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2010年09月26日
第419回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
はじめに
自分でもわかっていました。こうなることは予想していました。いくら言い聞かせても、どんなに書かないでおこうと意気込んでも、結局こうやってキーボードを叩いている。もういちど旅をするため、伝えたいから、忘れたくないから、理由はどうであれ、こうして思い出しながら言葉にしていく時間は僕にとってとても幸せな気持ちになれるとき。心が穏やかになるのです。肌で感じたことを言葉にするのは容易な事ではないし、これまでの旅と大した差異もないかもしれませんが、どうかこの国の空気をほんの少しでも味わってもらえたらと思います。それでは、虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜のはじまりです。
第一話 いつもと違う朝
午前8時半。日曜日とあってそこまで混雑していないものの、朝の空港は朝礼が始まる前の体育館のように人々の言葉が集まって、ぼわんとひとつの大きな音の輪を作っています。成田空港第一ターミナル。天井には大きなアルファベットたちが浮かんでいます。その音の輪の中に別の音が加わりました。ゴムの車輪がタイルの上を滑らかに回転する音。いつものみずいろのリュックにオレンジ色のスーツケース。目線が定まっていることから利用頻度の高さが伺えます。いつものようにチェックインをし、数々の関門を潜り抜けると、異国の地に合わせた服装の中でじんわり汗が滲んできました。ようやくたどり着いたラウンジのコーヒーが彼の喉を通過していくと、それに呼応するように、それまでの一連の手続きの疲れを労う深い息が漏れていきます。
「もう、4回目か…」
まさか自分でもこんなに訪れるとは思いませんでした。はじめて訪れたのが4年前の8月末。あの頃は、今日の4度目を夢にも思いませんでした。一度魅了されてまた翌年も、というのはありそうだけれど、大抵そこで満足してしまうもの。ましてや3回も訪れたのなら次回は多少ブランクがあってもいいのにそれでもなお間隔をあけず足を運んでしまうのは、決してそれが義務になったからではないし、僕の心にフィットしているだけではなく、毎回が一週間、飛行機の時間を除けば実質4泊5日という良性の物足りなさによるものでしょう。まだ帰りたくない、もっと居たい、その気持ちが次の一回に繋がる。だから今回も同じ日数にしたことは、ずっと好きでいたい気持ちの裏返しかもしれません。ただ今回に関しては、いつもと違う部分もありました。それはある意味革命的といってもいいかもしれません。
「やっぱり置いていく!」
「やめたほうがいいよ、持っていきなよ!」
「いや、置いていく!」
「だって、絶対向こうで後悔するよ!」
「もう置いていくって決めたんだ!」
もちろん、自問自答です。
「本当に撮りたいときだけ撮る、ってルールにすればいいじゃない?」
「だめ、そんな中途半端が一番だめ!そんなことしたら結局いっぱい撮っちゃうんだって!だから置いていく!」
今回の旅は、ひたすらぼーっとするデフラグの旅。そのためには極力手ぶらに近い状態にする必要がありました。精神的な手ぶらの旅。その仕分け対象に真っ先に遭ったのがデジカメです。これがあると、どこへ行っても「撮らないといけない」という気持ちになるし、「残すこと」への安心感と油断がどこかに生じてしまう。残すことよりもいま感じることを大切にしたい。「今」は「今」であって、決して「残すこと」ができないものだと思ったとき、これまでとは違った印象を受けるのではないだろうか。(詳しくは第407回を参照!)それで万が一、あぁ持ってくればよかった、という風になったとしても、それはそれでいいじゃないか、後悔してもいいじゃないか。しかし、これまで毎回数百枚も撮ってしまう僕からしたら、喫煙者がタバコを持たずに旅にでるようなもの、まさに挑戦でした。それでも僕は、人間の感覚を信じたかったのです。
次の仕分け対象になったのはノートパソコン。デジカメは今回初ですが、これは毎回槍玉にあがっています。というのも、仕事を忘れるために旅にでるのにわざわざ東京から持っていくなんてと思いながらも、飛行機に乗っている時間やちょっと空いた時間を埋められたり、オーディオプレイヤーやケータイの充電ができること、なにかと救いの手を差し伸べてくれることが、最終選考突破の要因でした。
「いや、これも置いていく!」
「ダメだよ、もしなにかあったときどうするの?一応持っていこうよ!」
「その一応とかがダメなんだよ!なにかあったらあったでいいじゃないか、充電がなくなったらそれでいいじゃないか。時間を持て余したら空を眺めていればいい。ひたすらぼーっとしていればいいんだよ!」
