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2011年01月30日

第435回「絶滅危惧種カタログ〜僕はキミを忘れない〜危惧番号②通信販売」

 金のネックレスをすれば女性にモテる?メガネをかければモザイクが消える?週刊誌の最後に登場する広告キャッチコピーに幼少ながら胡散臭さを感じたものです。かつて通信販売といえば、こういったいかがわしい雰囲気のものしかありませんでした。いわば、騙されても当然。そんな時代も今は昔。時は流れ、あの手この手で改良を重ね、インターネットの普及に後押しされて、通信販売はすっかり市民権を得たようです。かつてのネガティヴなイメージは払拭され、いまではなにか問題があればニュースになるほど。これは、通信販売が信頼を得たことの裏返しといえるでしょう。
 ではなぜ通信(ネット)販売が絶滅危惧種なのか。絶滅どころかむしろ勢いをつけてさらに成長していくように思えます。もちろん、これが絶滅するおそれがあるかといえば、きっとないでしょう。じゃぁなにが絶滅かといえば、危惧しているのはあくまで「通信販売」という言葉なのです。
 胸を躍らせて店舗まで足を運んで購入していたCDもいまでは無表情でもクリックすればポストに届けられるようになりました。カタチがあればまだいいほうで、音楽はダウンロードするものになりつつあるいま、街のCDショップの存在価値が薄れ、次から次へとシャッターを降ろしています。電子書籍を考慮すると、街の本屋さんも同じ道をたどるでしょう。商店街から本屋さんもCDショップも消えてしまう。もちろんそれだけではありません、洋服や靴、カバン、あらゆる品目をネットで購入できるようになり、商店街そのものが、巨大なショッピングモールそのものがネットの世界に存在している状況。これがいいか悪いかは別として、街がパソコンやケータイに呑みこまれてしまったのです。
 とはいえ、本やCDなど、カタチに対する愛着を持つ人はいますし、本屋さんでの立ち読みや友人や恋人とウィンドーショッピングする楽しさもあります。だから、街からすべてのお店が消えることはないでしょう。ただ、どっちが主流になるかというともう危惧せずにはいられません。ネット上で購入することが当たり前になり、これが「販売・購入」の一般的な形になるとこれから新たに登場するショップはもうそれが「通信(ネット)」であることをわざわざ謳わなくなる。そうして「通信販売」という言葉が絶滅していくのです。
 通信販売という言葉がなくなるということは、従来のお店が少数派になるということ。いままで普通に行ってきた買い物が「リアルショッピング」という風な特別な行為になってしまうかもしれません。店頭で選ぶ楽しさから画面で選ぶ楽しさに。それこそ3Dの波はもうすぐそこまで押寄せてきています。パソコンやケータイで街を散策している気分になるのです。
 では現実の街はどうなるのでしょう。人々はそこに何を望むようになるのでしょうか。たとえば美容院だとかマッサージだとか、リラクゼーション施設は残るでしょう。外食への欲求はあるので景気に左右されがちではありますがファミレスのような店舗も激しく減少はしないでしょう。薬局がいまでも派手に展開しているのはネットでの販売が規制されているため。もしこれが解禁になれば、街の変化に拍車をかけるでしょう。お墓参りさえもネットでという事業もあるそうで、未来はあらゆる行為がネット上で済まされる世界なのかもしれません。そうなると、実際の街は、いまとは違う機能になり、いま僕たちが目にしている街はネットの中でのみ存在するようになるのでしょうか。
 いずれにしても、純粋に「モノを買う」という行為がほとんどネットでおこなわれる時代はいつ訪れてもおかしくありません。もうだれも「通信販売」とは言わない時代。それが当たり前の時代。通信(ネット)販売を主流にせず、「通信販売」のままにするかどうか、そして街がネットの世界に吸い込まれないようにするかどうかはまさに消費者である僕たちにかかっているわけで、今僕たちは岐路に立たされているのかもしれません。

