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2010年08月29日

第416回「シリーズ人生に必要な力その44苦味力」

 蝉の鳴き声も心なしか穏やかになり、道端でひっくり返っている彼らの姿を見ては植え込みにそっと寝かせてあげる機会が増えてきました。日照時間は明らかに短くなり、季節は確実に秋に向かっているというのに、相変わらず焦がすような真夏の陽射しが体の皮ふを引っ張るように照らしつけてくる。まるで、この夏がずっと続くかのように。でも、これまでの経験上、どんなに暑さが厳しくても、夏が終わらなかったことはありません。止まない雨はないように、終わらない夏はない。季節はどうしたって巡るのです。あんなに長かった夏休み、ずっと続くと思っていた夏休みも気付けばあと数日。こんなはずじゃなかったと、去年となんら成長していない自分の愚かさをおぼろげに感じながら、いままさに手付かずの宿題と対峙している子供たちは全国に群生しています。
 読書感想文に朝顔の観察、時代は変わっても、そのなんともいえない任務にどうにもモチベーションは上がりません。本は心の対話。自分で読みたいものならまだしも、誰かに押し付けられた本を読まなくてはならない、しかも感想を文章にしなくてはならない。これほどの苦痛はほかにありません。このときほどあとがきが必要とされることはないでしょう。朝顔の観察になんの苦痛も感じない人は、それこそ観察の対象になりえます。本は読むけど感想なんて書きたくない、観察してもいいけどいちいち言葉にしたくない、僕たちは心で感じたいんだ!そんな抵抗の言葉も見つからず、ただ権力に屈するしかない現実。やらなくちゃとは思うものの、なかなか腰が持ち上がらず、ただ時間だけが過ぎていく。母親の「宿題やったの?」、クラスメイトの「私もう全部やっちゃったよ!」という世界一不要な情報に、さらにやる気を削ぎ落とされ、ふと思うのです。「宿題なんてなかったらいいのに」と。「はやくオレを解放してくれ」「オレに自由を与えたまえ!」と。この宿題があるかぎり、なにをしていても気になって、100%夏休みを満喫できないのです。
 宿題のない夏休み、それはジュースのでる蛇口。美人の先生のいる保健室。美人家庭教師とのぼる大人の階段。でも、彼らはまだ気付いていないのです。宿題のない夏休みなんてひとつも面白くないことを。苦味のない夏休みなんてくそつまらないものであることを。
 これまで散々悪として叩いてきましたが、人間にとってストレスは必要なもの。もちろん、現代社会はそれがありすぎることに問題があるのですが、適量のストレスは人を強くしてくれる。インフルエンザの予防接種のようなもので、大量に注入したらおかしくなってしまいますが、適量であれば免疫力を高めてくれる。ある程度の負荷、ストレスは人を強くし、生きる原動力を与えてくれる。宿題というほどよいストレスが、夏休みを活発なものにさせてくれる。このストレスこそが苦味なのです。
 宿題という苦味があるから遊ぶことに情熱を注げるわけで、完全なる自由を得たとき、人はなにをしていても張り合いがなく、次第にその状態に飽きてしまいます。苦味があるから楽しもうとし、苦味があるから夏に飽きない。そしてなにより、苦味があるから甘さを堪能できるもの。個人的な経験ですが、まんじゅうのみで一週間を過ごした際、もはや2個目以降はもはや地獄の世界。ひたすら続く甘さに気力を失い、ただ堕落していくだけでした。人は、甘さだけでは駄目になってしまうのです。もちろん苦味がありすぎても駄目で、宿題に埋没する夏休みでは意味がないでしょう。教育委員会もそんなことを意図しているわけではないし、小学生のうちからそれを認識する必要はないのですが、結果として宿題というほどよい苦味が、夏休みに彩を添えているのです。
 苦味、それは理想に反する要素。一見、快適さを奪う邪魔なものに感じますが、理想の世界を手に入れてしまうことほどこわいものはありません。もちろん、その瞬間はいいでしょう。でも長い目でみたら、それほどつまらないものはありません。理想はすぐに人を退屈させる。理想を打ち破る苦味があってこそ、人生は味わい深いものになるのです。
 だから、なにか嫌なことがあっても、理想を壊す要素があったとしても、それは人生の苦味だと解釈するべきで、排除の対象ではありません。いつだって現実は予想に反するもの。どこの世界には、違和感をおぼえる人は必ずいる。不必要なものではなくきっとあなたにとって必要なものだから、排除するのではなく受け入れる。目の前に表れた苦味を堪能できるようになったら、きっと人生はさらに楽しくなるでしょう。苦味があるから甘みを感じられる。苦味を楽しめてこそ、人生は輝くのです。
「人生にはね、苦味が必要なんだよ」
 人生は、いってみれば長い夏休み。宿題があるくらいがちょうどいい。人間だってそう。完璧な人であるよりも、苦い部分があるくらいがちょうどいいのです。

