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2014年01月27日
第558回「魔法使いの憂鬱」
以前、「白衣の天使24時」という番組がありました。「警視庁24時」はいまでもたまに見かけますが、その看護師さんバージョン。真剣な表情で仕事をするナースたちに密着したドキュメントは、当時、お茶の間に多くの感動を与えました。命、そして生と死と向き合う姿はまさしく白衣の天使。たくさんの笑顔と涙、出会い、そして別れがありました。誰もいなくなったベッド。あんなに元気だった患者さん。しかし、感動のなかにも、ちょっとだけ、気になることはありました。欠かせない要素になっていた別れ。人気番組となり、それがシステムになってしまうと、やはり歪が生じてくるもの。亡くなりそうな患者さんをリサーチするのかもしれません。もし、僕が、番組のディレクターだったら、きっとそうするでしょう。「もうすぐ亡くなる患者との触れ合いを」と。もちろん、最初はそんな風じゃなかったはずです。単純に、ナース目線で切り取った病院のなかでの人間のかかわり、命の大切さ。そういったものを伝えたい。しかし、それがひとたびシリーズ化し、毎回涙が求められていたら。そうなると、ドキュメント性が薄まり、むしろドキュメントの体裁をなしたフィクションになる可能性は高い。演出家の編集次第でどうにでもなってしまいます。
障害者を扱った番組があります。かつて大ヒットしたドラマも、僕は、好きにはなれませんでした。なぜなら、感動を与える材料として「障害」を使用しているように感じてしまうから。障害者を利用していると、感じてしまうから。
もちろん、すべてに関してそのように感じるわけではありませんが、いつのまにか障害者のためという意識が薄まり、「健常者の感動のために障害者を利用して作られた番組」は、観る気になれません。
震災を扱った番組も、これまでたくさんありました。被災地と真摯に向き合い、強い使命感を持って制作されるものは、視聴者が被災地への想いを抱き続けることにもつながります。しかし、なかには被災者の気持ちよりも、番組の出来栄えを優先させてしまうケースもあるでしょう。視聴率に気をとられて、被災者よりも、お茶の間でごはんを食べながら観る人のために作ってしまうこともあるでしょう。津波の映像を眺めながらごはんを食べる人々に罪はありません。ただ、テレビとは、こういうものなのです。そもそも矛盾した世界なのです。この矛盾した世界に、公平性や正義を求めることは果たしてできるのでしょうか。
アイドルのリアクションのためにヘビを放ったり、犬を連れてロケをする番組、それこそ僕は、ペットショップ、動物園さえも苦手です。檻のなかにいる動物たちを見ていられない。でも、動物園を楽しんでいる人を軽蔑はしません。もちろん動物園や番組に対する抗議も。
昨今のテレビ業界は、どこか教育現場に似ている気がします。かつて、教師のいうことは絶対でした。しかし、不祥事が続いたことによってその権威を失うと同時に、親の発言権が強くなり、どんどん教師の立場が弱くなりました。テレビも、払拭しきれなかった傲慢さやエゴが視聴者に伝わり、ネットによる個人の発信力増加によって、どんどん立場が弱くなってしまいました。いま、もっとも肩身が狭い存在かもしれません。
「どうも、みんな魔法にかかってくれないんだ」
「きみの魔法にかからないのは、別の魔法にかかっているからじゃないか?」
もう、魔法が効かなくなってしまったのです。しかし、魔法がとけてしまったいまこそ、本当のはじまり。規制が多くなるとつまらなくなる、というのは大きな間違いで、言い訳にすぎません。規制がひとつもないことが一番つまらない状況。むしろこの肩身の狭い状況を利用すれば、かならず面白いもの、新しい味が生まれる。僕はそう信じています。テレビは、これからなのです。
第557回「許される人」
世の中には、許される者と、許されざる者がいます。許される者というのは、何をいっても、というわけではありませんが、たいていの人が言うと場の空気が崩壊するようなことでも、大目に見られる人のこと。嫌な印象を与えない人。そういう意味で、いま、もっとも許される者のひとりは、ふなっしーでしょう。
あの愛らしい表情もさることながら、妙に機敏な動きと、はしゃぎっぷり、どこか拍子抜けな声色は、見ていてまったく嫌な気持ちになりません。多少、強引なことをしていても、まわりが許すどころか、その現象を楽しんでくれます。しかし、どうでしょう。ひとたび、あの黄色の着ぐるみを脱いだとき。生身の人間が同様の言動をしたとき、人は、同様の印象を受けるでしょうか。きっと、そうはならずに、むしろ、嫌悪感が芽生えてしまうのではないでしょうか。ふなっしーならスカートめくりをしても洒落になる可能性は高いけれど、生身の人間ではまったく洒落にならない。同じことでもまったく印象は異なるのです。ここに見えない境界線が存在するわけですが、許されるかどうかは、ゆるキャラかどうか、ということではありません。
