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2011年05月22日

第447回「節電割引のススメ」

 電気の存在を発見した時代や人物についてはいくつか説がありますが、それが人間の生活に影響を与えるようになったのが電話や電灯あたりからだとして、まだ百数十年。フランクリンやベル、エジソンらは、もはや空気と同じくらい不可欠なものになったいまの世界をどんな風に思うのでしょうか。

 周知の通り、例年にも増して節電という言葉を耳にしている2011年、今回ほど切実で、その必要性を実感したことは、これまでなかったかもしれません。原子力に頼っていた夏でも強く呼びかけられていたのだから、今年はいままで以上に積極的に取り組まなくてはならないでしょう。 

 
それにしても、ここ数ヶ月における、企業や個人での節電に対する取り組みは凄まじく、夜の街や道路こそ暗くなったものの、それが節電目的であれ、風潮にかこつけた経費削減であれ、一丸となって節する姿勢には、やればできるというべきか、日本人の節約上手を証明したのではないでしょうか。やはり浪費よりも倹約のほうが得意な日本人は、果たして巡り来る季節を乗り切ることができるのか、途中で力尽きてしまうのか。それはまだだれもわかりませんが、ただ力任せに節電をしても持久力に足りず、かといって、しなかったら罰則というのも健全ではない気がします。一度洗濯機の便利さを知ってしまうとなかなか手洗いには戻りにくいように、一度電気に依存した生活をしてしまうと、容易には卒業できないものですが、節電は決して我慢を強いることでも強制することでもなく、理想をいえば、自然にたのしくやりたいもの。そこで提案するのが、今回の節電割引です。

 お店などで渡されるポイントカードの類は、購入額が大きければ大きいほど、多くのポイントや特典が付与されるものですが、電気の場合はその逆。購入しなければしないほどポイントが付与されるのです。たとえば電力の使用が少ない家庭には、そこから2割引の価格に値引きされたり、翌月分が2割引になったり。いわば、電力を使用しない人に対してなんらかのメリットを与えるべき、という価値観の提示なのです。

 
計画停電の際に、平等じゃないという声がどこかしこであがりましたが、万が一そういったことになれば、単に実行するのではなく、その対象になった地区には料金の割引など、なんらかのメリットがあって然るべきでしょう。

 
たかが割引といいますが、「安さ」や「お得」という言葉のパワーは計り知れません。それだけで、人々の気持ちは高揚し、それがどれだけのエネルギーになることか。これこそいま模索している代替エネルギーのひとつ。電力を生むことだけがエネルギーではありません。電力を使用しないこともエネルギーなのです。いずれにしても、これから訪れる長期の節電生活のモチベーションを保つには、単なる善意だけでは弱く、こういった「たのしさ」が必要なのです。

 
もちろん、これによって電力会社の収益は減少するでしょう。過去最大の赤字となったいま、すぐに割引は厳しいかもしれません。もちろん今月からといった次元ではなく、近い将来に向けてのプランであって、いろいろ落ち着いた段階での制度。とはいえいまは、電力会社の再生よりも、電気を無駄に使わない社会にすることが第一優先。収益はあとから考えればいいのだし、そもそも日本の電気料金はこれまでぼったくりに近いところもありました。いくら赤字だろうが、お金はどうにかなるもの。まずはこの国の消費電力を減らすこと、そのための手段として、節電割引制度を設けるべきなのです。ちなみに、インドネシアではこれに近いものが行われました。

 
また、節電割引のほかに、帰郷割引というのも提案します。これは、実家に戻る人に対して、なんらかの待遇を処するもの。なぜなら、東京の消費電力は他のそれに比べ膨大です。それはつまり、企業だけでなく人口が集中しているからで、この機会にこそ、かつてから指摘されている東京集中型の社会から、バランスよく人口が分布する社会にすることによって、電力の供給も安定して行うことができるのです。

 
ちなみに、原子力発電を維持するかどうかはいまでも意見のわかれるところでしょうが、電力に依存しすぎた社会は見直すべき、と言う点では一致するかもしれません。原子力発電の是非が問われ、代替エネルギーを模索しているあいだにも、節電は避けられないですし、仮に代替エネルギーが普及したとしても、この節電という価値観は、それが当たり前になるまで耳にするでしょう。

