« 2010年05月 | TOP | 2010年07月 »

2010年06月27日

第409回「シリーズ人生に必要な力その38風の力」

 人がそれを意識したのはいつの時代でしょう。いまは当たり前のように言葉にしているけれど、まだ誰もその存在に気付いていなかったとき、まだ風が風ではなかったとき、人はそれをどう思っていたのでしょう。その正体を掴むまでは、そのしくみが解明されるまでは、神の息吹と畏れられていたこともあったようです。
 風。どこからともなくやってくる風。体が倒れそうになるほどの風もあれば、カーテンをほんわりさせるだけの風もあります。気圧の高低差や地球の自転の影響で生まれるそれは、大気のバランスを保っているいわば大地の呼吸。僕たち地球上の生き物にとって欠かせないものです。
 エアコンをつけるほどでもない生ぬるい夜、窓の隙間から通り抜ける風がとても心地よいときがあります。ブランコのように揺れるカーテンの膨らみからまるで体を撫でる様に通り過ぎていく風に心が穏やかになるのは、それが単に涼しいからではなく、風が人にとって必要なものだからでしょう。日の光の重要性は説かれても、風を浴びることが必要だとは言及されません。自然を守ろうといっても、森林や河川については触れられるものの、風については触れられない。それが必要なものだと知らないから誰も風を守ろうとしない。目には見えないから、風を失っていることに気付かない。厳密にいうと、見えないと決め付けているだけ。その気になれば風は見られるのに、見ようとしないだけ。風を守るとは、風を見ることなのです。
 海外を訪れると、町並みやのどかな景色と同じくらいに、陽光と肌に触れる風を実感します。特に大陸を渡ってきた強い風に包まれると、まるで肉体も精神もすべてが浄化されるような感覚にすらなるのです。波のように揺れる草原、ゆっくりと青空を泳ぐ雲、仰ぐように揺れる木々たち、妖精のように湖上を舞う霧。自然の中ではいたるところで風を見つけることができます。もちろん海外や大自然までいかなくても見つけることはできます。風鈴こそまさにその代表例。軒先を通り抜ける風。あの音で風を感じることができる。風が見える場所。風を見ることは決して難しいことではないのです。
 木々のざわめき。陽光のきらめき。きっと風も、そこにいることに気付いてほしいのです。「僕はここにいるよ、つかまえてごらん」と。風を捕まえることができるのは鳥でしょうか。鳥は風と追いかけっこをしているのでしょう。僕たちがこの肉体を借りているのと同じように、風は、鳥や雲や木々でその存在を伝えているのです。
 風が見える街と見えない街、同じ生活をしていてもまったく別の感情が生まれる。もしも風を大切にする世の中だったら、いまとは違った社会ができあがっている。精神的な充実感が欠乏している昨今、僕たちの心を和ませてくれるのは機械ではなく風。通り抜ける風が心の痛みをやわらげてくれるのです。だから、風が見えない生活、風を感じられない生活だとしたらそれは改善すべきでしょう。
 奇しくも、電力の供給を風車で行う時代の流れは、最終的に風を重んじる社会に向かっているかもしれません。そうしたら人の流れと同様に、緑や河川と同様に、風を大切にする時代が訪れます。風は地球上の空調をコントロールしているだけでなく、人々の心もコントロールしてくれるもの。人々はもっと風を感じるべきでしょう。風の見える町、風を感じられる生活、風を大切にする社会。人には風を浴びる時間が必要なのです。その機械を捨てて、風を浴びに行こうではありませんか。

09:45 | コメント (10)

