、「カップラーメンの世界」になってしまう。





「ラーメン」と「カップラーメン」。「カップラーメン」ばかりの世の中で僕は、「ラーメン」を食べたい。「ラーメン」を作りたい。





 



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