 
いままでは、お金をだせばいくらでも電気を使用できる世の中でした。お金をだせばいくらでも街にネオンサインの看板を設置できました。しかし、その時代は終焉を迎え、無駄に電力を使用しないこと、省エネルギーが再び脚光を浴びています。エコポイント制度では、結局、環境問題と経済の活性化という二つの目的があったため、矛盾が生じていました。そうではなく、「使う人が得をする時代」から「使わない人が得をする時代」へ。これがこれからの電気にまつわるスタンダードになるのです。

 
最後に、これまでは、発電事業は自由化されたものの、発電と送電が一体化しているために、競争原理が機能していない状況でした。もし発電と送電が分離され、電力会社がもっと増えて競争が活発化すれば、今後、(節電したうえで)料金が低下するだけでなく、これがどこの電力会社のものかわかるようになるかもしれません。施設によってはすでに東京電力以外の電力を使用している場所もありますが、ホテルや旅館、マンション、もちろん家庭単位で、電力会社を選ぶことになるのです。僕たちが電気を選ぶ時代。そしたらコシヒカリなどのように、電気のブランド化も起こるのでしょうか。その第一歩として、節電割引を提案したいと思います。



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2011年05月15日

第446回「便利と不便の相関関係」

 これまで再三に渡って言及してきましたが、その度に実態を掴めそうで掴めない、ドジョウのようにするっと抜けていく感覚がありました。ひとくちに「便利」といっても、いろんな「便利」があるわけで、そのすべてにおいて当てはまるように定義をするのは困難かもしれませんが、頭の中を整理するためにも、あらためてこの「便利」というものの実態に迫ってみたいと思います。

 
人は「便利」という言葉に魅了され、それがまるで素晴らしい絶対的な価値観であるかのように信じてきました。なぜだかそこには「豊かさ」という言葉もセットでついてきて、あたかも「便利さ」がないと「豊かさ」に繋がらないかのようなイメージがありました。「便利さ」という定規で社会が築かれる。しかしいま、その物差しで作られた社会が揺らいでいます。価値観が大きく変わり、当たり前であったことが当たり前ではなくなる。世の中、便利なだけではだめであること、豊かさとそれは必ずしもセットではないことを、人はおぼろげながら感じはじめたのです。

 
ヘリコプターで連れて行ってもらって眺める山頂からの景色と、自分の足で登ったときのそれとでは、同じ景色でも全く異なるでしょう。どちらも素晴らしい景色であっても、自らの足で時間をかけてたどり着いた世界のほうが美しく感じる。深く心に刻まれる。便利とはつまりこういうことで、楽をして目的を達成することなのです。

 
山頂からの眺めに限ったことではありません。普段の生活は、ある意味登山そのもの。道が平坦であろうと、スーツを着ていようと、目的地に向かうという意味ではどれも同じなのです。では、日常生活における登山のなかで、人はどれだけ楽をするのでしょうか。電車に乗ること、ケータイで話すこと。これら日常生活の「便利」も「楽をすること」のひとつですが、通勤の際に「電車って便利だなぁ」と噛み締めながらつり革を握っている人はいません。「携帯できるなんてすごいなぁ」とカバンに入れる人もいません。電車は時間通りに来て当たり前。ケータイやパソコンがあって当たり前。たくさんの当たり前に溺れて、それが便利であることさえ気付かず、結果、日常生活のどの瞬間を切り取っても、素晴らしい景色に出会うことができなくなってしまいました。

 
「便利」とは、楽をすること。楽をしたらその分、感動や実感は半減してしまう。この「便利さ」と「生きる実感」の反比例の関係性に人は気付かないといけません。また、「便利さ」は社会から人との関わりあいを奪っていきます。人が人を助けあうこと、こんな当たり前のことも当たり前でなくなってしまったのです。なのに世界は便利に染まっていく。それでは、生の実感にはつながらず、いつまでたっても充足感が得られないのです。ましてや人間は一度慣れてしまうとそれが「便利」だとも思わなくなり、空虚感だけが残ります。こうした「実感の欠如」や、「人との関わりの欠落」、空虚感が、自殺大国である要因のひとつとなっているのではないでしょうか。