10:25 | コメント (11)

2010年08月22日

第415回「シリーズ人生に必要な力その43デフラグ力」

 パソコンをあまり触らない人には馴染みの薄い言葉かもしれません。それはハードディスク内の分断化されたデータを整頓すること。いわば、ぐちゃぐちゃになった本棚を整理するようなもの。タイトルもシリーズも関係なく、なかには横たわったりしている本たちをタイトルごとに並べかえ、見た目にもすっきりさせる。これによって自分はどの本を持っていてどの巻がなくて、さらには本棚に余白も生まれる。探している本もすぐに見つかるし新しく買った本も容易に収納できる。デフラグすることによってパソコンは、処理速度が上がり作業効率がよくなった結果、不意に固まることもなくなるのです。ただ、僕たちがデフラグしなければならないのはパソコンでも本棚でもありません。
 情報過多といわれて久しい現在も、相変わらず雨のように降りかかる情報に、それを遮る傘が見つからないまま人々は、びしょ濡れになっているとも気付かず、ただ漠然としたストレスを抱えて生活しています。この現代社会の負のシステムによる影響被害は甚大なもので、場合によっては、その情報に押しつぶされて命を絶つ者もいます。ここでいう情報とは単なるニュースや新聞などによるものではなく、日々目や耳にする言葉。それらは単なる音として通過するものばかりではなく、人の頭や心のなかに滞留し、人々の感情を揺さぶるのです。適量だけを残し、流すべき情報は流していかないと、押し寄せる情報を頭の中で整理しきれず、いつかパンクしてしまう。ちょっとしたことでキレたり、ちょっとしたことで落ち込んだりするのは常に情報で頭の中がいっぱいだから。いうなら500人のキャパシティーの箱に1000人が押し寄せるようなもの。精神的に不安定になってしまうのも無理はありません。だからうまく処理できるように、頭の中をデフラグする必要があるのです。頭の中を整理し、余白を作る。頭の中になにがあるのかを認識し、次の情報を受け入れられる状態にしておく。そうすればひとつの言葉にひどく頭を悩ませることも、パソコンのように固まってしまうこともなくなる。僕たちは、頭の中をデフラグする必要があるのです。
ではいったいどうすれば頭のデフラグができるのでしょう。パソコンならクリックするだけでいいのですが、人の頭の場合はどうでしょう。
「こら、なにボーっとしてるんだ」
 授業に集中できず、よく注意されたものです。校庭をぼんやり眺め、先生の話がはるか遠くにきこえる。本来であれば授業中はあまりぼーっとしてはよくないのですが、実はこれも大切なこと。このときこそ頭の中を最適化、デフラグしているのです。意識していなくても勝手に脳がそれを求めているわけで、注意されるかどうかは別として、人は、ぼーっとしたいときにぼーっとする、オート機能を持っているのです。