一秒でも長くアイスランドを感じるため、ノートパソコンを留守番させることに決めました。そしてこの仕分けは、シェーバーや変圧器などにも及び、ケータイこそ持っていますが基本は電源を入れず、充電器もないので充電がきれたらそれまでという、もちろん手ぶらとはいえませんが、今までに比べるとかなりの軽量化。これが今回の旅にどのような変化をもたらすかわかりません。ただ少なくとも、手荷物検査のときにいちいち出さなければならないノートパソコンがなくなったことは、この手間が省けることによるかなりのカロリーオフを早速実感しました。
「時間を持てあましたら空を眺めればいい」
家で留守番するメンバーたちのことを少し気にしながら、飛行機は成田の空を突き抜けていきました。
2010年09月11日
第418回「シリーズ人生に必要な力その46感じる力」
同じ街でも車や自転車、散歩ではそれぞれ見える世界が違うように、同じ道でも人によって目を向ける場所は違います。同じ世界を生きていても意識することや感じることは人それぞれで、感じるものが違うのならそれは違う世界にいるようなもの。感じ方の違いは世界の違い。どこに目を向けるか、どこに心を留めるか、どう捉えるか。ぬり絵のように、そのカタチをどの色で塗るかで世界の色は大きく変わるし、だれもその色を侵害することはできません。貧しい暮らしをしていても幸福に感じる人、豊かな暮らしをしていても悲嘆に暮れる人。物理的な平等は限りなく不可能に近いですが、感じ方はいつだって平等。なにが起きたかではなく、どう感じたか。頭からはいってきた情報をどう心で受け止めるか。世界は心を軸にしてまわっているのです。
できることならいつだって幸せな気分でいたいもの。でも、晴れの日もあれば雨の日もあるように、調子のいい日もあればやりきれない日もある。一日の中ですら気分はいくらでも変わり、気分はつねに浮き沈みを繰り返す。沈まないようにするなんて不可能だし人間らしくない。人は自然の一部なのだから、空のように刻一刻と表情を変える。でも、嫌なことがあってひたすら嫌な気分でいるよりは、ちょっと目線を変えて前向きになれるほうがいいでしょう。ほんの少し捕らえ方を変えれば、灰色の世界にもなにか別の色が見つかるかもしれません。人生山あり谷あり。喜びも悲しみも、人生にとって必要なもの。大切なことは実感すること。いろいろなことが起こるけど、頭でとやかく考えるのではなく、心で感じること。そこでいろいろ考えないで、ただそれを感じればいいだけのこと。目を閉じて耳を澄ませたらきっと大切なものが見えてくる。目を閉じると見えてくる世界。目を開けたままでは気付かないものもあるのです。頭で跳ね除けたりせず心で受け入れる。心で感じることを大切にしたいものですが、社会はまだ、その準備が整っていないようです。
エコカー補助金という言葉を耳にしたとき人は、どんなことを思うのでしょう。「いまのうちに買い換えよう」だとか「そんなことに税金を使うなんて」とか。おそらく次のように感じる人も少なくないでしょう。
「なんか、もったいない気がする」
お金がではありません、いま乗っている車が、です。いくらエコだとはいっても、モノは長く大切に使うというのが人間の心。エコの流れだとはいえ、使えるものを捨てることになにも感じなくなってしまったら、人間おしまいです。そんな生き方をしていたら地球への愛なんて芽生えるわけがありません。モノを大切にする気持ち、この気持ちがブレてしまったら、ロクな未来は訪れない。ただでさえエコカーの基準が曖昧なうえ、排出量が少ないといっても数百万台にも及ぶ車の処分や新車の製作、それに伴う工程でどれだけ環境を汚していることか。そもそも企業はエコカーを一台買ってもらってそれに一生乗ってもらおうだなんてこれっぽっちも思っていません。何台もエコカーを買ってもらうこと、それが真の目的。エコカー補助金は消費者を補助しているのではなく企業を補助しているのです。エコポイントもそう、ペットボトルもそう。エコは地球への愛ではなく、企業への愛、それが現実なのです。
だからといって消費者に罪があるわけではありません。ついつい買い換えてしまうような雰囲気、システムを構築している組織に問題があります。こういう話をすると必ず「経済の活性化」だとか「経済の発展がやがて国民に還元される」という話をする人がいます。果たして学者たちの頭の中で考えた社会が素晴らしい社会になったのでしょうか。モノが常に売れる社会はそんなに素晴らしいでしょうか。
それに、モノを買うことだけが経済でしょうか。モノを大切にする社会に経済が発展しないというのなら、経済なんていらないのです。モノを長く大切にしている社会には、その社会なりの需要が必ず生まれるはず。その先に新しい価値観が待っているはず。なのに生産量や消費量ばかりに目を向けて、消費させることばかりに気をとられている。修理代を高くして、修理させないようにしている。極端にいえば、消費者を欺いている。だからいつまでたってもその場しのぎで根本的な解決にはならない。時代によって求められるものは変わるのであって、むしろひとつのものが売れ続けるほうがおかしい。家電量販店の店舗が拡大し続けることに違和感を覚える。時代の流れに任せず、流れに手を加えるからやがて氾濫がおこる。大量生産大量消費の時代はもう終わっているのに。もう新しい価値観が生まれているというのに。