 
もちろん、山の麓まで電車や車でいくことは、便利の恩恵を受けています。家から山の麓までも自分の足で行ったらまた違った感動が待っているでしょうが、その調子でいたら時間がいくらあっても足りません。なので、必ずしも「便利」や「楽をすること」が悪いわけではなく重要なのはバランス。「便利さ」と「不便さ」がほどよく共存している生活が望ましく、便利さに溺れた生活は、甘いものに溺れた病気と同じなのです。

 
バランスを保つためには、個人が節度を持つことも必要でしょう。昨今の「節電」という流れも一種の「不便」。「なんでもある」世界よりも「なにかが足りない」世界のほうが、きっと生きる実感は強いのです。すべてが足りてしまうと人に頼らなくなってしまう。頼っているのだけど、頼っていないかのような錯覚に陥ってしまう。だから、「なにかが足りない」ということが、社会にとって必要な要素なのです。しかし、意図的に「足りない社会」を構築するのは容易ではありません。モノが「ありすぎる社会」から「いつもあるとは限らない社会」へ。電力エネルギーの不足こそ、社会に「豊かさ」や「充足感」をもたらしてくれるのかもしれません。

 
そしてもうひとつ大事なのは、ビジョンを持つこと。いったいどんな社会を目指すのか。どういった社会を思い描くのか。そんなビジョンもないまま、効率の良さや利便性ばかりを追い求めるから、誤まった価値観が植えつけられ、社会に閉塞感が生まれていたのです。いったいどこに山頂があるかもわからず、ただヘリコプターに揺られている。素晴らしい景色を見出せないまま、責任とか権利とか、窮屈な言葉の重圧に自由を奪われ、社会の居心地が悪くなってしまう。そうならないためにも、未来を描くことも重要でしょう。

 
戦後間もない頃、町を走るバスは木炭を燃料にしていたため、ガス欠が頻繁に起こり、その度に乗客たちが降りてバスを皆で押したそうです。いまでは考えられないでしょう。運営の責任はどうだとか、補償はどうしてくれるんだとか、目くじらを立てる人が目立ちそうです。便利さに甘えている人。しかし、当時はそれが当たり前だったから、そこで文句を言う者はいなかった。故障することが当たり前だったから、ちょっとやそっとのことで人は動じなかったのです。

 
いったいなにが大切なのでしょう。会社に時間どおりに着くことも大切、動かなくなったバスを皆で助けあって押すことも大切。でも最近まで社会は、時間通りにいくために、人との関わりあいを減らし、効率の良さばかりが重んじられてきました。人間らしい部分は「駄目な部分」として切り捨てられ、機械のような正確さが求められるようになりました。世の中はこうやって窮屈になっていったのです。人間はいつのまにか、完璧さが求められ、同時に求めるようになる。時間通り、失敗をしない。でも、大切なのは、時間通りに動くことよりも、時間通りに動かなかったときに冷静に対処すること。失敗に対してどう動くか。失敗のない社会なんて人間の社会ではない。便利さに溺れて、人間の本質、人間らしさを見失ってしまったのです。

 
もちろん便利さも大切です。しかし、社会がすべてそれに染まってしまったら、人は人であることを忘れ、すべてうまくいかないと腹を立てる器の小さな人間になってしまいます。便利さを追及した結果、家族で過ごす時間が減ったり、日常の笑顔が減ったら、社会として本末転倒なのです。人が人らしくいられる社会。テレビを見てではなく、自然に笑顔になれる社会。これが一番優先されるべきこと。「人間主義」の時代。社会主義、資本主義。それらは決して駄目だったわけではありません。あくまで通過点。人間が人間らしくあること、このものさしで社会を構築していかないといけないのです。そのために一度「便利」というものを見直して、過剰なもの、「人間らしさを奪う便利さ」を積極的に減らしていかないといけないのです。そういう意味では多少の不便、不都合さはむしろ歓迎すべきものなのかもしれません。

 
人間らしさ、本当の豊かさ、これらも曖昧なもので、人によってイメージするものは異なるかもしれません。しかし、ここへきて、便利さがもはやそれほど重大でない段階に来ていることに気付いたはずです。便利さのおかげで得たもの、便利さのかげで失ったもの。でも失ったものこそ、人間らしさだったり、これからの社会に必要なもの。便利さよりも大切な価値観、「人間らしさ」がこれからの社会を構築するための、一番大切な尺度になるのでしょう。





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