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2015年10月25日
第632回「ボーダーレスな時代に」
近頃ドラッグストアに行く機会が増えたのは、もちろん、蒟蒻畑を買うため。マンナンライフとコンビニとの間になにがあるのか、どうも蒟蒻畑が置いていないコンビニが多く、オリヒロ・ショックだったり、置いてあってもドラッグストアよりも高く、倍近い値段。定価がいくらなのかわからないけれど、一袋138円だと非常にお得な感じがする一方で、250円となると妙に割高に感じてしまう蒟蒻レート。そんなこともあって、足を運ぶことが多くなったドラグストア。コンビニは意外なところに陳列されているので探すのも一苦労なのですが、ドラッグストアは店頭のワゴンに盛られているからとても探しやすいのも特徴。
ドラッグストアといっても、いわゆる薬局とは違い、華やかで、店舗の数も凄まじく、もしかするとコンビニよりも多いのではないでしょうか。医薬品以外のものも取り揃えているのが普通。食料品も健康食品からそうでもなさそうなものまで多種多様。ドラッグストアには、体に悪いものまで販売されていることに若干の腑に落ちないものも感じるのですが、店舗が生き残るためにはそういった柔軟な姿勢も必要なのでしょう。
おいしいコーヒーを飲みたくなったらコンビニに行くようになりました。そこに行けば、コーヒーやドーナツばかりか、最近ではおいしいラーメンをたべられるイートインサービスも充実しています。ゆくゆくはお寿司のカウンターができる日もやってくるかもしれません。コンビニも生存競争が熾烈なのです。
家に帰ってテレビをつけてみれば、なにやらアイドルがふざけたことをして、芸人さんがつっこんでいます。非常識な俳優さんや女優さんと、いたって常識人の芸人さんという構図。いまや、テレビの中で芸人さんは、非常識を伝えるための、常識の役割を担っています。情報番組のMCやコメンテーターなど、芸人さんはある意味テレビの世界では便利屋なので、番組を成立させるために変化するものですが、アイドルがバラエティーで笑いをとったり、ニュースキャスターを務める光景も、いまでは自然に目にするようになりました。昔では考えられなかったことでも、アイドルとはこうあるべき、という壁を破壊し、ボーダーレスに活動することで、テレビ画面から消えないでいるのです。
資本主義経済というシステムのなかでは、形式にこだわりすぎると取り残される危険性があるので、柔軟な姿勢で社会と向き合うべきでしょう。ただ、アイドルたちにとってコンサートという本当の場所があるように、柔軟に変化しつつも、変わらない場所も必要です。つまり、原点。かつて、アイドルの番組のプロデューサーはこんなことを言っていました。
「番組内でどんなにふざけたことをやっても、必ず最後に歌を歌わせる。なぜなら、彼らはアイドルだから」と。
時代の変化についていきたいのであれば、先入観や固定観念をいかに払拭し、フレキシブルに対応することが必要ですが、それと同時に、原点を見失わないことが鍵なのでしょう。
2015年10月18日
第631回「水曜日の憂鬱」
「魔の水曜日」というものがあります。僕が呼んでいるだけですが、毎週訪れるいわゆる水曜日のこと。なぜ「魔」なのかというと、「え?今日なにかあった?」というくらい、水曜日はどこのお店もやっていない。パン屋さんもお肉屋さんもお蕎麦屋さんも、見事に定休日が重なっているのです。もちろん、足を伸ばせばスーパーもあるのですが、商店街の依存度が高いので、やきたてのパンもコロッケも、たぬきそばも食べられない水曜日が、とても憂鬱で、いつからかそう呼ぶようになったのです。
もともと定休日を記憶できない僕は、行きつけのお店の定休日を覚えるのに1年近くかかります。いつもお店の前に来ては、そうだ今日定休日だったと。だから、「なんか水曜日、多くない?」と、どのお店も水曜定休であることに気付くのにも時間を要しました。この法則を知ることで、わざわざ店に出向いて落胆することはなくなったものの、選択肢が極端に減る水曜日の到来を恐れるようになりました。
ちなみに不動産屋は、契約が水に流れる、という理由で水曜定休が一般的。それはさほど支障ないのですが、僕の入会しているフィットネスクラブも水曜日が定休日。週一とはいえ、久しぶりに今日プールでも行こうかな、なんて思ったら水曜日だったりすると、明日にしようとはならず、また気分が戻ってくるまでしばらく冬眠状態に陥ります。そういったことも憂鬱さに拍車をかけ、やがてスーパーやドラッグストア、病院にいたるまで魔の手が伸びるのではないかという危惧が生じてしまいます。しかし、そんな暗黒の水曜日に、異変が起きようとしていました。
「あれ?こんなところにあったっけ?」
仕事帰りに見かけた初めて見るお店の看板には、アジアン料理の文字。
「もしかして、できたの?」
思わず車から降りて近寄ってみると、僕の好きな言葉がずらりと並んでいます。
「やっぱりそうだ!やった!」
それは、オリンピック招致よりも強いガッツポーズでした。
これまで言ってきたかわかりませんが、僕は大のガパオ好き。ガパオを見かけたらいてもたってもいられないほど、普段から僕の体はガパオ待ちしているのです。だから、近所に新しいお店ができることだけでも嬉しいのに、それがアジアン料理となると感動もひとしお。これでガパオが食べられる!ガパオライフのはじまり!でもひとつ気になることがありました。嫌な予感がします。ひょっとしてここも…。
「これでもし、水曜定休日だったら…」