2010年06月13日

第408回「シリーズ番外編人生に必要な県」

 僕がその場所に出会ったのはいつのことだったでしょう。長いトンネルを抜けるとふわふわとした桃色の世界を見たときでしょうか。盆地を見下ろす大きな温泉にはいったときでしょうか。ほうとうや馬刺しを食べたときでしょうか。高校の行事で訪れたときはまだ出会っていなかったから、おそらく14,5年くらい前のこと。東京から車で2時間、僕は山梨を愛し始めていました。
 山梨というとどんなイメージを持つでしょうか。富士山、ほうとう、武田信玄。富士山でさえ静岡に奪われがちですが、関東の僕でも最初はそれくらいのイメージでした。自らの足で訪れるようになったのはクラブイベントでDJ仲間と。せっかく山梨にまで来たのだから温泉でもはいろうじゃないかと、有名な石和温泉に向かいました。山々に囲まれた露天風呂で前日の疲れを癒そうとしたのです。
「え?こういうことなの?」
 しかし、目の前に広がるのは山々ではなくサティ。想像とは違った近代的な世界が広がっていました。なにより雰囲気を大切にする僕はそこのお湯に触れることもなく、再び温泉らしい温泉を目指しました。あてもなく、ただ蛇行する笛吹川を望みながら車を走らせること90分。気付けば深い山にすっぽりと覆われ、サティのサの字もない、いのししでもでてきそうな場所に来ていました。
「ここならあるんじゃない?」
 緑の中に突然現れたひなびた旅館。期待に若干膨らんだ車を降りるとそこには、川のせせらぎに包まれた露天風呂がありました。
「やっぱりこういうことだよね」
 まだ体が火照ったまま立ち寄ったほうとう屋さんで食べた馬刺。道端で揺らめく桃やぶどうののぼり。もちろん帰りは談合坂サービスエリアで旅の終わりのせつなさを味わいます。それからイベントの数がほかの県に比べて群を抜いて増えたのは言うまでもありません。それだけでは物足りず、なにかあると山梨に向かうようになりました。誰かに伝えたくて、この連載のイベントでも訪れました。山の上のほったらかし温泉。ゆったりお湯に浸かりながら眺める甲府盆地は朝も昼も夜も格別です。遠くには富士山もいます。青い空と白い雲、もしかしたら信玄もこの空を眺めていたかもしれません。そして、ゆったりとした川の流れ。信玄餅や甲州ワインなど、いろんなお土産品がありますが、結局僕は山梨県をまるごと持ち帰っていました。山梨が、僕の心の隙間を埋めてくれたのです。
 そしてそこが「日本の北欧」であることに気付いたのは数年前。この業界ではもっとも北欧に精通しているのではないかと思われるほど北欧男子な僕が強く感じるのです。デンマークのような起伏のない町並み、スウェーデンにいるかのような湖、フィンランドのような深い森、そしてアイスランドのような大自然と巨大な温泉。まさにそこは日本の北欧というよりほかありません。海こそないものの、それが気にならないほど、きれいな川が水辺を感じさせてくれるのです。
 この想いが伝わったのか、むしろそれが今回の内容の説得力を弱めるかもしれませんが、山梨県の観光大使に任命されました。神奈川県出身なのにです。だからというわけでもないですが、せっかくなのでこのタイミングになったのです。
「信玄が見た空が、そこにある」
「その隙間を埋めるのは、やまなしです」
 人生に絶対必要だとは言いません、人生に一度、日本の北欧やまなしを味わってみてください。きっと、あなたの心の隙間を埋めてくれるでしょう。そして観光大使就任記念バスツアーでもやりましょうか。

00:09 | コメント (14)

