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2008年05月25日

第317回「シリーズ人生に必要な力その2旅力」

 ドラマ、もしくは現実の世界で、「あぁ、やっぱり家が一番」というフレーズを時折耳にします。旅館やホテルも快適だけど結局我が家が一番居心地がいい、というほのぼのした言葉です。たしかに温泉で疲れを癒せても、いつもと違う生活リズムはなにをするにも不安と緊張が伴い、体力だけでなく精神的にも疲労してしまうものです。そんな心身ともに疲れきった体が、重たい荷物から解放され、座り慣れたやわらかいソファにやさしく包み込まれたら、思わずため息とともに口から出てしまうのも当然です。 しかし、旅は家の居心地の良さを確認するためのものではありません。旅は旅の良さを実感できなくてはいけないのです。なので皆さんの人生のためにあえて言います。「あぁやっぱり家が一番と言ったら、その旅行は失敗」なのです。
 それは敗者の証であり、敗北宣言なのです。いい旅をしていなかった証拠なのです。本当にいい旅をしていたらそんな言葉はでてきません。むしろ、久しぶりに見る自宅を前に、「あぁ、まだ戻りたくなかった…」という気持ちでいっぱいになります。体は家にあるものの、心はまだ旅先にあるのです。「あの景色よかったな」「あの街をもっと歩きたかったな」と、何日たってもなかなか心が帰宅しない、それこそがいい旅なのです。
 それに比べ、旅の感想が「家が一番」とは、さんざんお金や時間を費やした旅行を全否定しているようなものです。旅行会社の添乗員さんがそんなつぶやきをきいたらどう思うでしょう。夏休みの思い出に、家に帰ってほっと一息ついた瞬間を描く小学生はいません。海や山ではしゃいでいるシーンを描くでしょう。(もしかするとDSをやっている思い出を描く人はいるかもしれませんが)おばちゃんのように、「あぁ、やっぱり家が一番」とため息交じりに言う小学生もいません。なぜなら子供は疲れを知らないから、多少、無茶な工程も乗り切れるのです。ただ、大人になるとそうもいきません。体力がない分、旅力をつけないと、旅の敗北者になってしまうのです。
 またある人はこういいます。「旅行って、準備しているときが一番楽しいよね!」と。気持ちはわかります。あれこれ想像しながら必要なものと期待をかばんに詰め込む作業は確かに楽しいです。頭の中でいくら旅をしてもまったく疲れないですし。ただ、これも残念ながら、完全なる敗北宣言なのです。確かに準備は楽しいものですが、実際の旅行がそれを上回らなければだめなのです。「旅行はなにより、旅行をしているときが一番楽しい」、そう実感できないとだめなのです。
 では、なぜ多くの人が、「やっぱり家が一番」と言ってしまうのでしょう。なぜ皆、旅に失敗してしまうのでしょう。その原因は大きく3つ挙げられます。
 まず一つ目は、「詰め込みすぎだから」です。あそこも行きたいここも行きたいと、一日にいろいろな箇所を回っていては、いい旅になりません。時間があるからといって一日に映画を何本も観ると頭の中がぐちゃぐちゃになるのと同じ様に、一日いろんな光景を目にしすぎるとそれぞれの印象が混同し、薄まってしまいます。のりしろをつくるように、ひとつひとつの前後の時間も大事にするべきなのです。また、本当のいい景色は、観光地ではないところに潜んでいます。観光地化されていない場所にこそ、その原風景が残っているものです。だから、ノルマをこなすように観光名所ばかりをやみくもにつなげるのは心に残らないことが多いのです。
 二つ目は「カメラに振り回されているから」です。日本人は特にカメラが好きなようで、海外の人にきくとしょっちゅう写真をとっているイメージがあるそうです。カメラを手にしたとたん、撮らなくてはならないという脅迫観念に似た意識が芽生え、ファインダーやモニター画面ばかりを見て、肝心の光景を体感しないのです。カメラに収めることばかりに夢中になり、自分の目や体にやきつけようとしないのです。写真家ならまだしも、一般の観光なのだから、そんなに撮る必要はないのです。極論を言えば、カメラなんて持たなくたっていいのです。
 三つ目は「お土産を意識しすぎだから」です。特に海外にいくとなると、ついつい嬉しくて周囲の人たちに自慢げに発表してしまいます。「今度イタリアに行くんだ!」と。この段階でその旅は失敗になることが決定されます。というのも、「上司にも、同僚にも」と、誰にどんなお土産を買うかで頭がいっぱいになり、自分のための旅行でなくお土産を買うための旅行になってしまうのです。お土産のために最終日一日をつぶし、大量の紙袋を抱えて走り回っていると、「俺は業者か!」と自分でつっこみたくなってしまうのです。そうならないために、海外であればあるほど、周りに自慢するのを我慢し、極秘で行くことが大切なのです。
 あとは気分を優先させることが大切です。頭の中でたてた予定を達成するために、気分がのらないまま行動しているのもあまりよくありません。本当は出かける予定だったけど、今日は気分がのらないから近くを散歩していよう、そんな日があってもいいのです。予定通りにいかないことが旅の醍醐味でもあります。だからこそ、メンバーは大事になってきます。旅はメンバーで決まるといってもいいかもしれません。気分が乗らないことを伝えられず、その気はないのにただついて行く旅ほど疲れるものはありません。なので、本当に充実した旅をしたいのであれば、同じ価値観の友人、それが難しいのなら一人で行くことをおすすめします。
 以上のポイントをおさえておけば、必ず満足のいく旅をすることができるでしょう。あなたの口から出るのは、「家が一番」から「帰りたくなかった」という言葉に変わるでしょう。
 いい旅の基準は、いかに心を満たすことができたか、です。日常生活で乾いてしまった心を潤すものでなければ意味がありません。それが、日常生活および人生全体に潤いをもたらします。だから、人生には「旅力」が必要なのです。失敗ばかりの旅も悪くはありませんが、家に負けない快適な旅になることを願って。

