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2005年04月24日

第166回「見えない分母」

一日を短いと感じ始めたのはいつの頃からでしょう。

小学生や中学、高校くらいの時、いや20代のときにだってそんな風には感じていなかった気がします。すると30歳ちかくになってからでしょうか、ひとに言いたくなるほど「一日が早い」と感じるようになったのは。

たとえば翌日が休みだったりすると、「明日は早く起きて、あれやってこれやって...」などと、普段やれないことを片付けようと意気込んだりするのだけど、いざ休みの日になると、朝起きてコーヒーでも飲んでボーッとしてたらもう夕方なのです。知らぬ間に時間は過ぎていき、辺りは暗くなり、ほとんどなにもせずに一日が終わってしまうことが多いのです。小さい頃はいくら遊んでもまだ3時半くらいだったのに、大人になると、たいしたこともせずに夕方になっているのです。これは一体なぜなのでしょうか。

今回もまた考えてしまいました。というか、だいぶ前から考えていました。すると、「時間」について、あることがわかったのです。ではいまから発表しますが、多少ややこしいので、仕事帰りの電車で隣に座っているひとの会話が聴きたくもないのになんだか聞こえてくる、くらいの感じで受けとめてください。

時間の長さというのは絶対的なものであって、人それぞれに違うものではありません。1時間はだれにとっても1時間であるわけです。しかし、この「1時間」を長いと感じるか、短いと感じるかという目線になるとどうでしょう。これは人それぞれに違ってくるかと思います。「楽しい時間は早く感じ、辛い時間は長く感じる」。このことはよくある話で、誰もが感じたことはあるでしょう。ただ、これはこれで間違ってはいないのだけど、今回はもっと根本的な部分に目を向けてみましょう。「時間」の長さを感じるのは、そのひとがどれだけ時間を経験したかによって変わってくるのではないか、そう思ったのです。「1時間」という時間は、人によって感じ方が違うということなのです。さぁ、ややこしくなりそうですね、だいじょうぶですか?先すすめちゃいますよ?

たとえば、です。6歳の子供にとっての1時間と、60歳のおじいちゃんにとっての1時間は、はたからみれば同じ1時間であります。しかし、同じ1時間をどのくらいの長さで感じているか、という点ではどうでしょうか。それが異なるというのが僕の仮説です。

「子供にとっての1時間よりも、おじいちゃんにとっての1時間のほうが短い」

のではないでしょうか。

これはどういうことか。つまり、子供にとっての1時間は、「6年分の1時間」であって、おじいちゃんにとっては「60年分の1時間」だということです。

6年という時間を経験した人と、60年という時間を経験した人とで時間の感じ方が異なるのです。さぁ、わけのわからないこというなよ、という感じかもしれませんね。でもまだまだいきますよ。「1時間」というのは誰にとっても「1時間」なのだけど、その時間の長さは、その人が時間をどれだけ経験しているかで変わってくる、というとこです。その人がどれだけ時間を経験したかが、時間の長さを計る尺度の基準になるということです。だから、ひとえに「1時間」といっても、実際にはその分母に、その人の経験した時間があるのです。つまり「相対的な時間」が存在する、ということなのです。極端にいいます。

「まだ1時間しか経験していない人間にとっての次の一時間は、ものすごく長く感じるはずだ」

ということです。ただ、通常の人間は、時間を意識できるようになるのは何年もたってからなので、そのような時期を経験していないだけなのです。逆も考えられます。すでにアナタが1万年生きていたら、これから訪れる1時間はとても早く感じることでしょう。こういう考えの上では、「相対的な時間」というものが存在するのです。

では先ほど少し触れましたが、「楽しい時間は早く、辛い時間は遅い」というのはなんなのか。これは、結果的に人間の心が感じた時間の長さなのです。なので、同じ楽しい1時間であっても、おじいちゃんにとっての1時間のほうが早く感じることになるのです。つまり、楽しい1時間にも辛い1時間にもかならず分母は存在するということです。
時間で考えるととてもややこしいので、市販のカップラーメンで考えて見ましょう。カップラーメンは誰にとってもカップラーメンです。ただ、毎日食べている人にとってのカップラーメンと、深夜なんだか無性におなかが空いてなにか食べ物はないかと探したら戸棚に発見しお湯を注いで食べるカップラーメンとでは、おいしさの度合いが違うものです。確実に後者の方がおいしいはずなのです。カップラーメンのおいしさを10とすると、その分母には、最近カップラーメンを食べた数量が存在するのです。

