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2009年05月31日
第363回「さよなら親切の国〜step into the sunshine〜」
第九話 心のままに
「生ハムが食べたい…」
それは青い空でも白い壁でも、広大な平原でもありませんでした。僕を呼び寄せるもの、それはあの生ハムのサンドウィッチでした。どうしてもあの味とあの厚み、あの光沢が忘れられなかった僕は、置き忘れた心を取りに行くという名目で、モンサラーシュの村に寄ることにしました。東京から大阪に行く途中に名古屋で手羽先を食べるみたいなことでしょうか。実際はそんな都合よく並んでいませんが。
「ボアター」
おととい来たばかりなのでお店の人も覚えているかもしれない、そう思って扉を開けた日本人を迎えたのはこの前とは別の女性。とても明るくテンションがやや高めでポルトガル版の平野レミさんといった感じです。まったく英語がわからないらしく、というよりも自らそう決め付けているようで、自分がかなづちだと思いこんでいる人がものすごく浅いプールで溺れて騒ぐように、英語を耳にすると拒絶反応を起こすように軽快に笑ってごまかします。
「もしかして、生ハム苦手でした?」
そんな笑顔が印象的な彼女が深刻な顔をしてテラスにやってきました。あとで存分に味わおうと生ハムをパンから取り出していたからです。
「そうじゃないんです、好きだからなんです」
自分で生ハムのサンドウィッチを注文して生ハムが嫌いなわけありません。誤解のないのように説明すると、理解したのかしていないのか、深刻な表情の余韻もなく瞬時にレミさんテンションに切り替わって軽快に笑いだしました。そんな彼女の笑い声も風にのって平原で草を食む羊たちの耳に届いているかもしれません。
「いないか…」
お腹は満たされたものの、まだ満たされていない部分がありました。心のどこかで探しています。でもどこにも姿はありません。やはり筋書き通りにはいかないものです。いまデジカメに映っている猫は本当に実在するのだろうか、頭の中を鳴き声がリフレインしています。後ろ髪を引かれる思いで僕は村をあとにしました。
二度目のモンサラーシュを出るとここからはひたすら南下の旅。デッキの中で「step into the sunshine」の文字が回転しています。今日も気持ちのよい青空が広がり、仮に明日大雨だとしてももはや勝ち越しているという余裕さえありました。向かうは海外進出の拠点となった場所、サグレスです。
ポルトガルの海外進出は、世界史を選択した人なら聞いたことあるかもしないエンリケ航海王子によって積極的になされました。いまのハンカチ王子だとかハニカミ王子の類の最初の人かもしれません。彼は実際に王子でしたが。その後、一度は耳にした事があるでしょう、バスコ・ダ・ガマによって勢力が拡大され、数年のうちに新大陸のブラジルを併合、インドのゴアを占領、マラッカ海峡を掌握するなどたちまちその活動は地球規模になり、世界中の富がポルトガルに集まるようになりました。もはや世界征服さえ夢じゃなくなったのです。しかし、この時代の富はリスボンの資産家の私腹を肥え太らせたものの、地方農村は荒廃し、海外依存の体質に国内産業は育たず、ポルトガルの絶頂期は長くは続かなくなるのです。どこかの国と似ている部分もありますね。
「ここから航海にでたのか」
五百年以上前に人々が世界進出に希望を燃やしていた場所に僕は立っていました。あまりの風の強さに海に落ちてしまいそうです。要塞なので砲台もあるその場所は、海流の違いなのかたまたまなのか、アイスランドのそれよりもはるかに風が激しく、あの穏やかな雰囲気とは違った地の果てがありました。共通しているのは、鳥たちが自由に飛びまわっていることでしょうか。
「ここで見たら最高だろうな」
見渡す限りの大西洋。濃い青と薄い青の境界線に消える夕日はきっと一生忘れられないものになるでしょう。それが見たくて数百キロの道のりをやってきたようなものです。太陽との距離もさらに近づくかもしれません。明日リスボンに戻る前に最高の夕日を見よう、そう思って海沿いのホテルに向かおうとしたときでした。
