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2011年03月27日
第441回「シリーズ人生に必要な力その49選ぶ力」
それは情報が流通するメディアを使いこなす能力。メディアの特性や利用方法を理解し、適切な手段で自分の考えを他者に伝達し、あるいはメディアを流れる情報を取捨選択して活用する能力。従来は電話や手紙などのパーソナルメディアと、新聞やテレビ・ラジオをはじめとするマスメディアといった伝統的なメディアの利用方法を知っていれば事足りたが、現在では、急激な技術の進歩により、パソコンや携帯電話などの新しい形態のメディアが台頭し、それらの利用にまつわるトラブルや混乱も頻発している。このため、各メディアの本質を理解し、適切に利用する能力の重要性は日に日に高まっている。
メディアリテラシーという言葉を調べると上記のような言葉が並びます。なんだかとても堅苦しいですが、たしかに情報が錯綜するなかでどれを選択すべきかというのはこれまでも、そして今後も重要であることは間違いないでしょう。最近ではツイッターの瞬発力も目を見張るものがありましたが、それに反して信憑性はあまり高いものではありません。結果、テレビにすら疑いをかけるようになったいま、与えられた情報の上を様々な憶測が飛び交い、僕たちはどの情報を信用していいのかわからなくなってしまいました。
こうなった要因の多くはインターネットの存在でしょう。それは冒頭でいうところのパーソナルメディアとマスメディアの橋渡しを良くも悪くも実現してしまいました。たとえば、休み時間に人が集まっていると思ったら、カバンの中にいれておいたはずの恋焦がれる人への手紙が後ろの黒板に貼り出されていた。きっとなにかの拍子で見つけた誰かのいたずら。それでもまだクラスの中だけか、広がっても学年だけにとどまることでしょう。それがいまでは、ひとたびネットの流通に乗せてしまえば、誰かに思いを寄せるその熱い言葉は一瞬にして全国に流出してしまう。これがいまの情報の流れ方。パーソナルとマスの境界線がなくなってしまったのです。こんな一個人の言葉がマスメディアにのってしまうわけだから、発言するほうも大変だし、受け止めるほうも大変。個人の発信力が増したことは同時に個人の受ける負担も増えたということなのです。
じゃぁいったいどうやって取捨選択するのか。メディアリテラシーという言葉は知っていても、結局滝のように流れ落ちる情報になすすべもなく、ただ言葉のシャワーを浴びるだけ。具体的な手段が見つかりません。こんな時代に求められるのが、情報の交通整理をする人。メディアコンダクター(通称メディコン)、もしくはメディアコーディネーターというべきでしょうか。呼び名はやがて決まるでしょう。いまなにが起きているかを正確に伝えてくれる人。いまどうするべきかを判断できる人。そういった役割を担う人が今後台頭してくるのです。
たとえば、一線を退いたものの相変わらず存在感のある池上彰氏。彼のいう言葉にはものすごい説得力があり、多大な安心感もセットで付いてきます。本来であればこれからの時代こそ発信していくべきなのでしょうが、いろいろな人がテレビなどで発信している中でなぜ彼だけが突出して信頼できのかというと、もちろん、彼の語り口、それはきっと彼のこれまでの生き方を表しているのですが、言葉選びから間の取り方、それも昨日今日で培えるものではなく生まれたときからの環境からはじまっているもの、つまり彼のこれまでの人生がいまの話し方に集約されているからです。しかし、もうひとつ重要な要素があります。それは彼がどの立場でもない、ということ。政治家でもタレントでもなく、人として発言している。ジャーナリストという肩書きこそありますが、いま彼がおこなっているのはその枠組みを越えたています。たとえば、もし彼が突如、都知事選に立候補するといったらどうでしょう。途端にあのやさしい表情のなかにたくらみや計算が見え隠れしてしまいます。彼は、あの立場だから、人として語りかけてくるから、言葉が皆の胸にすっとはいってくるのです。
そうして、僕たちは彼の目を通して世界を知ることができるようになりました。もちろん自分の目で確かめることが一番でしょう。でもそれはほぼ不可能であり、それを求めることはある種の自分勝手。自分の欲望を満たすだけで、そんな行動を皆がとったら余計に混乱を招きます。僕たちは誰かの目を通してじゃないと世界を知ることは出来ないのです。だからこそ、決めないといけないのです。誰の目で、誰の価値観で、誰の尺度で世界を見るかを僕たちは、これから決めるのです。
いま大切なことはなんなのか、いま世の中でなにが起きているのか。それらを教えてくれる人。昔だったらそれが宗教だったのかもしれません。神様とか仏様とか。池上氏は、本人は嫌がるでしょうが、現代の救世主かもしれません。これからはそういった役割の人たちが台頭してくるのです。だから今後、テレビに出る人たちの顔ぶれはさらに変わるでしょう。なぜならあの瞬間、僕たちのものの考え方は大きく変わったからです。いままでの尺度ではなくなったのです。
