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2007年10月28日
第291回「地球は生きている7〜distance(羊との)〜」
それはまるで、遠くに見える白いゴルフボールのようでした。僕が立っている黄土色の台地の下に広がる果てしない草原に、ある白い物体を見つけたのです。
今回のアイスランドドライブの楽しみは、ダイナミックな景色だけではありません。途中に現れる放牧された羊や馬たちも、観光客の心を和ませ、楽しませてくれます。アイスランドでは、夏の間たくさんの羊たちが放牧され、いたるところで草を食べている姿を見ることができます。一日中草を食べている羊たちはとても愛らしく、見ているだけで思わず笑みがこぼれてしまいます。また、アイスランドの馬はポニーのようにこじんまりしていて、何頭か並んで立ったまま寝ている姿はとても滑稽で、力が抜けてしまいます。ちなみに、アイスランドの馬は絶対に外来種と掛け合わせることはないそうで、その品種が守られているそうです。
そんな羊や馬たちを見かけるたびに、ついついスピードを緩めてしまいます。特に羊たちは道路のすぐ近くにいることが多く、そうなると車をとめずにはいられません。一応、柵はあるものの、場所によっては何匹か出ていたり、道路を横切る羊の親子を見かけたりもします。
「だめかぁ...」
ずっと草を食んでいるからなにも気付いていないように見えても、ある程度のところまで近づくと、急に逃げてしまいます。どんなにこっそり近づいても、ちょっとした気配で、一斉に逃げてしまうのです。たまになかなか逃げないのがいたりしても、やっぱり触らせてはくれません。写真をとってもいつも後ろ姿ばかり。どうしてもそこに、distance(羊との)があったのです。だからといって、羊を見かけるたびにいちいち車を停めてチャレンジしていては、いつまでたっても目的地に着きません。そこで僕は、羊とのコミュニケーションの仕方を変えることにしました。
「おーい!」
羊たちの群れを見かけると僕はアクセルをはなし、スピードを緩めます。そして窓を全開にし、群れに向かって大きく叫ぶのです。すると、のんびりと草を食んでいる羊たちが一斉に顔をあげてこっちを向くのです。まるで、なんども練習をしたかのように、皆同じタイミングでこっちを見るのです。その姿といったらなんとけな気でかわいいのでしょう。あまりの愛らしさに胸がキュンとします。触ることはできないものの、なんだか羊たちと会話をしているようで、すごく心が温かくなるのです。だから僕は、群れを見かけるたびに窓をあけて羊たちに呼びかけていたのです。
「こんなところにもいたのか...」
静寂に支配され、恐怖に怯える僕の目に映ったのは、これまでずっとドライブを楽しませてくれた羊たちでした。眼下に広がる果てしない草原に、まるでゴルフボールのように、3匹の羊が見えたのです。
「一応、叫んでみようか...」
僕は、いつものように「おーい」と叫ぼうとしました。しかし、そう思うものの、なかなか声をだすことができません。静寂に支配されたその世界で、発した声がすぐに静寂に吸収されそうで、声を出すことに恐怖を覚えたのです。しかし、勇気をふりしぼって思いっきり声を出してみることにしました。
「おーい!!」
やまびこのような反響もなく、乾いた声が静寂の中に吸収されたそのときでした。
「あ!」
点のように小さくはあるものの、かすかに揺れていた三つのゴルフボールの動きがとまりました。はるか向こうの3匹の羊が、遠く台地の上に立つ日本人を見つめていました。
「聞こえたんだ...」
こんなにも遠いのに、こんなにも近くに感じたことをありません。羊とのdistanceが縮まった瞬間でした。地球に残された最後の一人とさえ感じていた僕の渇いた心を、3匹の羊たちが潤してくれたのです。僕は、これまでの人生でそのときほど羊に感謝したことはありません。そのときほど愛おしく思ったことはありません。そして一生、この瞬間の感動を忘れぬことでしょう。しばらくすると、羊たちはまた黙々と草を食べはじめました。
「よし、戻ろう!」
羊たちに癒された僕は、エンジンをかけ、少し先のところでUターンをし、逃げるように来た道を帰っていきました。
戻ると、標識には「デティフォス」と書かれています。やはり道は間違っていないようです。どこか心残りではあるものの、僕はさらに一号線のリングロードを東へと進んでいきました。