経済学者の言葉や企業を守り、心を大切にしなかった社会は結局、経済も心も潤っていないそれになりました。人々の感じること、心を大切にする社会。人々の心が舵を取っていたらきっと、こんな風にはならなかったでしょう。もちろん、経済が絶対に活性化していたともいえません。感情だけで社会を動かしたらそれはそれで問題も生じるでしょう。でも、生きている実感は確実にいまより大きかったはず。もう、物質的欲望ばかりに目を向けてきた時代に別れを告げるべきなのです。物理的に満たされた社会がこれから目指すのは、心の充足感。心で感じることを大切にする時代。僕たちは、頭で考えたことではなく、心で感じることをもっと信じていいのです。心が痛むことはよくないこと。心の声をもっと尊重するべきなのです。そんな、心を大切にする社会にするために、人生には、感じる力が必要なのです。
ps:デフラグしてきます。
2010年09月05日
第417回「シリーズ人生に必要な力その45自分力」
KYという言葉が世の中を席捲してからというもの、その言葉を耳にする機会こそ少なくなったものの、相変わらず空気を読まなくてはならない風潮はいまだに強く残っているようです。
「お前空気読めよ」「あの人って空気読めないよね」
たしかに全体の雰囲気を尊重することは大切です。集団行動や組織においては自己主張より周囲にあわせるほうが得策な場合もあるでしょう。でも、この国には、空気を読みすぎてしまう人が多いようです。島国という環境に起因するのか、仲間はずれや孤立を恐れ、自分自身を押し殺してまで空気を重んじてしまう、果たしてこれは正しい生き方なのでしょうか。
協調性とか、和とか、この国にはとてもいい言葉があります。でも本当の協調性は、いろいろな価値観の存在を認め合うことであって、ひとつの色で統一することではないはず。自分を抑えることや控えめになることと謙虚さは違うのです。自分の価値観を提示すること。それぞれの価値観を尊重しあうこと。両者が備わった世界が協調性であり、和であって、ひとつの価値観で統一することや、誰もなにも言わなくなることは、本当の平和ではないのです。
「問題は、空気を読めないことではなく、空気を読みすぎることだ」
空気を読めないことより、読みすぎてしまうこと。自分を出せずに終わってしまうこと。周囲の目を気にしながら生きるなんて悲しすぎます。そんなもの気にしないで生きる力。生きたいように生きる勇気。孤独、孤立を恐れていては本当の自分にたどり着きません。周囲にどう見られようと、わが道を行く。それが本当の生きる力であって、そこに真の強さがあるのです。
たしかに空気を読む行為も軽視はできません。でも、どの価値観よりも大切なことは、自分らしく生きること。そのだいぶあとに、空気を読むことがあるはずです。お金がなくても自分らしく生きていたら、自分が納得する生き方をしていたら、きっと充実した日々を送ることができるでしょう。もちろん、ときには自分を曲げなければならないこともあります。胸がいたむこと、意に反することもしなくてはならないときもあるし、聞く耳をもたなくなったらおわりです。でも、自分を曲げすぎてしまったら、ある日突然パキッと折れてしまう。人の心はそんなに柔軟にはできていないから、竹のようにある程度撓ることはできても、曲げすぎたらいつか折れてしまうのです。
自分らしく生きる、それは奇をてらったり、我侭・身勝手に生きることではありません。もちろん迷惑をかけていいということでも。周囲への配慮と空気を読むことはまったく別物で、人への思いやりが欠如していたら孤立が待っているだけ。自分らしさは自分だけでは手に入らない。周囲の賛同がなければ、自分らしく生きることだってできないのです。そして、自分自身が自分を理解していなかったらなにが「らしさ」なのかもわかりません。数々の挫折や失敗を繰り返して、自分というものが見えてくるもの。自分らしさには時間と経験が必要なのです。
自分の価値観を人に理解してもらうことは容易なことではありません。自分の心の中にあるものを言葉で伝える。もちろん伝え方も大事。それが独特であればあるほど、時間はかかるもの。そういうときこそ相手の価値観を受け入れる。そうすることで自分の価値観に耳を傾けてもらえる。空気を読むのではなく、相手の価値観を受け入れる、それがやがて自分らしさに繋がるのです。
空気を読むことも大切、読まないことも大切。それでも空気を読みたいのなら、みんなが自分らしく生きられる空気にするべきでしょう。みんなが遠慮しあうそれは健全な空気ではありません。皆がそれぞれの色で表現しやすい環境、それが僕たちの目指す世界。孤立や孤独・批判をおそれて空気を読むのではなく、周囲に流されずに自分の価値観を主張する。周りを気にして生きる人生じゃもったいない。お互いがそれぞれの言葉を尊重しあう世界。人生には、自分力が必要なのです。