このカップラーメンのたとえが正解だったのかどうか微妙ではありますが、とにかく、時間には「見えない分母」が存在する、ということをわかってもらえればとおもいます。ただ、このことを理解するうえで大事なことを言うのを忘れてました。それは、「こんなこと知っててもまったくアナタの人生に役立たないよ」ということです。時間に分母があろうとなかろうと、実際の生活にはほとんど影響はないのです。だから知っていたところでなんにもいいことありません。むしろ知らない方がいいくらいなのです。じゃぁなんでわざわざそんなことを発表したのか。それはまさしく誰かに聞いてほしかったからです。こんなことをきいてもらえるのはこの場くらいしかないからです。ただ、ひとつ言うならば、分母が存在してもしなくても、「いまを精一杯生きるしかないんだ」ってことですね。

PS:最近お酢を飲んでいないからか、また虚弱体質になってしまいました。

1.週刊ふかわ | 11:00 | コメント (0)

2005年04月10日

第165回「渇いた心に」

たぶん忘れちゃってるだろうから少し振り返ると、「CDショップでは、なぜひとつの視聴器にヘッドホンがふたつ付いているのか」という疑問が生じ、これに対する僕なりの独断と偏見たっぷりの見解を物語風にして発表してみたら、思いのほか話が長くなってしまい、むしろ見解よりもそのストーリー展開に重点が置かれるようになってしまいました。今回で完結するか若干の不安こそありますが、どうにか終わりたいわけです。で、前回までの話というと、僕がCDショップで視聴をしていたら「僕もいいですか」と突然男が現れ、二人で視聴する状況になってしまったのです。その気まずさにどうにか慣れてきたころ、横を見るとその男が涙を流していた、そんなストーリーです。

「ちょっと、どうしたんですか?だいじょうぶですか?!」

ひとつの視聴器を僕と共有していた男は、ヘッドホンをしながら号泣していました。

「ちょっと、ねぇ、ちょっと!」

涙で顔をクシャクシャにした男を前にすれば誰だって困惑せずにはいられません。男は、僕のことばを聞くどころか、まるで現実世界を拒絶するかのように、ヘッドホンをしっかり両手で押さえていました。異変に気づいたのか、周囲の視線が集まり始めました。僕は平静を装うことが困難になってきました。

「まいったなぁ、頼むから泣かないでくれよ。これじゃまるでケンカ中のホモのカップルじゃない」

すると男の泣き声が一瞬止んだ気がしました。

「あれ、泣き止んだ?」

と横をみると、男はなにやら瓶から錠剤のようなものを手のひらにこぼし、それを一気に口の中に放り込もうとしていました。

「ちょっと、なにしてるんですか!」

「死なせてください!死なせてください!」

とっさに僕は錠剤を握り締める男の腕を掴みました。

「放してください!死なせてください!」

男は僕の手を必死に振り払おうとします。

「僕なんかもう死んだ方がいいんです!僕みたいな人間は生きていたってしょうがないんです!」

男はあいかわらず物凄い力で錠剤を握り締めていました。僕はその腕を強く握りしめ、どうにか手を開こうとしました。

「いいから放してください!」

「ちょっと!おちついて!」

上に持ち上げられた男の手がゆっくりと開き、中から10粒くらいの錠剤がこぼれおちました。男は腰が抜けたように床に尻をつき、ふたたび泣き始めました。いつのまにか遠巻きに人だかりができていました。

「で、死にたくなったんだ...」

僕たちは、お店から少し離れたところにある公園のベンチに座っていました。視聴器の前では収拾付かなくなってしまったからです。ようやく興奮状態もおさまり、男も落ち着いて話ができるようになりました。話によると男は、会社のリストラに遭ってから自分の存在の意味がわからなくなってしまい、「死んでしまおう」と考えるようになったのです。