「あれ?まただ...」
再び、デティフォスを示す標識が現れました。心のどこかでヨーロッパ一の滝に対する未練があった僕は、吸い寄せられるようにその標識の方向へ進んでいくと、いわゆる「悪路ではあるものの、トヨタでも大丈夫だよ」くらいの道が続いていました。
「もしかして、この道だったの?」
どうやら、僕が最初に踏み入れたのは、たしかに滝に通じるものの、旧道みたいなもので、いうなれば「別にここからも頑張ればいけるけど、いくなら4WDじゃないとだめだよ」みたいなことだったのです。そこを無理やり2WDの車で踏み込んでいっていたのです。対向車がまったくないのも当然でした。
それでもそこから1時間くらいかかりましたが、どうにかヨーロッパ一の滝、デティフォスにたどりつくことができました。相変わらず、ヨーロッパ一の規模の滝にたいしても、ちゃんとした柵などはなく、自然がありのままの姿で残されていました。山を削るように勢いよく流れ落ちる氷河の水は、激しい音と瀑布を生み、周囲を圧倒しています。もう自然にはかなわないというよりほかありません。自然の作り出した景観は、強さと美しさとを兼ね備えた、超芸術といえるでしょう。
「まぁとにかく見られてよかった」
本来の目的であるデティフォスの滝を体感した僕は、暗くなる前に帰ることにしました。9月のアイスランドの日没は、だいたい夜9時くらいです。僕は、あいかわらず草を食んでいる羊たちに声を掛けながら、来た道を戻っていきました。太陽がようやく山の向こうに隠れようとしています。帰り道がもはや、懐かしく感じるようになっていました。
2.地球は生きている | 09:39 | コメント (0) | トラックバック
2007年10月21日
第290回「地球は生きている6〜静寂〜」
「おかしいなぁ...」
行けども行けども、滝が出てくる気配がありません。滝どころか、どんどん雲が迫ってきます。まるでこのまま天空の世界へ行ってしまいそうな気がしました。
「よし、今日は絶対デティフォスを見るぞ!」
デティフォスとは滝の名前で、その規模はヨーロッパ一と言われています。朝ホテルを出発した僕は、ガソリンを満タンにしてアークレイリの街をあとにしました。デティフォスの滝は、昨日のネイチャーバスのさらに先にあるので、途中までは同じルートになります。それだけ、海外での運転に対する抵抗や緊張も、もはやなくなっていました。
「とりあえず、いっとくか」
昨日見たばかりなので寄るつもりはなかったものの、どうしても体が言うことをきかず、通過することはできませんでした。いつ見ても同じだろうと思っていたゴーザフォスの滝は、あんなにも吹き荒れていた風が嘘だったかのように、今日はとても穏やかな空気が流れていました。自然も人間と同じように、機嫌のいい日と悪い日があるのかもしれません。
「とりあえずここも、いっとくか」
昨日はいったばかりなので寄るつもりはなかったものの、次いつ来られるかわからないと思うと、ここもどうしても素通りできません。結局この日も、ミーヴァトンのネイチャーバスにはいることになりました。しかも、昨日は僕のほかに7、8人(これも相当少ないですが)いたのに、そのときはまさに貸し切り状態で、まったく人の気配がありません。たった一人でブルーの温泉に浸かっていると、地球にあたためてもらってる、そんな気分にもなります。もはや楽園というよりも、地球を独り占めしている気分でした。
「さぁ、ここからだぞ」
すっかりぽかぽかになった体で窓を曇らせた車は、未開の地へと進んでいきました。しかし、デティフォスの滝まで直行するつもりだったのに、出発してすぐ、車を停めることになりました。
「これは通過できない...」
それは、僕が子供の頃見ていたアニメの世界でした。いまにもマンモスがでてきそうな荒涼とした黄土色の大地に、ものすごい勢いで煙を吐き出している小山。セメントのような灰色のどろっとした液体が沸騰するようにぐつぐつ泡をたてている池みたいなのが点在しています。それは、さっきの楽園から、いっきに地獄に突き落とされたかのような光景でした。原始時代にタイムスリップしたかのようにも見えます。それにしても煙の噴き出し方が尋常じゃありません。いったいどれくらいの年月をかけて噴き出しているのでしょう。とめどなく吐き出される白煙は、はるか遠く、溶岩台地の上を這うように流れていきます。その光景は、地球の呼吸というよりもむしろ地球のおならといったほうが適切かもしれません。