「あれ…」
どうもうまく発進しません。
「おかしいなぁ…」
車ではありません、気持ちが動こうとしないのです。ホテルに向かおうとすると心が違うと言い、心のナビが警告するたびに胸が痛くなるのです。夕日を求めているのは頭の中だけで、どうやら心は違うものを求めているようでした。
「猫に会いたい…」
自分でもびっくりしました。まさかそんな言葉が飛び出すとは。でも心はそう叫んでいます。ホテルに向かうのをとりあえずやめた僕は、進路を北に設定しなおしました。カップルとかグループだったら大顰蹙です。一人旅だからできることでしょう。そうでなかったら当然我慢しますが。
「もう知らないからな」
太陽が、北上する車を照らしていました。数時間前にランチを食べたあの村に向かっています。平原でも白い壁でも生ハムでもなく、あの猫に会うために遥か300キロ以上の道のりを往復するのです。女性にだってそんなことした記憶はありません。でもリスボンに戻る前にもう一度会いたかったのです。あのとき一緒に過ごしたあの猫に。
「間に合うかな…」
どうせ戻るならということで選択した違う道はポルトガルの西側。森林の向こうにはときおり海が見え、巨大な風車が山の中に点在しています。途中、小さな白い建物の集落に魅了されながら北上しているうちにゆっくりと太陽が降りてきました。日が落ちてしまうと真っ暗な道を走らなければなりません。森の向こう側を走る太陽と追いかけっこをするように、というよりもむしろあの村に到着するまで見守ってくれているようにも感じられます。ただ、あの村に戻ったところで会える保障はありません。ホテルに泊まれるかもわかりません。でも、心は誰の言うことも聞かなかったのです。
「きっと会える…」
真っ暗な道を車のヘッドライトが照らしています。いまなら会える気がする、あの猫が呼んでいる、そんな風にすら感じます。オレンジ色の明かりが見えてきました。
「いない…」
単なる気のせいでした。人間の勝手な思い込みでした。猫の姿などどこにもありません。石畳に突き刺さったようにひとりの青年が立っています。時計台の鐘の音が石畳の隙間に浸み込んでいきました。
2009年05月24日
第362回「さよなら親切の国〜step into the sunshine〜」
第八話 石の村
「この部屋が一番眺めがいいんですよ」
そういって僕に案内してくれたのは緑色の窓枠が並んだかわいらしい部屋。艶やかなものではなく落ち着いたトーンのフローリングにチェックのシートで覆われたベッドが二つ、それぞれの横にランプが置かれています。チェックインしたのはポサーダという国営の宿泊施設。現在は国の重要文化財などを利用したものや自然景勝地などに建てられたものなどあわせて44箇所あるそうで手頃な料金というのもあり旅行者に人気のようです。こういうといわゆる田舎ののどかな村にいるようですが、たしかにのどかではあるもののこの場所は普通の村とは様子が異なりました。
「すごいな、これ…」
それは奇妙な光景でした。空から降ってきたかのように山の中腹でごろごろと転がる巨大な岩々の間に家があります。木製の扉と岩の間に石が敷き詰められ、まるで家が岩にしがみついているようです。マルヴァオンを出発して3時間、スペインの誘惑を振り切り途中に現れる小さな町でコーラを飲みながらようやく辿り着いたのは、巨大な岩とともに暮らす村でした。なんだか絵本の中にいるようです。それぞれ形状の異なる岩にくっついて家が建ち並ぶモンサントは、まさに自然と寄り添う暮らしを体現しています。かといって村の人が原始人のような姿をしているかといえばそうではありません。
「ボアター」
家の戸口で黒い服を着たおばあさんが座っています。ここで一日中編み物をしているのか、作ったのであろう人形を横に並べて黙々と手を動かしています。そういった女性の姿が見られるこの村にもおしゃべりする用の石段があり、おばちゃんたちが電車のシートのように横一列に並んで座っています。いったいどんなことを話しているのでしょうか。また、この村には売店もあれば薬局やレストラン、カフェもあります。村の入り口には教会もあり、おそらく最初に教会の場所を決めてからそこが起点となって村が形成されるのでしょう。