1.週刊ふかわ | 09:07

2008年05月18日

第316回「シリーズ人生に必要な力その1ごはんとおかずのバランス力」

 ときに人生は、旅に例えられることがあります。いまでこそ旅というと快適さが当たり前ですが、昔の人にとってのそれは山あり谷ありの苦難の連続で、それこそまさに人生の縮図のように思えたのかもしれません。
 学生の頃、遠足や修学旅行などの際、きまって「旅のしおり」なるものを渡されたものでした。そこには、旅の工程や注意事項、用意するものが記され、それを参考に、わくわくしながらリュックに荷物を詰めたものでした。大人になってからも、海外に行く際はやはりガイドブックがないとどうしていいかわかりません。なにも知らずに海外にいくのも楽しいでしょうが、事故のない旅にするにはやはり「しおり」や「ガイドブック」のような、ある程度役に立つ情報が必要なのでしょう。
 では、「人生」という旅にはガイドブックはあるのでしょうか。もしかすると、明確なそれはまだ存在していないかもしれません。もし、「人生」という旅のしおりを作成したならそれはどのようになるのでしょう。なにをリュックに詰めたらいいのでしょうか。この「旅」に必要な物を挙げだしたらきりがありません。無駄なものはない、という考えもできます。しかし、「必要な力」は挙げることができるのではないでしょうか。人生という長い旅を歩む上で求められる力は、人生を長年経験した者のみがわかることです。それらを提示することによって、これから歩き続ける人たちの旅をより有意義にすることができるのです。このシリーズは、そういった目的で作成されました。今後、さまざまな「力」が登場しますが、今回挙げる「人生に必要な力」は、「ごはんとおかずのバランス力」です。
 読んで字のごとく、ごはんとおかずのバランスのことをいいます。ただ、栄養面でのバランスではありません。もちろんそれも大事なことですが、ここでいうのは空間的、物理的にバランスよく食べる力です。もっともその力が問われるのはやはりカレーライスでしょう。
 最初からルーがライスにかかっているものにしても、そうでないタイプにしても、このルーとライスをバランスよく食べられるかどうかが、人生を歩む上で非常に重要になってきます。ルーが余ったり、ライスだけが残るような食べ方をしていては、幸福な人生は遠のいてしまいます。ライスとルーのバランスを保ちながら最後の一口をおいしく無事に終えらる力こそが人生には必要なのです。まさに、カレーライスを制する者が人生を制すると言っても過言ではありません。
 では、どのようにしてそのバランス力を培うのか。そのためには、現状把握と未来予測のふたつの要素が必要になってきます。常にライスに対するルーの量を認識しておくこと。だからといって、ルーが先になくなってしまうんじゃないかと不安に駆られ、びくびくしながらちびちびライスにのせているようでは、器の小さな人間に思われてしまいます。親戚にそんなおじさんがいたら嫌です。一方で、ただその場の快楽だけを追求した結果、半分くらいルーなしでカレーを食べて終わるようではあまりに悲しいです。親戚にこんなおばさんがいても嫌です。常に、いまどれくらい残っているか、残りがこれくらいだと少し比率を変えたほうがいいかもと、常に未来を予測しながら、ペース配分をしなくてはならないのです。それもカレーがあたたかいうちに。
 これができてはじめて、満足度の高い「カレーライス」に辿りつくことができるのです。だから、人によっては「カレーライスはスポーツだ」という者もいます。たしかに汗もかくし、スポーツ的要素は多少あるかもしれませんが、個人的には「カレーライスはスポーツではない」と思っています。スポーツでなく、むしろ会社です。あなたは「カレーライスコーポレーション」の社長で、駅前のカレー屋さんはあなたの会社なのです。食券は持ち株で、カウンターに取り付けられた丸イスこそが社長のイスなのです。カウンター越しにいるおばちゃんは秘書です。目の前に出されたカレーライスが自分のために働いてくれるかはあなたしだい。ここでうまく采配することをあなたは期待されているのです。場合によっては、福神漬けやらっきょうが加わる場合もあります。でもそんなときも焦らずに、現状把握と未来予測をしっかりしてのぞめば、決して失敗はしないはずです。たとえカツやコロッケがのっていたとしても。
 スポーツにせよ会社にせよ、真剣にカレーライスと向き合うことが大切なのです。そこで培ったごはんとおかずのバランス力さえあれば、幕の内弁当やとんかつ定食、ハンバーグランチ、今後どういった定食や膳に対しても物怖じすることはなくなります。そして食事だけでなく、「勉強と遊びのバランス」や「仕事と趣味のバランス」、「奥さんと愛人バランス」など、人生のあらゆる局面でその力を発揮できることでしょう。「ごはんとおかずのバランス力」、この力が人生には必要なのです。

