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2012年02月26日
第476回「パイとタルトとマトリョーシカ」
第六話 魔法をかけられて
「さぁ、出発だ」
一泊のはずが急遽二泊になってしまったものの、おかげでのんびりできました。ここからが本番、冬のフィンランドを満喫しにいきましょう。
「え?」
まさかとは思いました。心がなにか言っています。
「今日も?!」
どうしたことでしょう。体が動きません。
「嘘でしょ……」
自分でも信じられませんでした。体が、心が、フィンランドに戻ることを拒んでいます。この期に及んで、もう一泊しようとしていました。
「もう、さすがにそれはないって!」
今日ここに泊まったらフィンランドが負け越すことになります。もはや、冬のフィンランドというより冬のエストニア。これでは付添でいった人がオーディションに受かってしまうようなもの。
「いやいや、そういうことじゃないから!目的は冬のフィンランドだから!」
ここはあくまでおまけであって、寄り道にすぎない。たとえ気に入ったとしても、そういうことじゃない。むしろ寄り道という括りだから輝いて見えるんだ。魔法をとくように何度も言い聞かせます。
凍てつく寒さ、雪に覆われた大自然、白銀の世界の昇る朝日。間違いなく好きな世界。必ずや気に入るにちがいない。帰りの船の時間も、最北ラップランドへの飛行機の時間も調べてあります。なのにどうして。
「オーロラだって見えるかもしれないのに!」
必死に説得するも、パソコン画面にはタリンのホテル。まさかクリックしてしまうのか。
「信じられない…」
そうして3泊目の宿が決まりました。ラップランドではありません。いったい何泊すればいつまでいれば気が済むのか。いったいいつ、どの瞬間に魔法をかけられたのでしょう。このままでは一生でられません。
「ほんとにいいんだね?」
そして、ホテルをあとにしたオレンジ色のカートはまた別のホテルに吸い込まれていきます。もはや、城壁の外にでられなくなっていました。完全に囚われの身。
「寄り道どころか…」
寄り道ではなく、本線になりつつあります。このままではフィンランドが寄り道のレッテルを貼られてしまう。胃袋を掴まれたらおわりと言いますが、この街の雰囲気、香り、音、すべてが僕の心をつかんでいるようでした。たしかにオーロラはもう何度か見ているし、あまり過度な期待を抱くとみられないもの。それにいまの僕は銀世界やオーロラよりも惹かれるものがあります。
「たしか、ここらへんだと思うんだけど…」
昨日のお店。魔法をかけたのはあのタルトでしょうか。しかし、歩きまわっているうちに遭遇したものだから、昨日の場所がなかなか現れません。いったいあのお店はどこにあるのか。旧市街をなめまわすように歩きます。石畳の海を渡る灰色の船。果たして大陸は見つかるのか。そもそもあれはタルトだったのか。それをインドだと思い込んでいたように、あれはタルトではなかったのかもしれない。
「あれかな…」
見覚えのある細い路地。大きなガラスが見えてきました。開店したばかりなのか、店内はまだだれもいない様子。ラズベリー大陸はどうやらだれかに侵略された形跡があります。
「テレ!」
昨日と同じ席。昨日と違う店員さん。せっかくだから別の大陸に上陸しようかとガラスの向こうの大陸たちを眺めます。どれも開拓済みではあるものの、どの大陸も魅力的。そして、今日上陸する大陸が決まりました。
「スールアイタ!」
エストニア語のありがとう。カフェラテを刀に、いちごのムース陸地が開拓されていきます。なにか視線を感じました。
「じゃぁ、ここで待っているのよ」
といわれたような小さな子供。ぷっくりとした白い肌に水色の瞳、まさに天使のような子供が座っています。
「キミは日本人か?」
「え?」
「日本人か?」