「ここで泥警とかやったら楽しいだろうな」
大きな岩をくぐっていると山の頂上に石で積まれた城壁があらわれました。軍事的な目的で建てられたのか場所によっては砲台が突き出したその城壁からは岩と岩の隙間を埋める家々の赤茶色の屋根が見えます。
「この音は…」
どこからか聞き覚えのある音がします。音のするほうに吸い寄せられるとその正体がわかりました。のどかな鐘の音、それは羊たちの群れでした。群れといっても大規模ではなく十数頭、ヤギや子羊たちが草を食んでいます。近づくと2匹の犬がものすごい勢いでやってきました。「吠えなくていいんだよ」というようにおじいさんが顔を出すと犬たちはぴたっとおとなしくなります。羊飼いのおじいさん。彼のまわりで羊やヤギたちが鐘を鳴らす光景はまるで演奏会をしているよう。この村では毎日この音色が聞こえるのでしょう。
建物の隙間からオレンジ色の光が差しこんでいました。日が落ちてくると、岩と岩の間をすり抜けるように夕日が通過しています。光を感じるひととき。この時間のモンサントは、ちょっとした隙間から太陽と目が合います。岩と岩の間に夕日が沈んでいく姿は、地球の外にあるはずの太陽がこの村の中にはいっていくようでした。
「ここにしよう」
平原を見下ろせる時計台の麓に腰を降ろし、地平線に向かう夕日を眺めていました。視界を遮るものはなにもありません。風にのって鐘の音が聞こえてくると、遠くにおじいさんのあとを追って家に帰っていく羊たちや犬たちの姿が岩の間に見えました。自然と寄り添う生活。地平線との距離が徐々に狭まりお風呂にはいるように夕日がゆっくりと体を沈めていきます。そして完全に太陽が見えなくなると空は赤く染まり、それが青とまざりあってできた紫色がだんだん濃くなりやがて暗くなっていきます。まるで生きているかのような光の変化を毎日見られる場所。日が昇り、太陽が沈んでいく、それだけでこの村には充分すぎるほどの表情があります。自然と寄り添う暮らしは多くを求める必要はないのかもしれません。
「お口にあいますか?」
山の上の城壁がライトアップされています。石の村にもオレンジ色の暖かい街灯が燈り、夜のモンサントはより神秘的な雰囲気に包まれます。やはり観光シーズンは夏なのか、宿泊者は僕だけのようです。いずれにしてもリゾート地ではないので観光客でごったがえすことはなさそうですが。ホテルの人が運んでくれたのはパンとチーズとサラダとスープと炒め物。微妙に予想と違うものが登場したりしますがそれも旅の醍醐味。食後には苺のパフェとコーヒーをいただきました。また、昨日の二の舞にならないように深夜の出入りの仕方を尋ねると裏口の鍵を渡してくれました。これで途方にくれる心配はありません。
「明日はやいので…」
先にチェックアウトしてもいいか尋ねてみました。翌日、遠出をする可能性があったから明け方出発してもいいように先に会計だけ済ませようと思ったのです。すると彼女は僕の出発したい時刻に合わせて朝食も用意するとのことで、日本からやってきた気まぐれな旅人は結果的に申し訳ないことをしてしまったと思いながらも彼女の言葉に甘えることにしました。彼女にとって普通のことが彼にとってはとても親切に感じられました。
「ボンディア」
結局、裏口の鍵を使用することはなく、朝を迎えました。部屋をでるとコーヒーの香りと朝食の支度をする音が階段をのぼってきます。甘いパンとコーヒー。宿泊客一人のための朝食は忘れられない味になりました。
「日本人は来ますか?」
という質問に何度もうなずいて見せてくれたサイン帳にはほとんど外国語で埋められる中に少しだけ日本語が混じっていました。日本でポピュラーではないものの、やはり来る人は来るのです。そしてサイン帳の前人未踏の部分が日本語によって開拓されました。
「ムイトオブリガード」
