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2017年09月08日
第719回「テイクアウトで」
「お持ち帰りしますか?」
まるでファスト・フードの店員さんのように言いました。
「ついに来てしまった」
もう逃げられない。その時の僕は、まるで処刑を待つ囚人のように怯えながらシートに座っていました。
「今日は、歯を抜きますからね」
覚悟はしていたものの、やはり冷静ではいられません。あまり考えないようにとは思っていたけれど、日にちが近づくにつれて次第に気持ちが重たくなり、昨晩は寝つきもよくありませんでした。背後の声が女性から男性に変わると、シートが傾いていきます。
「では、麻酔を打ちますからね。心臓がドキドキするかもしれませんが、大丈夫ですから」
すでに心拍数は上がっていました。これ以上上がったらどうなってしまうのだろう。そんな心配をよそに、奥歯の根元に麻酔が注入されていきます。1箇所、2箇所、3箇所。決して激痛というわけではないけれど、やばいところに突き刺さっている感覚。喉の奥に液体が流れていきます。
「それでは、麻酔が効くまで3分ほどお待ちくださいね」
胸から飛び出そうなくらい、バクバクいっていました。目の前のモニターで、パイレーツ・オブ・カリビアンが流れています。長いような、短いような、3分間。時がやってきました。どうか痛くありませんように。そう願いながら僕は再び大きく口を開けると、先生の指が侵入して来ます。そして、何かをチェックするように二本の指の腹で歯をぐらぐらとやりました。
「では参ります!」
これは院長の口癖。何か始まる時、この言葉が発射されます。その指は口から出ることなく、そのまま大根を引っこ抜くように奥歯を引っ張っていきました。ミシミシとも、めりめりとも違う音が体の中から伝って来ます。
「え?このまま行っちゃう感じ?」
器具を使うこともなく、そのまま指で引き剥がされていきます。
「はい、終わりました」
親不知の時に比べると、意外とあっさり、かつ簡単に抜けてしまいました。
「ほら、見てください、骨が溶けちゃっていたんです」
手のひらに横たわっているのは、約30年間の勤務を終えた勇姿でした。
「持ち帰ります!」
屋根の上に投げるわけでも、縁の下に投げるわけでもありません。可愛らしい白いケースに入れられた奥歯をポケットに入れて、歯医者を後にする午後。お酒解禁になったら、お疲れ様会をしてあげよう。
2017年09月08日 13:45
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