「デティフォス...ここだ!」
気になるものを見つけては車を停めていたので、目的地の標識を見るまで予想以上に時間がかかってしまいました。相変わらず控えめなその標識によると、デティフォスの滝は、そこから28キロとのことでした。
「なんか書いてある...」
標識どおりに曲がるとそこには、「4WD以外の車、進入禁止」という看板が立っていました。道が悪いため、通常の車でなく、オフロードタイプの車でないと駄目ということです。僕のトヨタ車は、オフロードのものではありません。
「まぁ、悪路だけど、トヨタでも平気だよ」
途中に立ち寄っていた観光案内所のおじさんの言葉が浮かびました。看板はきっと大げさで、4WDじゃなくても問題ないんだ、案内所のおじさんの言葉を信じよう、そう勝手に判断すると、トヨタ車は舗装されていない道をゆっくりと進んでいきました。
「それにしても、ずいぶんひどい道だな...」
たしかに道は悪く、ヨーロッパ一の滝までの道のりなんだからもっと整備されていてもいいはずなのに、穴ぼこだらけで放置されている感じでした。それらをよけながらだったので、どうにもスムーズに進みません。
「ほんとにこの道であってるのかな...」
それにしてもなかなか滝が現れる気配がありません。いけどもいけどもでこぼこ道が続きます。すれ違う車はもちろん、あとにも先にも車はなく、どうも普段利用されている気がしません。どこから落ちてきたのか、大きな岩がごろごろと転がっています。気付くと、僕のクルマは360度、一面乾燥した黄土色の台地に囲まれていました。地球の果てまで見えてしまいそうな見渡す限りの荒野に、ついに不安が期待を追い越してしまいました。
「ここでもしも穴にはまって身動きがとれなくなったら...」
嫌な予感しかしなくなってきました。車が動かなくなったら助けを呼ぶにも呼びようがありません。もはや、歩いて引き返すには遠すぎるところまで来ています。街に戻れないどころか、日本にも帰れません。下手したら命にまで関わってきます。地面に落ちている白く枯れた枝が、白骨のように見えてきました。
「ここで引き返すわけにはいかない!」
ここまで来て、ヨーロッパ一の滝を見ずに帰ったら一生後悔すると、僕は気持ちを奮い立たせ、ただ前だけを見て進んでいきました。
「頼むぞ!世界のトヨタ!」
あとはもう、日本が誇る、世界のトヨタの技術を信じるしかありませんでした。どの国に行っても看板をみないことはない、世界のトヨタの力を信じて、僕はひたすら天空へと続く荒涼とした台地をさまよっていました。
「よし、あの坂を上ったら」
なんども繰り返す起伏の度に、ため息がこぼれました。坂をのぼったときに果てしなく続く道が見えると、あそこまで行くのかと、気持ちが萎えてきます。そこで僕は、どうにかテンションを維持するために、カバンの中からあるものを取り出しました。
「頼むぞ!世界の亀田!」
取り出したのは、世界に誇る日本のおかき、亀田の柿の種(わさび味)でした。これを食べてどうにか不安を軽減させようとしたのです。海外でこそその看板を見たことはありませんが、亀田の柿の種(わさび味)はまさに世界に誇る日本の味です。亀田に限らず、こういったおかきをはじめ、日本のお菓子は世界に誇るものなのです。お菓子といってもパティシエが作るようなものではなくて、いわゆるコンビニで売っているお菓子。ポテトチップなどのスナック菓子にしても、その緻密に計算された味に匹敵する海外のお菓子はないといっても過言ではありません。ハッピーターンのような絶妙な味は、そう簡単には真似できないのです。もっというと、おいしい和食を食べてると、結局これが世界一だと思うことがあります。海外の料理はどこか味付けでごまかしている感があるのに対し、日本の料理は、その素材の良さを存分に引き出して勝負している気がします。だから飽きないし、疲れないのです。日本人の僕がいうのだから説得力ないかもしれませんが、いずれにしても、日本のお菓子には、日本人の味に対するこだわりと、繊細な心が反映されているのです。
「世界のトヨタ!世界の亀田!」