2010年06月06日

第407回「シリーズ人生に必要な力その37残さない力」

 ハードディスク・SDカード・メモリースティック、家電量販店に行くとコンビニのお菓子コーナーのように陳列されている記録メディア。3ギガだとか5ギガだとか、かつては耳にしたことのない言葉を掲げて並んでいます。CD−RやDVD−Rなど、なんとなく記録している面が見えればイメージしやすいもののこんなプラスティックのいったいどこにという感心することもなく人は、当然のようにデータを記録・保存し、持ち運ぶようになりました。
 写真にしても、あんなに馴染みのあったフィルムをあっけなく手放し僕たちは、この小さなカードに思い出を記録するようになりました。フィルム時代にあった、途中で本体を開けてしまってフィルムが飛び出して叱られるということも、カメラ屋に持っていって出来上がりをわくわくしながら待つことも、絹かどうかを選ぶことも、フィルムの分いびつに膨らんだ袋を手にすることも、もうなくなってしまいました。やがて卒業アルバムも小さなプラスティックで渡される日が訪れるのかもしれません。
 テレビ番組にしても、もはやビデオテープに録画する人は稀で、ほとんどの人がHDD・ハードディスクレコーダーに保存するようになりました。音楽においても、カセットテープはもちろん、CDで聴く人も少なくなり、アナログ時代にあった巻き戻すという行為は言葉だけになりました。あの回転している音を知っている人は決して多くない時代、人々はあらゆるものを記録・保存するようになりました。身の回りになくても、ネットの世界で探せばどこかしらに保存されています。アーカイブという言葉を耳にするようになり、人々は、まるで布団のように、圧縮してでもデータを保存するようになったのです。でも果たして、保存することはそんなに素晴らしいことなのでしょうか。
 そもそも人はどうして保存するのでしょう。見たい番組が見られないから録画しておく、これはなにも間違っていません。でも、ハードディスクの登場で録画がいくらでもできるようになったいま、ためるだけためておいて結局全然見ないというケースも少なくありません。いつでも見られるという油断。「いつでも見られる」は「一生見ない」のです。それに、同じ番組でも、放送中に見ることと、録画したものを見るのでは受け止め具合・角度は違ってきます。それがいけないことではないですが、後者の場合、自分のタイミングで見ることによって貴重さは薄まり、なにより、「いま」じゃなくなってしまうのです。  
 いつでも見られる番組、いましか見られない番組、どちらが魅力的かというと「いましか」の方ではないでしょうか。もちろん、たくさんの人たちに見てもらうためには「いつでも」のほうが有利でしょう。でも長い目でみたら、もしくは、心に刻まれる深さは、「いましか」のほうが強い気がします。ハードディスクレコーダーの登場が視聴率を下げているとしたら、それは単に録画する人口が増えたからだけではなく、いつでも見られることによる放送自体の価値が下がってしまったからかもしれません。
 昔はそれが当然だったから、きっと「残らない」ということに価値を見出さなかったのでしょう。でもこれだけ残すこと、残ることが普通になってしまったいま、もはや残らないことのほうが困難であり、美しいということに気付かなければなりません。残す美学ばかりが取り沙汰されているけれど、残らない美学もあるのです。
 花は枯れてしまう。花火は散ってしまう。そして生き物もやがては消えてしまう。なんでも残すこと、それはいうなれば、人工的に雨を降らせるようなもの。雨はいつ降るかわからないから雨なのであって、人間が意図的に降らせる雨は雨じゃないのです。人間がコントロールして作りだす虹なんてなんにも美しくないのです。
 旅行先で撮影した写真をあとで見ながら思い出に浸ることも楽しいでしょう。でももしかしたらカメラなしで旅行にでれば、カメラ持参のそれとは別の世界が見えるかもしれません。いましか見られないと思って出会ったものはきっと、心のメモリースティックにしっかりと刻まれているのです。
 もちろん保存・記録することも必要で、なにも保存するなと言っているわけではありません。ベートーベンやビートルズの曲が時代を越えて愛されているのは記録技術のおかげです。いつも言うようですが、大切なのはバランス。残すことばかりに気をとられて「いま」の大切さが軽視されている。いまの重みがなくなっている。いまを伝える、いまを共有する、そこには失敗も成功もないのです。
 残すことによって生まれる安心感が、その瞬間を受け止めるときの気持ちを緩めている気がします。もしかしたらやがて、目にしたものすべてが勝手に保存される時代が訪れるかもしれません。そこに疑問を感じず、なんでも残してしまう時代だからこそ、人生には残さない力が必要なのです。

00:32 | コメント (10)