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2011年12月25日
第470回「これからのこと、ぼくたちのこと」
新しい時代。新しい価値観。これからいったいなにが始まるのでしょう。僕たちはこれから、どうやって歩いてゆくのでしょう。2011年、この国は多くのことを学び、多くのことに気づきました。それまで見えなかったものが見えるようになりました。感じるようになりました。世界を見渡してみても、それはこの国だけではなく、至るところで同じような動きがありました。たしかに震災は大きな出来事でしたが、あくまでひとつのきっかけ。いずれにしても、世界は変わろうとしていたのです。新しい時代がはじまろうとしていたのです。
では具体的になにがはじまるのでしょう。未来のことは誰にもわかりません。予想だにしないことが起こるのが現実。しかし、いまわかることもあります。それは幸福を望む気持ち。どの時代も人々は幸せになることを望んでいる。だれもが平和を望んでいる。戦争だって、その先の豊かさを望んでいる。だれも不幸を目指して生きてはいない。人々は未来に、幸福を求めているのです。ただ、そのカタチは時代や人によって異なるもの。これからの時代、幸せはどんなカタチをしているのでしょう。
それはいま輝いている人を見ればわかります。どんな人が輝いていますか。まさに、強く生きている人ではないでしょうか。強く生きている人、それは本当の自分で生きている人。本当の自分、これに勝るものはありません。これこそ新しい時代の扉を開ける鍵。僕たちは、本当の自分に出会うため、歩きはじめるのです。
「本当の自分」
それはこれまであまり脚光を浴びなかった言葉。価値観。国、および社会を成熟させることが優先されたために、本当の自分を殺して生活しなければならない場合が多かった。人は社会に捧げてきたのです。しかし、社会が物質的に成熟したいま、求められるのは個人の成熟。心の成熟。自分自身を追及することに意識が向かうのです。
ではいったい、本当の自分はどこにいるのでしょう。どこで出会えるのでしょう。自分の中に存在しているからといって、家でじっとしていても本当の自分と出会うことはできません。自分なのに出会えない。とても不思議な話ですが、でも、そうなのです。いろんなことを経験して、感じて、本当の自分に出会うもの。悲しみや悔しさを味わったり、車窓をぼーっと眺める時間も大切です。そうして本当の自分に出会えたとき、心は充足感に満たされるのです。お金や物質では成し得なかった充足感が。場合によっては、社会における自分との相違点に気づくでしょう。これまでそれは、やむを得ないものでしたが、新しい時代がその溝を埋めてくれるのです。
人は常になにかの内側にいる、とかつて話しました。いろいろな情報によって人の思想や価値観は決められ、それは洗脳とは言わないまでも、本当の自分に上書きされて、自分を見失ってしまう。そういった無数の枠組みを突き破るためにいくら外へ飛び立っても抜け出すことができなかったのは、その方法が内側にあったから。唯一の方法が本当の自分に出会うことなのです。地位や名誉、世間体、そういったことで埋もれてしまった本当の自分。社会というフィルターで覆われてしまった本当の自分。出会った途端、社会に存在している無数の枠組みが見えてくるでしょう。そして、これまで社会を構築していた古い枠組みは、次から次へと解体してくのです。
社会のなかの自分、本当の自分。これからの社会は物質を満たすことではなく、心を満たす世界。自分を追及する場所。もちろん、自分らしさの前に、人間らしさというのを忘れてはいけません。自然の子供としてどうあるべきか。それを踏まえたうえで、自分の本当を見つける時代。これまでは、社会があって、そのための個人でした。これからは、個人があって、結果うまれる集合体としての社会。ここに大きな違いがあるのです。
民主主義社会というと聞こえはいいですが、皮肉なことに実際は、これほど非民主的なシステムはありませんでした。ある意味多数決の功罪。多数決によって切り捨てられていた少数派も尊重される時代。つまり、個としての価値と、個の集合である社会の価値のバランス。数の論理は民主的にはならなかったのです。
2011年。こんなにもブータンという言葉を耳にしたことはあったでしょうか。それはつまり時代のリーダーが変わりつつある証拠。世界が大きく変わろうとしているのです。物質を否定しているわけではありません。お金を否定しているわけでもありません。大切なことの順番が変わるのです。ローマ帝国が滅びるように。大航海時代が終わるように、世界が変わりつつあるのに、変わらないようにしている奴らがいるだけなのです。だから歪が生じるのです。資本主義社会に固執するから破綻するのです。たしかに、これから物質的な豊かさを求める人たちに、これからは心の豊かさだといっても聞く耳をもたないでしょう。日本人だって、かつてはそうだったのです。急に海外にいくようになって、きっと現地の人たちは思っていたはずです。「なんなんだ日本人は」と。だから大切なのは足並みを揃えることではなく、世界共通の価値観を掲げること。