チェックアウトして荷物を車に積んだ僕はもういちど岩山を駆けあがりました。岩の上で息を切らしながら太陽を待ちます。そしてゆっくり空の端っこがめくれてきました。数時間前に反対側の地平線に消えていったものがいま反対側の地平線からのぼってきています。こんなにも素晴らしいことをなぜいままで気付かなかったのでしょう。これまで当たり前に思っていたことが当たり前に思えません。太陽が愛おしく感じます。
「また来れるかな」
まだ温まる前の村にエンジンの音が響きました。果たしてまた来ることができるだろうか、またあの人たちに会うことができるだろうか。ひとつの村を出るたびにいつもせつなくが生まれます。モンサントにも心を残し、体だけが離れていきました。今日はいままで以上の長距離ドライブ。ポルトガルの一番下、サグレスというところにいく予定です。あくまで予定であって疲れたらいつでも変更するつもりです。でもその前に寄らなければならないところがありました。
2009年05月17日
第361回「さよなら親切の国〜step into the sunshine〜」
第七話 セニョールの誘惑
壁にかけられた絵画のように中庭に広がるレモンの木が窓越しに見えるダイニングルームで僕とイギリス人夫婦の3人が朝食をとっていました。ふたりは数週間のんびりポルトガルを旅しているそうで、乗り継ぎでならイギリスに足を踏み入れたことのある僕と同じように旦那さんは日本を訪れたことがあるそうです。学校の先生をしている奥様は、日本の漫画が生徒たちの間で人気だと教えてくれました。それにしてもいつも旅先で出会うのはこういった熟年の夫婦。カリフォルニア大学の旅行サークルでーす、わー!みたいな感じの人たちとはまず遭遇しません。僕はいつも年配の方たちが好むような場所を訪れているのでしょうか。
「ごちそうさまでした」
24時間前に摂ったものに比べたらとても質素な朝食です。パンとジャムとチーズにコーヒー。なんの変哲もない普通のパンがとてもおいしく感じられるのはこの村のせいでしょうか。日常で目にするものと食するものは無関係ではなさそうです。そういえばヨーロッパはどの国にいってもパンに裏切られたことはありません。日本人にとってのお米と同じなのでしょう。
部屋に戻った青年は頭に焼き付けるようにベランダからの景色を眺めていました。もう移動せずにここでずっと滞在してもいい、それくらい激しく気に入りましたが、ここだけですべてを判断するのよくありません。ほかにもきっと素晴らしい場所はあるはずです。離れたくない気持ちを抑えこむように荷物を詰めると、とても快適だったことそしてまたいつか必ず来ることを伝え、ホテルを出ました。
「やっぱりいないか…」
スーツケースを転がしながらまわりをキョロキョロしていました。また現れるんじゃないか、心のどこかで探しています。教会前の広場、照明の前、どこにもその姿はありません。小さな村とはいえそううまくいかないものです。「青年と猫」はやはり夢だったのでしょうか。時計台の鐘の音が時を知らせると、まるで心を残して肉体だけが離れていくように、モンサラーシュをあとにしました。
今日の目的地はモンサントという村です。またしても「モン」です。フランス語で考えれば「私の」という意味ですがどうなのでしょう。モンサントまでは距離にして大体250キロ。あくまで予定であって疲れたら無理はしないつもりですが、この気持ちよい空ならどこまでも走れる気がします。太陽を道連れに、車はオリーブの道を走り抜けていきました。
ちなみに今回の旅にも当然オリジナルコンピCDはあります。アイスランドのときはせっかく作ったのに忘れるわ財布をなくすわで散々でしたがいまのところそういった紛失事件は報告されていません。そればかりか、なにかあったときにいつでもパソコンで焼けるよう白紙のCDRも2、3枚持ってきていました。人間は学習する生き物です。ただ、この前訪れたアイスランドは2回目だったので風景を思い出しながら曲を選べたものの、今回ははじめてのポルトガル。見知らぬ地に合う曲を選ぶというのはなかなか容易ではありません。だからといってDJ歴9年にしてここでの選曲ミスは許されません。