1.週刊ふかわ | 08:52

2008年05月11日

第315回「白い石の少年」

 ウィーンはハイリゲンシュタットという町に、「ベートーベンの小路」と呼ばれる道があります。頭の中が煮詰まると、その道を散歩してはメロディーを考えたそうで、かの有名な田園交響曲もそこから生まれました。
 僕の家の近所にも、自称「ふかわの小路」と呼ばれる緑道があります。頭の中が煮詰まったり、お腹が出てきたりすると、その道をジョギングしては、家でアイスを食べているそうで、かの有名な「週刊ふかわ」もそこから生まれました。
 たくさんの木々や草花が植えられた緑道が住宅街の合間を縫うようにのびている様子はまさしく緑の道という印象を受けますが、それこそ春になると一斉に桜が咲き、ブルーシートを広げた人たちを上から覆いかぶさるように桜の花でいっぱいになります。毎年、満開の翌日に吹く風が、普段は緑にあふれたこの道を、幻想的なピンク色の世界に変えるのです。
 その緑道を走っていると、いろんな人たちを見かけます。犬の散歩をしている人、ベンチでお弁当を食べている人、子供と遊んでいる人。もしもこの緑道が土地開発とかでなくなるようなことがあれば、確実に地域の反対運動により事業はストップすることでしょう。みんなにとってこの緑道は、とても大切な道なのです。
 「もう少しでピノが食べられる...」
 それは、ほんの一瞬の出来事でした。いつものように僕は緑道をジョギングしていると、前に学校帰りの小学生が数人歩いているのが見えました。ランドセルを背負った女の子二人組みと、少し離れたところに男の子がひとり。おそらく4年生くらいでしょうか。同じクラスなのかわかりませんが、少年はどこか話しかけたそうにも見えます。後ろの彼に気づいているのかいないのか、二人はおしゃべりをしながら歩いていると、少年はいきなり立ち止まり、彼女たちに向かって大きく声を掛けました。
 「ねぇねぇ、白い石あるよ!!いる?!」
 少年の嬉しそうな声が緑道を駆け抜けます。
 「いらなーい」
 間髪いれず、その言葉が返ってきました。振り返りもせず、まったくペースを落とさずに二人はそのまま歩いていきました。
 その後、少年がどうしたのかはわかりません。しかし、彼らが通り過ぎていったあとも、このほんの数秒間のやりとりが頭から離れなかったのです。
 「これがもしあの子のとこにいったら...」
 プレゼント交換を前に僕は、異様な興奮をしていました。自分が情熱をこめて作った作品を手にしたら、確実に僕を好きになるに違いない。そして音楽がはじまると、高島屋の紙袋に包まれた木製の戦闘機と空母が、僕の手から離れていきました。
 「ほかのとこにいくなよ...」
 自分のところに来るプレゼントを適当にあしらいながら、高島屋の紙袋の行方ばかり気にしていました。
 「はい、ストーップ」
 先生の合図に音楽がとまると、僕は目を丸くしました。まさに狙い通り、意中のあの子の膝の上に高島屋の袋があったのです。
 「きた!完全にきた!これであの子と両想いの日々が始まる!」
 僕は、自分の所にきたプレゼントを上の空で開封しながら、彼女のリアクションを楽しみに見ていました。なんせ紙袋の中には空母だけでなく小型の戦闘機が3機もはいっているのです。そして彼女が紙袋を開封しました。
 「やだぁ!なにこれー!」
 彼女の顔が完全にひいていました。眉間に皺が寄りまくっていました。彼女は汚いものを掴むように指先でつまむと、すぐに僕の戦闘機を袋の中に戻してしまいました。
 「空母もあるんだよ!見て!」
 僕がまだ小学校低学年の頃です。
 白い石を見つけた少年も、空母を作った少年も、このときは知らなかったのです。女子たちがそんなことに一切興味を持っていないことを。白い石なんかよりも、ダイヤモンドのように輝く石に惹かれることも、空母なんかよりも夜景の輝きを喜ぶことも知らないのです。もしかしたら「ほんと?どこにあるの?」と少年に駆け寄ってくる女子も中にはいるかもしれません。でも、ほとんどの女の子は白い石に心は動かないのです。キラキラと輝いているモノじゃないと振り向いてくれないのです。
 少年は白い石を追い求め、少女はそこに見向きもしない。この距離は一生縮むことはありません。男と女は決定的に違う生き物なのです。ただ、少女もいつしか気づくのでしょう。白い石を見つめる少年の目の輝きを。それがダイヤモンドよりも輝いていることを。男と女はそんな関係であってほしいです。

1.週刊ふかわ | 09:36