生身の人間でも「許される者」は存在します。国民的音楽番組の司会でミスを連発しても許される人。(許していない人もいるかもしれませんが。)歯に衣着せぬ物言いをしても問題人ならない人。それらは、社会的立場やイメージなどの影響が強く、どこでその免罪符を手に入れるのか、「許される者」には、表現可能な幅が広く、また、だれもがなれるわけではないのです。もちろん、何を言ってもいいわけではないのですが、「許される者」は、だれも言えないことを言える権利を持っているのです。
某欧州系の航空会社での対応はあまりに横柄だと言われていますが、同じ横柄な対応でも、それがアジア圏の場合だとどうでしょう。きっと、違う感情を抱くはずです。前者の横柄の向こうにはヴェルサイユ宮殿が見えるのに対し、後者のそれは、万里の長城ではなく、食材に段ボールを使用する人々、並ばない人々、というイメージが見えてしまうのです。同じ横柄な態度を、平等に扱えないのです。日本人の、金髪の人に対するイメージは、ペリーのときから変わっていないのかもしれません。
世の中は、実態よりも、イメージなるものがうごめいていて、それに大きく左右されます。人間は、理論的に正しいかどうかよりも、イメージのいいものを選択しやすい生き物。言葉よりも、言葉の持ち主。たしかにイメージにも要因がありますが、イメージに振り回されすぎている感も否めません。もしかすると、真実は「許されざる者」のなかにあるかもしれないのに、イメージで敗北してしまう。現代はとくに、イメージ社会といえるでしょう。
許される者と、許されざる者。今年、もっとも許されるのはだれなのでしょうか。
第556回「あなたはいま、人生の」
「あなたはいま、人生の何楽章ですか。こんばんは、ふかわりょうです」
深夜のラジオから流れてくる、隙間の多いピアノの調べ。曲の谷間にきこえてくるのは、羊飼いのことばたち。いつしかそんな番組をやりたいと思っているのですが、僕なら、その質問にどう答えるでしょう。生まれてから成人するまでが第1楽章なら、仕事をはじめてからが第2楽章。そして、服装もファッション性より機能性を重視するようになり、完全におっさんと化した現在こそ、ちょうど第3楽章のはじまりかもしれません。
ふかペディアによれば、5楽章からなる曲や1楽章だけのそれもあるそうで、必ずしも第4楽章を終楽章としなくてはならないわけではありません。協奏曲は3楽章、交響曲は4楽章で構成するのが一般的ですが、冒頭の質問は、人生を交響曲に例えるなら、ということになるのでしょう。
環境が先か、意識が先か。星の動きのように、キリのいいタイミングではじまった第3楽章。楽章が変わるということは、テンポや曲調、もちろん長さも異なります。分母が大きくなるのだから、同じ長さだとしても、同じ速度には感じません。
日常にどのような変化が生じたかといえば、これまではあまりなかった感情が芽生えていました。それは、グループを引っ張ってゆく人間でなければならないという意識。いままでまったくなかったわけではありませんが、ここ最近、僕の心のなかでかなりの存在感を示し始めています。それは、学級委員とか部長とかいうものとは異なるもの。自分が決断し、責任を持ち、関わっている人々を背負っていく感覚。月並みな表現になりますが、もう自分だけの体ではない、ということでしょうか。そこには、ファンのみなさんも含まれるわけですが。鶏口となるも、牛後となるなかれ。その言葉に牽引されて辿り着いた場所がいまの自分であり、ここから見える景色を大切にしたい。
これまでになかった音やメロディーを響かせるという意味では、この4月にはじまる舞台も、あらたな音色といえるでしょう。もちろん、2楽章のはじめの頃にも、お笑いの舞台は幾度も経験していますが、いわゆる、「舞台舞台した舞台」は、今回が初めて。一週間ほどの公演があって、この日は夜のみ、この日は昼と夜、みたいな表があって。
伊坂幸太郎作品。その素晴らしさは僕が語るまでもありません。絶妙にズレた愛すべき死神。音楽への執着。本当に素敵な作品に出会えました。この世界に飛び込んで、滲みでてきた色、ここでしか出せない色を、皆さんに楽しんでもらえたらと思います。また、本多劇場という由緒ある舞台。キャスト、スタッフはもちろん、お客様と一体となって、最高の空間を築きたいと思います。
最後に、初舞台ということ、役者ではないということ、不安や葛藤といったもやもやとしたものはすべて、「20周年」という言葉が突き破ってくれました。だからこそ、言葉ひとつひとつを大切に伝えていきたいと思います。life is music。それでは、ふかわりょうの第3楽章、どうぞごゆっくりご堪能ください。