そうして、ガイドブックの言葉を頼りに作成した世界で唯一のコンピレーションアルバムは、これまでのところまったく申し分のない出来で、ポルトガル在住30年かと思わせるほどその田舎の空気に合っていました。その証拠にというと大袈裟ですが、今回作成したCDRの一曲目でありアルバムのタイトルはstep into the sunshine。前回はnorthern lights(オーロラ)で最終日にオーロラに出会いましたが、今回もそのタイトルのとおり、日を追うごとに太陽との距離を縮めています。不思議な因果関係です。まさかこんなにも太陽を近くに感じるなんて。アイスランドが地球ならポルトガルは太陽に対する親近感。その太陽を助手席に乗せて走る僕を、実はあるものが誘惑していました。それは高速に乗ったときからずっとかもしれません。ある意味国家レベルの策略ともとれます。モンサントへ向う僕の気持ちを揺るがすもの、それはスペインです。
「どうしよう…」
アレンテージョ地方のなかでもスペインの国境近くにいるため、しかもポルトガル自体そんなに大きくないので常に標識にはエスパーニャという文字が表示されています。いつでもその気になれば車に乗ったままスペインまで足をのばすことができるのです。アイスランド、そして日本にいるときは島国なので運転していて他国の名前が表示されることはありません。陸続きで他国と隣接しているからこそ経験できること。だからエスパーニャの文字を見るたびに心がぐらつくのです。現に、そんなことも想定してスペインのガイドブックも持参していました。バルセロナはさすがに遠いものの、マドリッドやセビリヤあたりなら寄れなくもありません。それこそ大好きな「ミツバチのささやき」の国。「マルメロの陽光」の国。一石二鳥のような気もします。でも、一日に映画を2本見るとそれぞれの印象が薄れてしまうのと同じように、一回の旅でふたつの世界を見たらそれぞれが薄まってしまう可能性もあります。男は葛藤していました。下手にスペインのガイドブックなんて持ってくるからこうなるのです。
「よし!とりあえず昼食にしよう!」
ということで立ち寄った村は「鷲の巣」と呼ばれる天上の村、マルヴァオンです。標高865mの岩山の頂に灰色の城壁で囲まれた村がちょこんと乗っかっている様子は下から見上げるとたしかに「鷲の巣」という言葉がしっくりきます。外観こそ不思議な光景ですが城壁からの景色は素晴らしく、その上に立って遠くの山々を見渡すことができます。ここで生活するとどんな気分なのだろう、そんなことを思いながら見晴らしのよいレストランにはいると紳士がテーブルまで案内してくれました。ちなみに係りの人を呼ぶとき、日本語なら「すみません」、英語なら「excuse me」ですが、ポルトガルだとこうなります。
「セニョール!」
最初はとても抵抗があったこの言葉もこの段階になるともう自然に発しています。相手が男性なら「セニョール」、女性なら「セニョーラ」。日本でもなじみのある「セニョリータ」はスペイン語の未婚女性に対する言葉です。
ポルトガルの料理といってもあまりピンとこないでしょう。スペイン料理や「ぽるとがる」というパンやさんなら街中で見かけることはあってもポルトガル料理の店は見たことありません。実際海沿いなので魚介類が豊富で干しダラやイワシ、タコなどが大衆的な素材のようですが、料理名となると日本ではほとんど知られていません。ただ、味は穏やかで、注文したものの食べられない、ということはなさそうです。
「見晴らしがいいでしょう、あの山はスペインなんですよ」
そう言ってお水をグラスに注ぐセニョールが一瞬スペインのスパイのように見えました。観光収入を目論んだスペインからの客引きともとれるセニョールの言葉。「お兄さん、いい子いますよ」に近いものを感じます。スペインがもうすぐそこにある、というかもう見えている、それはどの標識の文字よりも説得力と強い引力を持っていました。
「あんな近くに…」