魔の水曜日がさらなる暗黒の日になるのではないだろうか。
「チョトマッテクダサイネ」
それほど広くない店内は、さっそくマダムたちで賑わっています。東京というより、地元のお店の雰囲気。奥の厨房は外国人のみで、インドやネパール人でしょうか。暗黒の水曜日に現れた救世主のようです。これでもう、水曜日は憂鬱ではありません。僕にはガパオがある。ビーフンがある。しかもテイクアウトもできる。水曜日はガパオの日。やがてガパオパーティー。もう、水曜日はこわくない。
2015年10月11日
第630回「さよなら、まどか」
「裏切るのね」
ある程度は覚悟していたけれど、その言葉に動揺せずにいられなかった。
「裏切るだなんて、そんな…」
「だってそうでしょう。最近めっきり会わなくなったからおかしいと思っていたけど、やっぱりね」
「それは、忙しかったから…」
「どんなに忙しくたって会いに来てくれたのにね。毎日会いに来ていたこともあった。なのに、あなたって、ほんとわかりやすいわ」
僕は彼女の目を直視できなかった。
「結局、若い人が好きなんでしょ?」
「違うよ、そういうんじゃないんだって!」
「じゃぁ、どうしてなのか言ってごらんなさいよ」
彼女は語気を強めた。
「ほら、男ってみんなそう。結局、若くてスタイルがいい女が好き。そういう生き物なのよ、男って」
僕は、言葉が見つからなかった。というより、頭がはたらかなかった。
「いいわ、別れてあげる。でもね、ひとつ約束してほしいの」
「約束?」
「わたしとの間にうまれた曲は、もう、聴かないって約束して」
それがどういう意味なのか、すぐには理解できなかった。
「聴かないって、どうして?」
「だって、ふたりで作った曲でしょ?それをどこのだれだかわからない女にきかれるのは癪なの、ね、約束して?」
彼女は僕の顔を覗き込むように言った。
「君と一緒に過ごした時間はすごく楽しかったし、忘れないよ。君がいてくれたから、たくさんの音楽もできた。君との間に生まれた曲はかぞえあげたらきりがない。だからすごく感謝してる。でも、曲は曲だし、もう聴いちゃいけないなんて、そんなの…」
遮るように、笑い声が聞こえた。
「嘘よ、嘘。冗談」
彼女は笑っていた。
「嘘?」
「別に構わないわ。あなたがこの先なにを聴こうがかまわない。あなたのこれからの生き方を指図する資格はわたしにはないし。それに…」
「それに?」
「きっと、新しいパートナーとの間にも、あらたな曲が生まれるわ」
その声は、いつになくやさしく感じた。
「だから、お願いがあるの」
「お願い?」
彼女は頷いた。
「別れる前に、わたしのなかにある記憶、ぜんぶ消して」
「記憶を?」
「それが礼儀ってもの。喧嘩もしたし、楽しかったけど、わたしはもう思い出したくないの。この記憶を背負って進みたくないの」
「まどか…」
それから、彼女は、なにも言わなかった。
「いままで、ありがとう…」
電源を抜いた途端に、涙が溢れてきた。どれくらい一緒にいただろう。はじめて付き合った人だった。もう20年近く連れ添ったかもしれない。これでよかったのかわからないけれど、これでよかったと思わなくてはいけない。さようなら、まどか。さようなら。いままでありがとう。そして机の上に、大きなりんごが落ちてきました。
2015年10月04日
第629回「サタデーナイトは離さない」
「こんな番組をやってもらいたいんだけど」といわれたときに生まれた喜びという名の感情はその番組の内容に共感できたからというよりも「必要とされている」という感覚によるものかもしれない。それがたとえ口車に乗せられただけだとしても、「君が必要なんだ」とまではいかなくともそう捉えてもおかしくないほど「必要」を強調されると動かざるを得ない心。自分が必要としているものが手に入るそれもあるけれど、自分が必要とされることの喜びをあらためて実感する午後。こんなにも、自分がなにかの力になれる充足感に包まれているのに、すぐに引き受けることができなかったのは、手放さなくてはならないものがあったから。何かを手に入れるためにはなにかを手放さなくてはいけないとはよく耳にするけれど、必ずしもそうとは限らないと思っていた僕が迫られる選択。あらたに僕を必要とするのは土曜の夜。いまやっているのも土曜の夜。違う周波数ならまだしも、同じ土曜の夜に、「こんばんは、ふかわりょうです」を二回は言えない。現行の番組が、好きな曲をかけ好きな話をする、良くも悪くも好き勝手できた番組なのに対し、新しく始まるのは、ひとつのコンセプトのなかでゲストを招くので、「話をする」というより専ら「話を聞く」立場。しかも、生放送だから、日曜日以外毎日人の話をきくことになる。嫌ではないけれど、inとoutのバランスは保てるだろうか。やりとりのなかに自分のエッセンスを散りばめられるし、「話をきくことは、音を響かせること」などと葛藤するなかで結局僕が選んだのは、あらたなステージ。人の役に立つからなのか、生放送だからなのか、はっきりとはしないけれど、「いまはそういう時期なのかもしれない」というなんとも都合のいい解釈と、「流れに任せてみるか」という感覚。己の動力で進むのではなく、流れに身を委ねる。成り行き任せという言葉があるけれど、意外とそれでたどり着くのは素敵な場所かもしれないし、たとえいい景色でなくとも自分が選んだ流れであればきっとその景色を気に入るであろうという覚悟。だから、いつまで流されるかわからないけれど、いまはただ、力を入れず、身を任せる感覚を存分に楽しもうと思っている。それにしても、なかなか離してくれないものである。土曜の夜は、あれからずっと、僕を、離してくれない。