ひたすらそう口にすることで、どうにか不安を払拭しようとしていました。この2大スポンサーに支えられて、前に進んでいたのです。しかし、イケイケムード(なつかしい!)もそう長くは続きませんでした。
「やっぱり間違えたのかも...」
アルファベットではあるものの、英語ではありません。アルファベットでは表記できない文字も混ざっています。僕は、あの時見た標識が、本当にデティフォスと書かれていたのか確信できなくなっていました。満タンに表示されていたガソリンの目盛りも減り始め、唯一の食料であるお菓子もなくなりました。そして、もう一度地図を見ようと、車を停め、サイドブレーキをかけたときです。
「えっ...」
体が妙な感覚に襲われました。それまで悪路を走る音で騒々しかったけれど、車を停めた途端、目に映る大自然の中から音がなにも聞こえていないことに気付きました。ただ、エンジンの音だけがガタガタとなっています。そして僕は、ゆっくりと車のキーを回しました。
それは、音のない世界でした。まるで地球上の音すべてがリモコンでピッとミュートされたかのように、プツッと切れてしまいました。目の前には荒涼とした台地が延々と広がり、視界にはこんなにも広大な景色があるのに、まるですべてが遮断されたかのようになにも聞こえてきません。ただ雲は流れ、太陽が燦燦と輝いています。世界が一瞬にして、静寂に包まれました。そして、音のない世界に対する感動は、やがて恐怖へと変わっていきます。怖くて音を発することすらできません。静寂が、すべてを支配していました。まるで、音を発することが禁じられているかのようです。静寂は、どんなに激しく強い音をも飲み込んでしまう、この世でもっとも強い音なのかもしれません。
「どうしたらいいんだ...」
静寂がこんなにもおそろしいものとは知りませんでした。静寂が支配する世界、音が閉ざされた世界に僕は、地球を独り占めというよりも、地球の最後の一人になったようでした。
車から降りると、ひとつひとつの行動から生じる音がすべて、静寂に吸収されていきます。怖くて深呼吸すらできません。突如UFOでも現れてさらっていくんじゃないだろうか、そんな不安もよぎります。それでなくとも、どこか違う惑星に来てしまったような感覚になります。心臓をぎゅっと掴まれるような、感動と恐怖とが激しく拮抗している中、僕の目にあるものが映りました。
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2007年10月14日
第289回「地球は生きている5〜虹と滝と温泉と〜」
「すごいことになってる...」
飛行機を降りた僕の目の前に、地面から地面へとコンパスで描かれたように、端から端までくっきりと虹がかかっていました。
「こっちに来て正解だったんだ...」
こんなにもしっかりと地に足を着けている虹は、これまでの人生で見たことありません。それはまるで、ここに来たことが正解だったと言っているようにさえ見えました。というのも、もともと今日はここに来る予定ではなかったのです。
「11時半?」
その日は、朝から「春にして君を想う」の舞台となっているイーサフィヨルズルに行くことになっていました。朝7時半の飛行機に間に合うようにホテルをチェックアウトして国内線の空港に向かい、順調にチェックインまでは済ませたものの、いつまでたっても搭乗案内がされません。なかなか搭乗する雰囲気にならないのです。そして出発時刻をすぎたころ、ようやくアナウンスが流れました。
「11時半?」
僕は耳を疑いました。まさかと思いつつも、そばにいた夫婦に聞きました。
「いま、11時半って言いました?」
「あぁ言ってたね、まいったよ」
そう言って笑うと、ふたりは空港内の小さなカフェにはいっていきました。天候によって飛ばない日も珍しくないと聞いてはいたものの、まさか自分が該当するとは思いませんでした。ましてや、限られた時間でたくさん周りたい僕にとって、4時間待ちの宣告は相当なダメージです。話によると、11時半になれば飛べるわけではなく、そのときにまたウェザーチェックをして判断するとのことでした。
「まぁ、これも旅行の醍醐味か」
前回のフィンランドでの教訓をふまえ、今回は空港のカフェでのんびり待つことにしました。ではせっかくなので、この待ち時間を利用して、なぜ僕が旅に出るのかを、お話しましょう。