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2011年01月23日

第434回「シリーズ人生に必要な力その47決断力」

 かつて、「NOと言えない日本人」という言葉がこの島を呑みこんだ時期がありました。書籍のタイトルだったその言葉にさえも「NO」と言えなかったことはまさにそのことを体現していたといえるでしょう。「NO」と言えない、それは思いやりや謙虚さの表れ、昨今の曖昧表現にもつながる日本人特有の風潮。それこそ刀を脇に携えるものの、実際に使用する侍はわずかだったそうで、否定であろうと肯定であろうと、ズバッと言い放つことを日本人は避けてきたのです。そういう意味で僕たちは、決断することがあまり得意ではないのかもしれません。
 決断を邪魔するもの、そのひとつは思考です。思慮深い人ほど多くの選択肢が浮上し、結果優柔不断に陥ってしまう。だからといっていつまでたっても決断できないままでは周囲を困らせてしまう場合もあります。みんながあなたの注文をずっと待っている、あなたのデザートを待っている。待たせた挙句周囲と同じものを頼んでしまう。周囲にあわせるという傾向は、この国で多発する流行を見ていればわかります。
 とはいえ、常に周囲がいるとは限りません。合わせようにも周囲がいない場合、殊に、社会的立場が上昇すればするほどその頻度や影響力は拡大し、その決断が多くの人の人生をも左右することもあります。社運をかけた企業の一大プロジェクト、そんなときに周囲の顔色を窺ってばかりいたら、あなたを信頼する部下がいなくなるのも時間の問題。模範解答はありません、あなたが人生で培ってきた嗅覚や直感で判断しなくてはならないのです。このように、数百円のデザートから人生を左右するビッグプロジェクトまで、サイズにこそ違いはあれど、人生には自分の判断で決めなくてはならない決断のときがあるのです。ではどうやってこの決断力を身に付けることができるのでしょう。
 昔から、決断力を養うにはホルモンがいい、といわれています。この場合のホルモンとはホルモンバランスなどのそれではなく内臓のホルモン、ホルモン焼きのそれを指します。というのも、ホルモン焼きは決断を迫られる機会が多く、食べるだけで自ずと決断力が身につくと、決断力を高める修行として多くの僧侶たちに食されてきたからです。一説によれば、「ホルモン」の語源はチベット語で「決断」という意味の「ホーモ」。ホルモンを自分で食べられるようになったら大人になった証とされていたそうです。
 ホルモン(焼き)でもっとも決断を迫られるポイントはやはり飲み込むタイミング。いくら噛んでも噛み切れない、内臓だけに容易に噛み砕くことができません。なかでもミノの手ごわさは永遠すら感じさせます。どの段階で飲み込むべきか、もちろんマニュアルはありません。すべてはあなたの決断次第なのです。次の決断ポイントは、口に持っていくタイミングです。網の上で焼かれたホルモンをどの段階で大丈夫とみなすか。カルビやロースのようにわかりやすく変色するわけではないし、「内臓はよく焼いたほうがいい」という四方からの噂が網からの旅立ちの時期を遅らせがちです。結果、小さなカチカチのホルモンを口に入れることになる。決断力のなさがうまみを損ねてしまうのです。 
 もっといえば、どのタイミングでホルモンを網に載せるかというのも決断ポイントに値します。まさか最初じゃないだろうし、最後の締めでもない。だからといっていつまでも網に載せないでいると、「ホルモン余っちゃったね」と注文したことを後悔するようになります。そうならないためにも決断しなくてはなりません。一般的には、「みんなライスいる?」とライスの有無を問われて誰もが網から目を離しているときにすかさず投入するのがと良いとされていますが、あくまであなたの決断次第。余らせることだけは避けたいものです。だから、ホルモンを注文するかどうかも決断ポイントになります。毎回なんとなく頼んでいたけどこれって本当に必要なのか、惰性で注文していないかと疑問を投げかけ、今回注文するべきかどうかをあなたが決断するべきでしょう。
このように、ホルモンはいろんなタイミングであなたに決断を求めてきます。どの段階で焼いていいのか、どの段階で口にいれていいのか、そしてどの段階で飲み込んでいいのか。幾度にも渡って迫ってきます。これらを繰り返しているうちにあなたにも、立派な決断力が身についていることでしょう。
 相変わらず耳にする「できちゃった婚」。これもある意味、その欠如からなるものかもしれません。決断することができない。愛し合っていても、結婚まで踏み込むことができない。もちろん、判断を天に委ねるのも悪くないかもしれません。考えに考え抜いた答えが正解とは限らないし、結婚は理屈でするものでもありません。ただ、それがあたりまえになるのは問題です。決断力のある人ばかりになっても大変ですが、全員が優柔不断では社会が前に進んでいきません。優柔不断の人がいれば、決断力のある人もいる。両者が半々くらいがちょうどいいのでしょう。券売機の前であなたが何ラーメンを注文するのか後ろで待っている人がいます。早く決めなくちゃと思えば思うほど判断が鈍ってしまう。もう何年も着ていない洋服も捨てるに捨てられず、部屋がなかなか片付かない。すべては決断力の欠如からなるものです。もしあなたが本気で決断力をつけたいのであれば、さっそくホルモンからはじめてみるのはいかがでしょうか。

PS:鵜呑みにしないでくださいね、念のため。

00:39 | コメント (8)