「僕がひとりいなくなったところで、どうせ誰も悲しまないんだし...」

「だからって、あんたところで死のうとしなくたっていいじゃないですか。だいたい僕みたいな初対面の男の横でなんて」

「誰かに迷惑かけてやろうとおもったんです。僕だけがこんな悲しい思いをして一人で死んでいくなら、いっそ世の中に迷惑かけて死んでやろうって」

「その対象がたまたま僕だったってことだ」

男は缶コーヒーを大事そうにすすりました。

「そういうことになります、申し訳ないですが。ただ、あの時は本当に人生なんてどうにでもなれって思っちゃってたから」

「うん、わかるよ、それはわかるんだけど...」

僕は飲み干した缶を横の空き缶入れに放り込みました。

「...でも、自分だけが悲しい思いをしてるとか、そんな風に考えない方がいいと思うけど」

男はあまりわかっていないような表情をしていました。

「自分だけが悲しい思いをしてるだとか、自分だけが辛いだとか、まるで自分が特別な人間かのように思わないほうがいいよ。いや、思っちゃいけないんだよ。なんていうか、世の中って、あなたが一番になるほど、そんな甘いものじゃないんだよ。そう簡単に特別な存在になんてなれないんだよ」

男はだまってうつむいていました。

「僕はあなたがどれだけ辛い思いをしてきたのかは正直わからないけど、でもきっと、辛いのはあなただけじゃないんだよ。みんな辛いし悲しいんだよ。そのタイミングがそれぞれ違ったりするだけで。だから、どんなことがあっても、死にたいなんて思っちゃいけないんだよ。あなたの命はあなただけのものじゃないんだから。あなたの命はみんなのもの、つまり宇宙の一部なんだよ」

男はうつむいたまま顔を上げようとはしませんでした。

「もういちど、聴きにいこうか?」

「え?」

「もう一度お店行って、CDいっぱい聴いてまわろうか」

「いいですけど、なんのために?」

「音楽って、渇いた心を潤してくれるから」

そうして僕と男は再びCDショップに戻り、あらゆる階のあらゆる視聴器で、音楽を聴いて回りました。

「でも、どうして視聴器がひとつなのに、ヘッドホンってふたつなんだろ?」

男がぼそっとつぶやきました。

「それはあれじゃない?あなたみたいな人がいるからじゃない?」

「えっ?なんですか?」

聞こえてないのか、聞こえないふりをしたのかわかりませんでした。でも今度「どうしてヘッドホンってふたつなの?」と訊かれたら僕は、「人間はひとりじゃ生きていけないから」と答えるでしょう。 この一言のために3週もかけてしまったなぁ。

1.週刊ふかわ | 11:00 | コメント (0)

2005年04月03日

第164回「なぜ、ふたつなのか」

「ご一緒させてもらって、いいですか?」

と言っているような気がして僕は、慌ててヘッドホンをはずしました。

「ご一緒させてもらって、いいですか?」

口の動きから推測した通りのことを言っていました。まるで合い席よろしいですかとたずねるように男は、使用していない方のヘッドホンを手にし、僕にきいてきました。

「えっ、あっ、はい...」

たしかにひとつの視聴器に対してヘッドホンがふたつあることは知っていたものの、実際に見知らぬ人と同時に使用した経験はなく、ましてや途中参加で視聴器を共有してくる人が存在するとは思ってもいなかったので、さすがに困惑した表情を隠せませんでした。

「拒否するべきだったのだろうか...」

すぐに、その男の要求に対して断ることができなかったことへの後悔が押し寄せてきました。そもそもおかしいではないか。視聴器というのは、そのCDが自分の好きな世界かどうか確かめたりするものであって、言ってみれば服を試着するようなもの。突然試着室のカーテンを開け、僕もそのジーンズ履いてみてもいいかな、と言うようなものです。カップルや友人同士ならまだしも、見ず知らずの人と共有するべきものではないのです。だから、要求に対して断るか、もしくは「どうぞ」と言ってさりげなく立ち去るとかすればよかったのではと感じはじめたのです。ただ、もしバトンタッチするように僕が去っていたら、ちょっとした立ち退きに従ったようなものだし、その男の外見からも、なにか危害を加えるようなタイプではなく、一応スーツを着ていたので、常識を持った人物であるだろうということなどが、拒否する気を起こさせなかったのかもしれません。僕は、ヘッドホンから流れてくる音楽が、まったく耳に入らなくなっていました。

 傍から見たら、多少奇妙な光景になっていたことでしょう。サラリーマン風の男と、カジュアルな30前後の男という、あまり友人同士にみえにくい、不釣合いなふたりがひとつの視聴器を共有しているのだから。そんなことばかり気にしていたものの、次第にどうでもよくなってくると、ヘッドホンからの音楽がようやく耳に届くようになってきました。