「社会は個人を脅かしてはいけない、個人は社会を脅かしてはいけない」
これが新しい時代のルール。個人と社会の新しい関係。個人主義は利己主義ではありません。他者の自由を奪うことは言語道断。お互いが、そして社会が、個人の自由を、個人の価値観を尊重する時代。もちろん社会の秩序を乱してはいけないし、社会は個人を侵害してはいけない。自分の尺度で人生を歩むことができる時代。自由に自分を表現する時代。本当の自分に出会える時代。国と国が争おうが、貨幣の価値が落ちようが、それほど影響を受けない時代。お金に依存していたらもちろん受けますが、だれにも奪われないものを大切にして生きていれば、世の中、なにが起こっても動じる必要もありません。幸せは、だれかが決めるものではないのです。
これまでと、これからと。人類のしてきたことなんて所詮、部屋の壁紙を張り替えているだけ。本当は、なにも変わっていないのです。だから、自然界の一部として、人間らしく、自分らしく生きていればいいのです。
2011年12月04日
第469回「だから僕は走りたくなったんだ〜アイスランド一人旅2011〜」
最終話 この地球のどこかで
「あぁ、生き返った」
マラソンの疲れがすぅーっと抜けていくようでした。固まった体が温かいお湯でほぐされていきます。フーサヴィークでお腹を満たした旅人は、北東部への未練もなくミーヴァトンへと向かいました。これまで何回浸かったことでしょう。もしかすると日本のどの温泉よりも足を運んでいるかもしれません。まだ太陽は高い位置にいます。クリームソーダ色の水面に反射する光はまるで温泉に浸かっているよう。空と、水の揺れる音に囲まれた水色だけの世界。頭のなかでピラーが羊たちを追いかけています。あのほんの数時間の出来事はきっと一生輝いているのでしょう。明日は出発の前日、レイキャヴィクに戻らなければなりません。今日のこと、この数日間の出来事が勝手に蘇ってきます。
人と人との関わり合いに心が満たされるのはきっと旅の途中だからではありません。人は人に接することで幸福を感じられるはず。こんな簡単なことなのに、どうしてうまくいかないのでしょう。幸福を邪魔するものはいったいなんなのでしょう。見栄や虚栄、地位や名誉、権力、思想、言葉、いったいなにが僕たちを幸せから遠ざけるのでしょうか。
時間をかけて構築した社会。多数決によって出来上がった世界。得たものもあれば、失ったものもあります。人が人を好きになること。生きていることに感謝すること。本当の自分に出会えること。どんなに社会が発展しても、これらが満たされていなかったらそれはあるべきカタチではありません。どんなに富を得ても、生きていることや人との関わりに感謝できなければ、それは真の豊かさとは異なるもの。生の実感。本当の自分。これからはそういった価値観がより必要とされるはずなのに、文明はますます人間同士の関わりや心の栄養を奪っていきます。コミュニケーションは画面上で行われ、現実世界で人は、人と関わらなくても生活できると錯覚する。偏った幸福の尺度。これまでの、そして現在の社会のあり方が間違っているのではなく、あくまで通過点。社会は常に問題を抱え、世界はいつも未完成。あるべき姿を模索して進んでいくのです。これまでの人類はいわば、自然という親への長い長い反抗期。だから今後は、親孝行しなければなりません。親には到底かなわないということ、自然のなかに存在する生き物であること。人間のあるべき姿。自分の自然な姿。そこから社会を構築していくべきなのです。
「来年もまた、来るのかな」
今度は自転車で周るのもいいかもしれません。車で移動していたらまた走りたくなることでしょう。痛みを感じたくなるのでしょう。今度はどこでマラソン大会が開かれるのか。そしていつか、この島を自分の足で一周するのかもしれません。また訪れたとき、ピラーは覚えているだろうか。幸せはピラーの尻尾。幸せは、海の青さであり、空の青さであり、マシュマロの白さ。地球のどこかでこの色たちが存在していること。それがなにより僕を勇気づけてくれます。この島に出会っていなかったら、僕はまだ、本当の自分にも出会っていなかったかもしれません。僕にとってそれがたまたまアイスランドだったわけで、そういった場所は誰にでもあって、いま存在しなくてもやがて見つかることで。
「また来るね」
最終日の前日。今日はアークレイリからレイキャヴィクに戻り、いつも泊まっている宿に向かう日です。夜が明けたばかりの牧草地帯。かじかんだ手をあたためながら、朝食をとる羊たちを眺めています。ここはもう、遠い国ではありません。この島は僕のからだの中にはいっています。というより、僕のからだはもはや島の一部分になのでしょう。
「車で帰ろう」
太陽は今日も世界を照らしています。飛行機を使えば50分ほどのところを車で5時間かけて帰るのは、まだまだマシュマロたちを眺めていたいから。虹にも遭遇するかもしれません。燃料をたっぷり入れた車は、朝もやに包まれるアークレイリの街を抜けていきました。