しかし、人々は、いつのまにかぼーっとしなくなりました。暇や退屈な時間は無駄なものとして削ぎ落とされ、電車に乗っているときも、バスを待っているときも、常になにかをしているようになりました。文明の発達によって構築された効率のよい社会は、ぼーっとする時間を我々から奪っていきました。物で満たしていくうちに、大切な時間を失ってしまいました。メールに返信しなくてはならない、返信がないことを気にしないといけない。常に頭が稼動している。それこそiPhoneやiPadなどによって、人はどこにいようがちょっとした時間の隙間にもなんでもできるようになりました。便利な世界は僕たちの逃げ道をどんどんふさぎ、今後それはさらに加速するでしょう。人はもっとぼーっとしなくてはならないのに、その時間がどんどん削られていく。このままではやがて脳はパンクしてしまいます。頭の中がぐちゃぐちゃになっていることに気付かず、漠然とした閉塞感に見舞われる。なにか起きたときに対応できなくなってすぐキレてしまう。その怒りは周囲にも波及し、ゆとりのない社会ができてしまう。そうならないためにも、僕たちはもっとぼーっとするべきなのです。昼食のあとの古文の授業のように。ぼーっとするときはぼーっとするべき。座禅や瞑想、呼び名こそちがうものの、そういった時間は人間にとってとても大切な時間。それはきっと、自分の心に耳を傾ける時間なのです。
 最終的に人は手ぶらになる。それは機械が埋め込まれるのではありません。なんでも持ち運べる機械を持ち続けた結果、なにも持たないことが一番であることに人々はやがて気付くのです。すべてを置いて人々は行動するようになる。人類の進化と呼ぶべきか、変化と呼ぶべきか。いや、人類は変化しているだけで一度だって進化したことはないのです。これが、僕たちの向かう未来のかたち。いまの時代を批判しているわけではありません。いまの時代を潜り抜けて新しい時代は訪れるもの。こんな時代だからこそ気付くこと。僕たちはただ前をむいて歩き続ければいいのです。
「Padを捨て、旅に出よ」
 もしも彼が生きていたらそう言っていたかもしれません。僕たちが本当に必要なのはなんでもできるものを持つことではなく、なにも持たないこと。なんでもできることではなく、できないことを助け合うこと。それがこれからの時代に必要な価値観。手ぶらでぼーっとしにいく。ぼーとしようとすると逆に考えてしまう、そんな場合は深呼吸するのです。深呼吸はデフラグの入り口。もちろん、それ以外にも入り口はあるでしょう。大人になればなるほどぼーっとする時間を失ってしまうから、なにもしない、ぼーっとする時間を積極的に設ける、そんなデフラグ力が人生には必要なのです。
ps:36歳になりました。