かつて、原発反対をテレビでは言うことは困難でした。それはテレビ局にとって強大なスポンサーだったからです。もちろん、今後、そのことを掲げる必要はありません。過程がどうであろうと、これまでお世話になっていまさら闇雲に反対するのは筋違いといえるでしょう。しかし、国民は気付いてしまいました。知らないところで進んでいたことにもう皆気付いてしまったのです。節電とオール電化を両方進めることのできる世の不条理、矛盾したシステムに気付いてしまったのです。
僕たちが求めるのは政治家たちの言葉ではありません。彼らの言葉をうまく整頓してくれる人、世の中に蔓延する情報・言葉の交通整理してくれる、世界のバスガイドさんのような人。そしてどんなに情報があふれようが時代が変わろうが、大切なことを教えてくれる人。人としての哲学を持った人がこれから台頭するのです。僕たちはこれから誰の目で世界を見ることになるのでしょう。もう、新しい時代ははじまっているのです。
2011年03月20日
第440回「言葉だけでは届かないから」
あの瞬間から
たくさんの言葉が頭の中で
さまざまな感情が心の中で
ずっと駆け巡っているから
いつものようにこの場所で
落ち着くことができなくて。
http://rocketmandeluxe.org/
この気持ちを忘れないために。
2011年03月06日
第439回「シリーズ人生に必要な力その48抑圧力」
「英雄ポロネーズ」「軍隊ポロネーズ」
タイトルこそ知らなくても、ひとたびその音を耳にすれば、きっと誰もが馴染みのある曲だとわかるでしょう。これらは、かの有名なフレデリック・ショパンの曲。彼はこれら以外にも「革命のエチュード」や「幻想即興曲」、「別れの曲」など、日本はもちろん、世界中で愛される美しい楽曲を生みました。冒頭の「ポロネーズ」とは「ポーランドの」という意味。ポーランド出身の彼にとってそれは、楽曲を作るにあたって非常に重要な要素となりました。クラシック音楽のタイトルは後につけられることが多いのですが、彼が祖国を愛して作ったことは間違いありません。それらは祖国に捧げる曲だったのです。
世の中にはそういった祖国に捧げる楽曲は少なくないですが、彼からこんなにも広く、時代を越えて愛される楽曲を生んだ理由のひとつに、とても重要な真実があります。それは彼が、祖国を失ったということです。
1810年に生まれたショパンは、社会情勢の悪化によって祖国ポーランドを追われ、やがてウィーンやパリへと活動の拠点を移すことになります。その後、ポーランドはロシアなどの支配下に置かれ、実質国としての機能を失いました。民衆は何度か蜂起を試みますが、その度に鎮圧され、結局ショパンは祖国に帰ることなく、息を引き取ることになります。「心臓をポーランドに持って帰ってくれ」それが彼の遺言でした。
祖国を失う、このことが彼のポーランドに対する愛情を爆発させました。祖国への想いは鍵盤に向けられ、音になって現実世界に現れたのです。もはや、ショパンの楽曲はポーランドの一部。ショパンの奏でる音こそ、ポーランドそのもの。抑圧が彼に名曲を生ませたのです。ショパンだけではありません。ロシア軍の鎮圧がのしかかればのしかかるほど、ポーランド人の民族意識は高まりました。ポーランドの国家の原曲が作られたのはこの頃です。
抑圧はときに世紀の芸術を生む。世の中のほとんどの芸術は抑圧によって生まれたといっても過言ではないでしょう。もちろん誰もがショパンになれるわけではありません。そもそものテクニックや感性などもあります。しかし、抑圧があったからこそ名曲が生まれたように、抑圧がエネルギーの源であることは、だれに対しても当てはまることでしょう。そしてその持久力を考えれば、場合によっては抑圧こそ、感謝に値するものなのかもしれないのです。
海水浴で浮き輪を片付けるとき、なかの空気を出すために体重をかけます。これによって穴から勢いよく中の空気が飛び出す。これと同様に、抑圧は結果として力となるのです。いちばんいけないのは、抑圧に対してただ愚痴をこぼしたり、それに対して反発したりすること。そのエネルギーを憎しみや復讐に燃やすこと。抑圧でパンパンに膨らんだエネルギーをどこで爆発させるかが重要なのです。
それは、戦争だけではありません。社会情勢だけでもありません。人間だれしも、なんらかの抑圧を受けています。校則の厳しい学校を卒業したときに、それまで溜まったエネルギーが爆発するでしょう。ベートーベンだって、耳が不自由だからこそ、音に対する情熱は止まなかったのでしょう。やがて訪れる自由の瞬間のために、抑圧で溜まったエネルギーはとっておくのです。
もちろん、抑圧自体は心地のいいものではないかもしれません。だからこそうまく利用する。抑圧で生まれたエネルギーをどこで活用するか。この意識を持っているだけで、人生は違ってきます。ただ反発したり愚痴をこぼすのではなく、抑圧をエネルギーに変える、そんな力が人生には必要なのです。