おそらく小さい理由を挙げればきりがありませんが、大きな要因としては二つあります。まず一つ目は、「そこに知らない世界があるから」です。これだけメディアが発達し、世界中のことはなんでも目にすることができる時代ですが、やはり自らその地を訪れないと、そこにある空気を感じることはできません。体全体で感じないと本当の意味で「知る」ことはできないのです。見知らぬ地で感じる空気は、お風呂のお湯を入れ替えるような新鮮な気持ちと、武道館から東京ドームライブに発展するような、人間のキャパシティーが拡張される感覚を与えてくれます。また、見知らぬ地だからこそ生じる、期待と不安も重要な要素です。なにをするにも体が覚えてしまっている日常生活に比べ、旅は不安と安堵の繰り返し、ときに危険も伴います。でも、現地の人たちと触れ合いながら不安を乗り越え、目的をひとつひとつ達成していくと、大げさですが、「生きてる!」って思うのです。これって結構重要なのです。どうしてもステレオタイプな生活では、いちいち「俺!生きてる!」なんてなかなか感じられません。でも旅をしていると「生きている実感」が自然と湧いてくるのです。温泉マニアな僕は、当然、国内の温泉旅行なんかも好きなのですが、それはどちらかというと「落ち着き」や「癒し」を求めるもので、海外のひとり旅とは求めるものが違います。海外での旅は、会話をすること、バスに乗ること、ひとつひとつの行動に不安や責任が伴い、それだけに達成感も増幅します。見知らぬ地で体感するすべてが、「生きている実感」につながるわけです。ではまだ搭乗アナウンスが流れないので、コーヒーでも頼みましょうか。
もうひとつの理由、それは「クリーンアップ」です。パソコンをやる人は聞いたことがあるかもしれませんが、早い話「整理整頓」です。パソコンの中にあるハードディスクはときどきクリーンアップをやらないと、データが乱雑に並びすぎて要領よく収納できなくなってしまいます。ぐちゃぐちゃに並べられたCDたちをアーティスト別に整理するように、クリーンアップすることで、情報を整頓するのです。ハードディスクだって時折クリーンアップをしないといけないのだから、人間の脳も時々クリーンアップしないと破綻してしまうのです。毎日大量にはいってくる情報を、脳の中で「必要」「不必要」などに分別処理しなくてはなりません。でも人間の脳は、ハードディスクのようにファイルで整理できません。とても乱雑に散らかっています。だからこそ脳のクリーンアップが必要なのです。それが僕の場合、旅の間に行われるのです。
最近は「待つ」という機会が少なくなりました。あまり「待つ」ことが好きな人はいないと思います。それは退屈だからです。でも、退屈っていうのも人間には必要なのでしょう。日常生活においては、退屈な空白部分はすぐになにかで埋められてしまいます。無駄が排除され、脳をクリーンアップするタイミングがないのです。でも旅をしているといろいろなことがあって、そんなに要領よくいきません。ぼーっと景色を眺めているだけでも、その間に頭の中が整理され、なにが頭のなかにあるのかが浮かび上がってくるのです。便利さで無駄な時間を奪われた現代人こそ、ぼーっとしている時間や、空港で待ちぼうけをくらっている時間が、ときには必要なのです。
散らかった部屋を整理したら、「こんなとこにあったんだ!」と、ずっと探していたお気に入りのCDが見つかることもあります。ケースと中身がひとつずつずれたままだったのを、ちゃんとケースと中身を一致させると、どのCDがないのかがわかります。冷蔵庫の中も、整理することで今日何を作れるのかわかるものです。同じように脳も、整理整頓すると、自分が何をするべきかが見えてくるのです。また、旅は体で感じる情報が新鮮なので、いままでにないアイデアが浮かんだりします。新たな調味料が加わるようなものです。脳というのは不思議なもので、考えようとすると浮かばず、一旦はなれると勝手に浮かび上がってくるのです。だから、机の前でじっくり考えているより、いっそ旅でもしちゃったほうがいいのです。そうして脳の中がすっきりしてくると、ようやく自分と向き合えるようになるのです。つまり、脳をクリーンアップすることで、「本当の自分」というものが浮かび上がってくるのです。
見知らぬ地を訪れることで得る「生きている実感」と、脳をクリーンアップすることで見えてくる「本当の自分」。結局僕は、海外を旅しながら、自分という世界を旅しているのかもしれません。あ、アナウンスが流れました。