「あ、はい。あなたは?」
「わたしは、天使だ」
「天使?」
「そう、この街に住む天使だ。うまいか?」
「はい?」
「そのムースうまいかって訊いてんの!」
「あ、はい、おいしいです!」
「そうか、じゃぁよかった。ゆっくりしてってくれよな」
「あ、はい。えっと、あなたは…」
「だから、天使だって!」
そうして天使は母に抱かれて去っていきました。魔法をかけたのはあの子だったのでしょうか。
「いい天気だ…」
またここに来てしまいます。ラエコヤ広場の引力も、一種の魔法かもしれません。ただ、この魔法は大変な事態を招きました。信じられない異変が起きたのです。
「ようこそ、タリンへ。ようこそエストニアへ」
もはや観光客を迎える立場になっていました。こんなことがあっていいのでしょうか。二泊した僕の体と心はもはや地元の人になっています。もうすぐ道を尋ねられるかもしれません。やがてこの広場にお店をだしてしまうのでしょうか。もしかしたら目の前の屋台はそういった魔法をかけられた人たちによるものなのかもしれません。
「もう一生でられないかも…」
青く澄んだ水色の空を映すガラスの向こうで、マトリョーシカたちが見ていました。
2012年02月12日
第475回「パイとタルトとマトリョーシカ」
第五話 大航海時代
「大陸だ…」
コロンブスと同じ心境でした。長い長い航海を経て、ようやく目の前に現れた大陸、それは大きなタルト。クッキーのような茶色で縁取られた真っ赤なまあるいタルトがショーケースのなかで輝いています。宝石のように輝くその大陸を気にしながら僕は、通りの見えるテーブルに着きました。
「テレ!」
エストニアの挨拶。巻き舌でいうひともいます。赤いテーブルに緑のソファー。このお店がこれまで見たカフェと雰囲気が違うのはおそらく地元のひとたちが集まる場所だからでしょう。店員さんはもちろん、お客さんも、日常の空気。だから賑やかというより、落ち着いた時間が流れています。
「どうしよう」
果たして上陸すべきだろうか。なにせ、ついさっき朝食でお腹を満たしてきたばかり。しかし、あの大陸を目の前にして、無視するわけにはいきません。
「ラズベリーのタルトなの」
大陸の向こうから顔を出す女性の声。ほかにもいくつか大陸はあるけれど、未開拓なのはこの赤いタルトのみ。あらためて見る、ショーケース越しの赤い大陸はやはりほかのどれよりも魅力的で、むしろ上陸するのがもったいない気がしてしまうほど。
「どうぞ」
テーブルの上で小さな蝋燭の火が揺れています。カフェオレの白と茶色。ビールのように口のまわりについてしまいそうな白い泡の部分を通り抜けて、茶色い部分が流れてきます。鋭角に切り取られた大陸。これが今回開拓した場所です。先端から切り崩されると、冷たいラズベリーが体のなかを冷たいまま、ころころと降りていきました。
「うん、上陸してよかった!」
わざわざエストニアまできて、小さなカフェでカフェオレとタルト。こんな大人にいつなってしまったのか。ときどき、馴染みのある音楽が流れてきました。
「Must puudel?」
切り取られたばかりの大陸が、ガラスの向こうでどっしりと居座っています。なんて読むのか、どういう意味なのかわからないまま、お店の名前をカメラに収めました。
「いい天気だ…」
気づくとここにきてしまいます。この賑わいは幸せの音。この匂いは幸せの香り。この広場の引力から逃れることができません。どこかへいっては必ずここに戻ってきてしまう。時間がたつと気になってまた来てしまう。なにもしない旅はいつのまにかフィンランドではなく、このエストニアでしっかり決行されていました。
「イヴァロまでは…」