車で国境を越える感じも味わってみたい、でもスペインに行くならもっと時間をかけたいしポルトガルも中途半端にしたくない、そんなモヤモヤした気分を洗い流すようにグラスの水が一気にのどを通過していきました。
「よし!とりあえず…」
会計をすることにしました。店をでて城壁の上を歩きながら異国の地を眺めます。スペインに行く場合、行かない場合、車のボンネットの上で地図を広げる青年を太陽が見守っていました。
2009年05月10日
第360回「さよなら親切の国〜step into the sunshine〜」
第六話 そして僕は途方に暮れる
「ちょっと散歩でもしてこよう」
目が覚めると夜中の3時。日の出を見ようと思っていたものの、それにしてもまだ時間があるので夜のモンサラーシュを散策することにしました。
外にでると昼間のあたたかな空気が嘘のようにそれまでどこに隠れていたのか冷たい風が石畳の上を駆け抜けていきます。さすがにTシャツではいられません。石段に座るおじいちゃんの姿もなく人の気配すらしないものの、鳥たちの声は昼間と同じように響いていました。オレンジ色の街灯がやさしく照らす白い壁やぼんやり浮かびあがる教会や時計台。昼間散々撮影していてもレンズを向けずにはいられません。
村の中もさることながら外からの眺めも素晴らしく、村全体をあたためるように城壁がライトアップされ、山の上がオレンジ色に輝いています。ヨーロッパの人たちに共通していることのひとつは光の使い方が上手なことでしょう。古い建物を建て替えず光をあてることでさらなる魅力を引き出す。あてるというよりやさしく包みこんだ光は、商業的なものとは違い、見る者の心をも包み込むようです。冷たい風の中で温もりを感じる、そんなロマンティックな世界に浸りながら一時間ほど辺りを散策してきた僕を待っていたのは厳しい現実でした。
「え、うそ…」
体が一瞬にして固まりました。
「鍵を開けるときはね、ここに手をいれて…」
と笑顔で僕に玄関の開け方を説明してくれたのは昼のこと。自動に鍵がかかる扉を外から開けるために手をいれる小窓がまったく動きません。さすがにこの時間は閉めてしまうのでしょう。そのことに気付かず外に出てしまった僕は、玄関のベルを鳴らして熟睡中の彼女を叩き起こし眠そうな表情でここまで来てもらわない限りこの中にはいることができません。時計をみるとまだ4時。朝食が8時だから起きるのは6時半としてもあと2時間半。村をどんなにゆっくりまわっても30分。しかもこういうときに限ってオーディオプレイヤーを持っていません。突如うまれたこの空白の時間をどう過ごしたらいいのか。相変わらず冷たい風が通り抜けていきます。凍死とはいかないまでも常に風邪気味の僕にとって発熱の条件としては充分。でも彼女に迷惑を掛けたくない。こうして僕は、途方に暮れるinポルトガルを実現することになります。海外に行くと必ずこうです。もはや名人芸の域かもしれません。夜が明けるのを待っていたら途方に暮れてしまった、頭の中で勝手に言語化される状況に若干の苛立ちをおぼえながら歩いている僕の目にあるものが飛び込んできました。
「これはいいかもしれない」
石段に埋もれる照明でした。城壁を照らすオレンジ色がものすごく暖かそうに見えます。光に吸い込まれるように近づいた僕は両手をかざすとかじかんだ部分が徐々に解凍されそこから熱が全身に浸み込んでいきました。
「助かった…」
この照明を暖房器具として利用したのは世界でたったひとりかもしれません。まるで電気ストーブにかじりつくように照明に密着させる僕の影が村を襲う巨人のように城壁に投影されています。しかし、こうして暖はとれたものの、あと2時間この体勢でずっといるのかと思うと気が重くなります。照明に集まった小さな虫たちが気にならないわけありません。彼らにとっても大事な照明です。まだまだ夜は長そうだなと深いため息をもらしたとき、背後に気配を感じました。
「あ・・・」
猫でした。一匹の猫がまるで僕にどうしたのとでも話しかけるようにこちらを見ています。
「どした?」