00:05 | コメント (24)

2010年08月01日

第414回「thank you for the music!」

 僕がそれに出会ったのはいつのことでしょう。ビートルズのCDを買ったとき、ピアノを習いはじめたとき、兄のレコードをあさっていたとき、もしかしたらもっと昔、それこそ母親のお腹の中にいたときかもしれません。多感な青春時代、はじめて人を好きになったとき、不安定な気持ちはあっという間に音楽に包囲されました。それからというもの、音楽はいつも僕のそばにいて、気がつけば川の流れのように、僕の人生に寄り添って流れています。でもそれは映画のBGMのようにではなく、言葉だけでは埋まらない心の隙間を埋めるように体内を流れ、いつしか僕にとってなくてはならない存在。それくらい音楽を必要とすることはもはや僕に限ったことではないでしょう。
 この世に音楽が生まれてから今日まで、そのカタチや聴かれ方こそ変わったものの、ずっと人々に愛されてきたことに変わりありません。いつだって世界のどこかで誰かが歌を歌い、地球上でそれは、鳴り止むことはないのです。音楽によって、人々は喜び、どんな悲しみも乗り越えてきました。もしもこの世から音楽がなくなったら、それは食料が尽きてしまうよりも人々をおかしくさせてしまうかもしれません。音楽を聴かないという人もたまにいますが、嫌いだという人には出会ったことはありません。たとえ積極的に聴かないとしても、日常生活の中で音楽から切り離されることは困難でしょう。どの時代も音楽は人々の心を潤し、世界をやさしく包んできたのです。でも、僕にとって音楽は、もうひとつ役割がありました。
「曲をつくりたい」
 それは意図したものではなく、いてもたってもいられなくなって、まるで爆発するようにはじまりました。自己表現としての音楽。もちろん最初はそんな言葉さえ浮かばないままただがむしゃらに鍵盤を叩いていました。楽譜を演奏するのではなく、自ら音楽を創る。僕にとってそれは言葉を発する以上に自分の中にあるものをぶちまけるようなもの。言葉のように簡単に飾ることも嘘をつくこともできず、自分の中にある言葉にならない部分がどんどん音になってあふれてしまう。そして音楽が、聴くものだけでなく、言葉では足りない部分、自分を素直に表現するものとしてとても大事な存在になりました。
 心を潤してくれる音楽、自分を表現する音楽。どうしてそんなに自分を表現したいのでしょう。きっとそれは世界があるから。生物が環境に合わせて姿かたちを変えるように、僕はこの環境に育って、このような人間になりました。この世界だからこそ思うこと、この世界だから感じること。音楽は、言葉と同じように僕の内側にあるものを外側に届けてくれるもの。人の内面は、世界との相関関係にあるから、僕の内面は外側の世界によるもので、内面でできたものを外側の世界に発散する。そしてゆっくりと世界は動いていく。つまり音楽は、僕と世界との折り合いをつける場所なのです。
 音楽とお笑いとどちらが重要ですか、という質問をこれまで何度と浴びせられるたびに僕は返答に困りながらもなにかうまいことを言おうとして太字になるようなことを言おうとするのだけどちょうどいいものが見つからないままどっちが大事とかそんなこと考える必要もないしこれって右手と左手どっちが大切ですかっていう質問と同じだからもちろん利き腕はあるけれどどっちも失いたくないというか手だけじゃなく足だってお尻だって肩だって膝だってどれも失いたくないから自分を表現するのに必要なものはぜんぶ重要とか答えたりするのだけど本音を言えば質問されたからそう答えただけの話で、実はそんなこと一度も考えたことはないし考えたくもないのです。
 ただ、いま思うのは、お笑い芸人だからこそ、別の場所があったからこそ、純粋に表現できたんじゃないかなということ。良くも悪くも売れることが一番大切なことではなく、自分のなかにあるものを伝えたいということが一番大切なものさしだったから。テレビの仕事はどうしても嘘がつきもの。嘘をつけばつくほど、本当の自分を表現したくなる。歪められた自分を矯正しようとする力がはたらく。伝えたい自分の真実、それが僕にとって音楽だったのかもしれません。いまは音楽もお笑いも、どちらも自分を表現する大切な場所。やがてはどちらの場所でも自分の真実を表現できるようにならなくてはと思います。そして60歳になっても、両方を楽しんでいるおじいちゃんでありたいと願うのです。
 自分を表現する音楽、自分の心を包んでくれる音楽。両者はつながっていて、心の隙間からはいってきた音楽が自己表現の音の材料になる。その音楽がやがて世界に飛び出して、誰かの心を包んでいたらとても素敵なことでしょう。言葉も音楽も愛を運ぶもの。きっと世界は愛にあふれているのです。それでは8月22日、リキッドルームでお会いしましょう。

PS:8月1日19時より銀座アップルストアにてトークイベント。3日12時より渋谷HMVにて一日店内DJ&21時半よりアルバムリリース記念サイン会。4日20時より下北沢ヴィレッジヴァンガードにてトークイベント。8日13時より新宿タワーレコードにてアルバムリリース記念サイン会を行います。是非会いに来て下さい。

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