窓からは石造りの家並み。部屋に戻ると明日以降の予定を立てていました。イヴァロというのはフィンランドの最北の地。いまは雪に覆われて、オーロラ観測もできる場所。ここで真っ白な世界に囲まれて「なにもしない」というのはどうだろうか。凍てつく寒さ、静寂、神秘的な光景、そしてオーロラ。なにもしない場所としては最適です。極上のなにもしない場所。ベッドの上で光が舞っています。そして夜が更けていきました。
2012年02月05日
第474回「パイとタルトとマトリョーシカ」
第四話 気まぐれブーツ
「いま何時?」
ロマンティックな街並みにノックアウトされた僕は部屋に戻るといつのまにか寝ていたようです。食べ残したシナモンフレーヴァーのアーモンドの香りが部屋を満たしていました。
「もう、おわっているかな…」
窓の外はすっかり暗くなっています。昼間目にした広場の屋台はもう閉まっているかもしれない。長すぎた仮眠を若干後悔しながら歩いていくと、そこにはさっきと違った世界が待っていました。
「おわっているどころか…」
町が輝いています。ライトアップされた建物がオレンジ色に染まっています。派手な電飾ではなく、手作り感のあるシンプルな装飾。はじめてなのにどこか懐かしさをおぼえます。雨にぬれる石畳が光を反射して、全体が水上に浮かんでいるよう。空にのびる市庁舎の塔は石の壁がやさしい光を浴びて夜空を彩っています。幻想的な光景。もはやクリスマスソングも違和感ありません。シナモンの香り、ソーセージの光沢、子供たちの瞳。どうしてこんなにもピースフルなのでしょう。甘めの紅茶が体の中を降りてゆく夜のラエコヤ広場。
「誰もいない…」
その賑わいが嘘だったかのように、いまあるのは静寂とやさしい明かり。朝5時。といってもまだ夜の雰囲気。屋台はすべて閉ざされています。だれもいないラエコヤ広場はだれも見ていないのがもったいないほど、静かな時間が流れていました。白い息を吐きながら夜明け前の旧市街を散策すると、外套ひとつひとつがぽわんとやわらかい光。誰もいない石の小路を歩いていれば、いまにも中世のドレスを着た人が出てきそうです。
「やったぁ…」
散歩から戻った僕を、またしても光り輝くものが待っていました。それはサーモン。銀色のプレートの上を泳ぐように赤いサーモンの切り身が列をなし、こんもりと、ちょっとした丘を形成しています。暖炉と石壁とランプ。気分は中世の貴族でしょうか。ナイフとフォークもこころなしか上品に動いています。
窓から久しぶりの青色が見えてきました。今日はどうやら天気がよさそうです。この感じなら、海も穏やかでしょう。
「出発かぁ…」
しかしどうしたことでしょう。体が動きません。まるで魔法をかけられてソファーにくっついてしまったかのように、腰が持ち上がりません。
「嘘でしょ」
自分でも信じられませんでした。体が、心が、フィンランドに戻ることを拒んでいます。もう一泊しようとしているのです。
「いやいや、そういうことじゃないから!冬のフィンランドだから!」
ここはあくまでおまけであって、寄り道にすぎない。たとえ気に入ったとしても、そういうことじゃない。自分に言いきかせているのに、体がいうことをききません。しばらくしてホテルをあとにしたオレンジ色のカートは、別のホテルにはいっていきました。
「長い寄り道だ…」
そこは昨日泊まったホテルから目と鼻の先。あいにく昨日のホテルはいっぱいでしたが、今回も旧市街の中のホテル。ここでもう一泊することになりました。あまりの気まぐれに、自分でもあきれてしまいます。
「いい天気だ…」
葉のない木々が青空を泳いでいます。背景が水色になって、昨日とは一味違う旧市街。今日も石畳の道を灰色のブーツが歩いていきます。
「これは?」
狭い路地に石の壁で囲われたガラス張りのお店。小さなカフェがありました。旧市街にはそういった感じでかわいらしいお店によく遭遇するのですが、ここはほかのカフェとはちがう光を放っています。
「はいってみる?」
木枠の扉の緑色。中にはいるとそこには、あのエリクソンやコロンブスらが目にした光景がありました。