手を伸ばすと怖がって逃げてしまいました。でも遠くにはいかず、少し離れたところで見ています。もしかしたらあの猫もここで温まろうとしているのかもしれない、そう思ってその場を離れてみると、猫は様子を窺いながらゆっくりと照明のほうにやってきてその真ん前でちょこんと腰を地面につけました。オレンジ色の光を全身で浴びています。暖房として利用していたのはもしかすると僕が最初じゃなかったのかもしれません。
「大丈夫、なにもしないからね」
あまりに愛くるしいその姿にじっとしていられません。普段から近所のノラ猫に対してエサをあげずに仲良くなる訓練をしていた僕は、なにもない手のひらを広げて全力で善人であることをアピールしながらそっと猫との距離を縮めようとしました。いつも寸前まではいけるもののあと少しのところで逃げられてしまうので大きな期待はしませんでした。しかし。
「え?」
僕の指が彼女の体に触れていました。普段の訓練が功を奏したのか、最初は体をビクっとさせたものの逃げ出そうとせず、足元で体を擦り付けては僕の言葉に返事をするように声もだします。
「そうかそうか、寒かったか」
城壁のスクリーンには「老人と海」ならぬ「青年と猫」が上映されていました。ずっと課題だった食べものを与えずに仲良くなることをまさか異国の地ポルトガルの田舎で達成できるとは。それからというもの、僕が歩くと猫もついてくるようになりました。なにもしなくても僕のあとを追ってきます。僕がとまれば猫もとまる、僕が歩けば猫も歩く。まるで犬の散歩のように石畳の上を一緒に歩いていました。今日はじめて会ったふたりとは思えません。教会の前の広場の石段に腰掛けると彼女は勝手にごろんごろんと仰向けになって遊んでいます。夢を見ているのでしょうか。いつのまにか紺色が水で薄められるように真っ暗だった空が青みを帯びてきました。
「じゃぁね」
結局2時間くらい遊んでいたのでしょう。6時を過ぎたのでもう大丈夫かとベルをちょんと鳴らすとすぐにホテルの人はでてきてくれました。おそらく寝起きな彼女はとくべつ迷惑そうな顔はせず部屋に戻っていきます。玄関の前でちょこんと座る猫をこのまま部屋に連れていきたい気持ちをおさえ、ゆっくり扉を閉めました。この小さな村ならまた会えるかもしれません。そうしてモンサラーシュに朝が訪れました。
2009年05月03日
第359回「さよなら親切の国〜step into the sunshine〜」
第五話 モンサラーシュ
白い壁に挟まれた細い道を抜けると、ちょっとした広場にでました。それを囲んで白い建物が並び、空に十字架をかけるように教会が建っています。人の姿はなく、ただ鳥のさえずりと自分の呼吸の音だけが聞こえます。タイムスリップしたかのようで時間がとまっているようで、果たしていま感じている時間はさっきまで感じていた時間と同じものなのでしょうか。水色でペイントしてあるアライオロスの村とは違ってただ真っ白な建物とその隙間を埋める空の色はまるで雲の上を歩いているような感覚にさせます。教会の前を抜けるとようやく別の色を見つけました。壁の前で黒い服を着たおじいさんが置物のように座っています。
「ボアター」
声をかけると小さく返事が聞こえてきました。ベレー帽をちょこんと頭に載せるおじいさんの手を支える杖の先が石畳の隙間にちょうど収まっています。そして再び白い壁が続くとまた同じようなおじいさんが現れては白い壁が続き、まるで等間隔におじいさんが配置されているようです。ひとりでぼーっとしていたりふたりでおしゃべりしていたり。この村の人たちはおしゃべりが好きなのでしょうか、いろんなところでそういった光景を目にします。そのためなのか、白い建物にはたいてい腰掛けるのにちょうどいい石段があって、もしかしたらここで一日を過ごすのかもしれません。大声ではなく声を発しているのかわからないくらい静かに。ここでは人よりも鳥たちの声のほうが目立っています。きっと鳥たちもおしゃべりをしているのでしょう。