2011年01月16日

第433回「絶滅危惧種カタログ〜僕はキミを忘れない〜危惧番号①ボタン」

 iPad、iPhoneに追いつけ追い越せとばかりに、アンドロイドやギャラクシー、スマートフォンなどと新しい言葉が耳に入ってきます。それ自体は別に構わないのだけど、おかげで普段使用しているものがあっというまに奥に追いやられ、買って間もないのに突如鮮度が落ちてしまうことがあります。2年も同じケータイを使っていれば長持ちしているほうで、5年も使っていようものなら化石でも見るかのような目で見られる。情報の伝達スピードが増したせいなのか、企業の戦略の勝利なのか、どんなに華々しく登場した夢の道具も時代の流れに着いては行けず、いろんなものが早いペースで入れ替わり、もはや「新しいものが新しいものとしていられる時間はとても短い」システムになりました。殊に、時代を反映するテレビなどではそのような傾向は顕著に見られます。
 お笑い業界、かつてはブレイクしたコンビは少なくとも一年間あらゆる番組で活躍できたものですが、いまではブレイクも上半期と下半期に別れ、半年、もしくはもっと早い周期で旬の芸人さんは入れ替わり、年始と年末では画面の中で活躍する人が入れ替わっていることも珍しくありません。このことが必ずしも悪いことではないのですが、もしも江戸時代に漫才のコンテストがあったら、優勝したコンビは何十年と活躍し続けたかもしれません。情報のスピードがそうさせてしまったのか、人が飽きやすくなってしまったのか、旬が旬である時間はどんどん短くなり、テレビの中に限らず、この世に生まれては一瞬にして消えてしまうものが星の数ほどあるのです。
 だからといって、今手にしているケータイが絶滅するかというと、それは当分ないでしょう。やがて人類はすべてを手放す(第403回参照)とは思っていますが、少なくともいまのうちはそれを危惧する必要もありません。ただ、その有無こそ機種によって異なりますが、ケータイに付随するものはもしかすると危惧に値するものかもしれません。絶滅しかけているもの、それはボタンです。
 3歳になる子供でもiPadで遊ぶことがあるそうです。画面を手でスライドさせている幼児。自分で購入する経済力こそないものの、もはやこんな光景は珍しいことではなく、今後もっと見られるようになるでしょう。保育園にiPad。おそらく彼らにとっては、かつてボタンだったのが画面に内臓されていった過程は知りません。なんの感動もなくスッスッっと操作する。つまり彼らは、ボタンがないのが当たり前、いわばタッチパネルジェネレーションなのです。
 もちろん、ケータイだけではありません。世の中、あらゆるものがタッチパネル化され、街からボタンが消えつつあります。
 切符を買うとき、お金を下ろす時、それこそ回転寿司にいったときもそう。あらゆるものがタッチパネルに取って代わられています。看護師さんを呼ぶとき、家のインターホンや非常ベルさえもこのままだとタッチパネルになるかもしれません。自分が苦しんでいるときにタッチパネルに触れたくありません、ピンポンダッシュもこれじゃ雰囲気でません。最近ではiPadを用いたマジシャンもでてきたそうです。核のボタンがタッチパネルでもなんか嫌です、というかこれに関してはもちろんどちらも嫌ですが、どうせ発射するならボタンであってほしいのです。ボタンとは違いますが、こうして叩いているキーボードだって、実際にタッチパネル式のキーボードも存在しているくらいなので時間の問題でしょう。なにもない画面もスライドできるのかと思ってつい手で触れてしまう、そうなるともはやタッチパネル症候群。誰もが知らないうちに、タッチパネルの波に呑まれタッチパネルの手によって犯されているのです。そして世の中の凹凸がどんどんなくなっていく。テレビの中こそ3Dに向っていますが、世の中は平面に向っているのでしょうか。
 だからといって、誰もがこのタッチパネル化現象に一抹のさみしさをおぼえているわけではありません。タッチパネル世代にとってはそれ以前を知らないのだからなんの寂しさもないはず。むしろ、タッチパネルに飽きたらまたそこに突起というものを作るようになるのかもしれません。
 おそらく、バスのボタンが最後の砦でしょう。降りる降りないに関わらずつい押してしまいたくなるあの魅惑の白い突起。あの指にほどよくフィットする四角いサイズ。あれこそボタンの中のボタン。あれがタッチパネルになったらもうおしまいです。どうかあれだけは守り抜きたいもの。冬に樹木を守るように、なにかで保護するべきでしょうか。タッチパネル反対の旗を掲げて行進するべきでしょうか。このままだとあの白い突起もいつしか液晶パネルになってしまいます。でも、それは決して悪いことではありません。人々がそれを望むのならそれでいいのです。すべてがタッチパネルで操作する時代。だから、僕は忘れません、この世にキミがいたことを。たとえそのときが訪れても、たとえ世の中がキミを忘れ去ってしまっても。ボクは忘れない。ラジカセで録音するときにオレンジ色のボタンを押したことを。ずっと忘れない。
 
 

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