「次の曲にしてもいいのだろうか...」

しかし、慣れたら慣れたで、そんな疑問が浮上してきました。いま流れている曲をフルコーラス聴くつまりはない。そもそも視聴というのはそういうもので、深夜のテレビのザッピングのように、いろいろ試してみて自分にハマるのを探す作業なのです。一曲一曲フルコーラスで聴いていたらそれこそCD一枚分の時間がかかってしまうわけで、ましてやひとつの視聴器に数枚のCDがはいっているのだから、そういった他のCDも聴きたい。だからテンポよく次の曲、次のCDにいきたいのです、通常であれば。しかし、です。今回に限っては僕一人の視聴器ではなかったのです。ふたりでシェアしていたのです。だから、次の曲を聴きたいからといって自分のテンポで変えていいものなのか、相手の気持ちを無視して曲を変えてもいいのだろうか、心のなかでの葛藤がはじまったのです。

「これが少年ジャンプだったら、どうだっただろう?」

中学時代、休み時間になると漫画雑誌をふたりで一緒に読んでいる奴らがいました。ドラゴンボールをふたりで読んだりするわけです。その状況に似ている気がしたのです。漫画にしたって、読むスピードに多少なりとも個人差はあるわけで、ページをめくる前に「いい?」ときいてりして、相手のことを気にしてしまうものです。ただ、いちいち「いい?」「うん、いいよ」なんてやりとりをしていたらストーリーに集中できなくなるのも当然で、次第に気を使わなくなり、結果的には、ページをめくるタイミングは本の所有者にゆだねられるものなのです。その本に対しお金を払った者が一番えらいわけで、どんなに仲のよい友人であってもページをめくる権利は持っていないのです。マックのポテトにしてもそうです。「ポテト食べていいよ」といわれ二人でシェアすることになっても決して友人は平等であろうとしてはいけないのです。ポテトに対してお金を払った人のほうが絶対的にえらいわけで、そこにはゆるぎない上下関係がうまれているのです。たとえポテトを食べることを許可されたとしても、調子にのって何本も食べていいわけではなくて、出資者2本に対し友人が1本という具合でなければならないのです。ましてやポテトでいうと、長さにバラつきもあります。当然長いポテトは出資者で、友人は短めのものを選ばないといけないのです。ただし、人によっては、短いカリカリに焦げたタイプのが好みの場合もあるので、あらかじめ「こういうカリカリの好き?」と出資者にきいておかないといけないのです。このように、ひとえに「シェア」といっても、かならずしも平等の関係とは限らないのです。だいぶ本線からそれてしまいました。ポテトの話はいりませんでした。いずれにせよ、それに対して誰がお金を払ったのかがポイントとなるわけです。しかし、目の前の視聴器は僕が買ったわけではありません。「視聴料」を払ったわけでもありません。じゃぁどこで上下関係が生まれるかといえば、それは紛れもなく順番です。お金を払った者がいないのであれば、先に使用していたものに、その操作の権利が与えられるべきなのでしょう。だからここでいうと、先にヘッドホンで視聴していた僕に曲を変える権利があるのです。

「いいですか?」

操作の権利があるからとはいえ、さすがに無言で曲を次に進めるのも意地悪かと思い、僕は横の男に軽く合図してからボタンを押そうとしました。が、ボタンに触れるか触れないかぐらいのところで僕の指がピタッととまりました。一瞬見えた男の表情の異変に気付いたからです。おそるおそる僕は、再び彼の方に目をやりました。

ひとつの視聴器を僕と共有していた男は、ヘッドホンをしながら号泣していました。顔をクシャクシャにして泣いていました。ヘッドホンから流れてくる音楽とはまったく別のリズムで肩が揺れていました。

「ちょっと、どうしたんですか?だいじょうぶですか?!」

やはりあのとき拒否しておけばよかったんだ、そんな後悔が再び押し寄せてきました。

PS:ここで整理しますが、「なぜひとつの視聴器にたいしてヘッドホンがふたつついているのか」というテーマに沿って、先週からお送りしています。次回、なるべく完結させます。

1.週刊ふかわ | 11:00 | コメント (0)