どれも同じ建物のようでよく見ると中で雑貨屋さんだったり毛織物屋さんだったり小さなお店があるのですが、そんな中で一軒のレストランを見つけました。白い壁に茶色い木の扉。それだけで何回もシャッターを押したくなります。扉横のメニュー表を見てはじめてレストランだとわかるもののやっているかどうかわかりません。不安な気持ちのままゆっくり扉を押すと石造りの店内に食器を洗う音が響いていました。不安げな「ボアター」という言葉に奥からエプロンをつけた若い女性がやってくると彼女は僕を奥へ案内します。店内を抜けてテラスに出た青年を待っていたのは地平線までのびる広大な景色でした。
「野菜スープとハムのサンドイッチ」
アレンテージョの平原を太陽が照らしています。牧場、草原、オリーブ畑、そして米粒のような羊たち。まるで一枚の絵画のような牧歌的な情景に目を奪われながら心地良い風を浴びていただく野菜スープは格別においしく、特にサンドウィッチは日本で目にするものとは違った分厚い生ハムが惜しげもなくパンに挟まりそれだけ抜いて食べたくなるほどです。時計台の鐘の音が風にのって高台から平原へと滑り降りていきました。草原を背景にお皿に取り出された生ハムが陽光に輝いています。コーヒーを飲んでお腹も心もいっぱいにした僕は、店をでると再び教会前の広場に戻ってきました。この村はものの20分くらいで一周できてしまうようです。
「今日はここに泊まろう」
もうこの小さな村から出る気がしませんでした。完全に虜になっていました。なにもしない旅にしようと思っていた旅行者からしたら最適な場所です。まだ太陽は真上にありましたがもうほかの場所に移動する気分になれずここで一泊することに決めました。体力はあっても心が離れないのです。
「ここかな」
お店の人が教えてくれたとおり白い壁をつたっていくとそのホテルはありました。小さな看板の上に小鳥がとまっています。ホテルというよりは民宿やペンションといったところでしょうか。ジリリリと玄関のベルが静かな午後の村に響きます。
「部屋は空いていますか?」
扉を開けたのはやや太ったお手伝いさん風の女性でした。
「えぇ空いてますよ、見ます?」
おそらくそんな意味で案内された2階の部屋を見るなり僕は思わず声をもらしました。こじんまりした部屋を抜けるとアレンテージョを一望できるベランダがありました。さっきレストランのテラスで見た広大な景色を独り占めできるわけです。この部屋にしますと不動産屋さんに言うように伝えると、鍵のマークのような鍵が僕の手の平に載りました。
「こんなところがあるなんて…」
その日本人はベランダに出てただぼーっとしていました。近所の売店で買ってきたアイスやジュースやお菓子が彼を囲んでいます。なにもしない旅、自分の中でそう決めていた僕は、徹底的になにもしまないことにしました。中庭いっぱいに広がるレモンの木から香りが漂ってきます。鳥と太陽と風と緑、ゆったりとした時間が流れていました。都会の贅沢もあればここでしか手に入らない贅沢もあります。普段手に入らないものを味わえたとき、それを贅沢と呼ぶのかもしれません。ここで一ヶ月生活したらどうなるのだろう、そんなことを思い浮かべる青年をやさしく照らしながら、太陽はゆっくりと地平線におりていきます。水色の空が赤く染まり、やがて姿を消した太陽にひっぱられるようにその赤い部分も地平線へと吸い込まれていきました。
「遅めの朝と日暮れに沈黙の音がする」
沈黙どころか鳥たちがずっと歌っていました。でも、そのときの僕には沈黙の音なんてどうでもよかったのです。ただ沈み行く太陽を眺めているだけで。
「今日はお店は昼までだけど夕日を見るならテラスの席にいていいですよ、とても素晴らしいから」
レストランの女性の言葉が頭に浮びます。おそらく同じようで毎日違うのでしょう。まったく同じものなんて二度と見られないのかもしれません。空き缶がテーブルを埋めています。そうしてモンサラーシュにゆっくりと夜が訪れました。
白い村がオレンジ色に染まっています。夜のモンサラーシュは灯りが燈されとても幻想的で、昼とはまた別の表情をしています。おじいさんたちももう家に戻っているのでしょう。もうひとつのレストランで郷土料理を食べた僕は、部屋に戻るといつのまにかベッドの上で寝息を立てていました。その数時間後に事件は起きるのです。