「15時?」
結局11時半になっても飛ぶことはなく、13時をすぎてから、次のウェザーチェックは15時過ぎだというアナウンスが流れました。
「目的地を変えることにしました。いろいろありがとうございました」
一緒にカフェで時間をつぶしてくれた夫妻にそういうと、僕は行き先をイーサフィヨルズルからアークレイリというところに変更しました。もともとそこはイーサフィヨルズルのあとに行く予定だったところです。
「え、これ?」
ようやくゲートをくぐることができた僕の前には、とても貧弱そうな飛行機が待っていました。
「どしたの、早くのりなよ」
「ず、ずいぶん小さいんだね」
「なに言ってんの、ここじゃ僕くらいのサイズが普通だよ。ほら、はやくのったのった!」
重い足取りで、ステップを上がりました。
「ほんとにこれ大丈夫?」
窓からは、むきだしになったプロペラが見えます。
「これじゃセスナ機と変わらないよ...」
しばらくすると、そのプロペラが回転し始めました。周囲の人たちがだれも心配そうな表情をしていないことを糧に、どうにか不安を乗り越えようとしたとき、突然、アナウンスが流れました。
「どしたの?」
皆ベルトをはずし、荷物を降ろしています。
「技術的な問題みたいだよ」
隣の人が教えてくれました。
「今日飛行機乗るなってこと?」
僕は度重なるアクシデントに、なんらかのお告げ的なものを感じました。
「ちょっとどうなってんの?」
「いや、ごめんごめん、すぐ直るから。ときどきあるんだよ」
結局、確認作業にはいり、再びロビーで待たされることになりました。不安は募るものの、もう予定を変更しようがありません。
「もう、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫!まったく問題なし!っていうか、さっきの段階だって僕は飛べてたと思うんだよね、みんな心配性だからさ」
結局、飛行機がレイキャヴィクの地を離れたのは15時。小さい飛行機はアイスランド第二の都市、アークレイリへと旅立ちました。窓からの眺めはよほどダイナミックだったのでしょうが、正直風で揺れて、怖くてじっくり見れたものではありませんでした。
「おいおい平気?」
「ぜんぜん...平気!うわっ!」
思いっきり風に煽られながらも、機体はフィヨルドの入り江に吸い込まれるように、着陸しました。すっかりフラフラになって飛行機を降りた僕を迎えてくれたのが、あの大きな虹だったのです。
「虹はこっちでは珍しくないんですか?」
「あぁ、そうだね、よく見るよ」
レンタカーの人はそういって、僕を車まで案内してくれました。急遽使うことになったのでいろいろ手続きが大変だったのですが、それぞれ温かく対応してくれました。
「ついにきたぞ!」
二俣川の運転免許試験場で取得した国際免許証がはじめて役に立つ時が来ました。これまで一応は持っていても実際に使うことはなかったので、今回が初の海外ドライブです。
「頼むぞ!世界のトヨタ!」
さすがに車は慣れているほうがいいと思ったので、国産にしていました。運転暦10年以上ありますが、初めての路上教習のような緊張感がありました。
「やばい、アイスランドで運転してる!」
初めての海外での運転、しかもアイスランドでのそれは、多少ルールの違いはあるものの、慣れるのに時間はかかりませんでした。特に郊外なので、交通量もなく、とても走りやすいのです。車はフィヨルドの山をなぞるようにぐんぐん登っていきます。すると、僕の視界にまた虹が現れました。
「え、まじで?」
しかしそれは単なる虹ではありませんでした。虹は山に向かってかかっていたのですが、さらにそれよりも外側にもうひとつの虹が、つまり、虹が二重にかかっていたのです。
「やっぱりこっちにしてよかったんだ...」
来るべくして来た、そんな気がしました。イーサフィヨルズルも気になりますが、そこはまた別のときに来ようと思いました。
アイスランドは、北海道と四国をあわせたくらいの広さですが、その中をリングロードと呼ばれる一号線がJR山手線のように一周しています。信号がまったくなく、商業的な看板もなにもありません。また交通量も少ないので、車窓からのぞくダイナミックな景色のなかにほかの車が映らないのです。また街灯もありません。反射板だけです。必要最低限のものだけがあって、自然をそのままにしているのです。当然のようですが、トンネルがありません。山があれば、波に乗るように上を通る。そうでなければ周囲を回る。山があるから穴を掘ろう、ではなく、山があるから仕方ない、なのです。技術の問題じゃないのです、気持ちの問題なのです。国全体でトンネルがひとつもないかはわかりません。でも自然を残そうという意識がひしひしと伝わってくるのです。場所によっては、野鳥の産卵時期に通行止めになるところもあります。日本との違いは、風土の違いだけではない気がするのです。
わざわざドライブ用に持ってきたアルバムを聞きながら、窓から見える雄大な景色を堪能していました。雄大な自然の景観とチルアウトサウンドが見事にマッチするのです。いかに、普段目にする環境が音に反映されるかがわかります。ビョークのサウンドがうまれるわけです。また、景色はワンパターンではなく、ゲームのステージがかわるように、10分おきにその表情が変わるので、全然飽きないのです。
ちなみに僕はこういうとき、普段聴かないアルバムを持っていきます。そのほうが非現実的な世界にトリップできるし、景色も空気もぜんぶ、そのアルバムの中に詰め込むことができるわけです。そのアルバムを帰国してから聴くと、写真以上に旅行中目にしたもの、体で感じた空気が蘇ってくるのです。30を過ぎて見つけた、人間の脳を使った遊びなのです。
「ここだ!」
一時間ほどで目的地のひとつであるゴーザフォスの滝の看板が現れました。看板といってもうっかりしていると気付かないような大きさなのですが、ほかに何もないから小さくても気付くのです。滝の近くまで車でいくと、ほかの車はありませんでした。有名ではあるものの、観光バスが来るようなところではなさそうです。ドアを開けると、ゴォーという豪快な音と四方八方から吹きつける風に覆われました。風に煽られながら音のするほうに歩いていくと、下から白いしぶきが炎のように大量に噴き荒れているのが見えます。一人では怖くて近寄れないくらいです。そこに吸い寄せられるように歩いていくものの、激しい風に体を跳ね飛ばされそうにもなります。岩の上を渡りながらどうにか全体が見える所まで辿り着くと、体が妙な感覚におちいりました。それはどこか、見てはいけないものを見てしまったような気分になったのです。神聖な領域に吸い寄せられそうになるものの、近寄りがたい空気は、昨日のグトルフォスと同じ感覚ですが、ただ違うのは、滝の前に僕一人しかいないということ。嵐のような音を立ててしぶきを撒き散らしている滝と対峙していると、本当にいまにも神が現れてきそうな気がするのです。
「ここに神がいる...」
その感覚は、決して間違っていませんでした。というのもこの「ゴーザフォス」というのは「ゴッドフォール」つまり、「神の滝」といういう意味だったのです。これには歴史的な背景があるのですが、ここでは省略します。ただ、神ではないものの、別のものが僕の前に現れました。
「虹だ...」
今回も普段目にするものとは違いました。どういうわけかその虹は、曲線でなく直線、つまり虹がタテにかかっていたのです。荒々しくうねる滝の前で天にのぼるように一本の虹が現れたのです。アークレイリの街にやって来たとたん、いままで見たことのない虹に何度も遭遇したのです。
「いやぁ、すごかった...」
すっかり全身砂まみれになりながら、さらにリングロードを30分ほど進むと、左手に大きな湖が見えてきました。ミーヴァトンという湖で、ここにはソフトボールくらいのマリモが生息するそうです。それにしても、荒々しくなったり穏やかになったり、圧迫されたり開放されたり、周囲の景色はドライバーを退屈させません。しばらくすると、黄土色の山に煙がもくもくと出ているのがみえました。
「あそこだ!」
そこは、全身砂まみれになった体をきれいにする場所でした。旅の疲れを癒す場所、そうです、温泉です。砂漠のオアシスのように、荒涼とした大地にミーヴァトンネイチャーバスと呼ばれる温泉がありました。さっそく入場料をはらって水着に着替え、全身をしっかり洗ってから扉をあけると、そこにはこれまでとは違った景色がひろがっていました。
「楽園だ...」
目の前が一面ブルーでした。空の色と同じブルーの温泉が広がって、そこから白い湯煙がたちこめています。どうして青いのかもわからないまま、ゆっくりとブルーの温泉に体を沈めました。湯気の向こうに見える果てしない自然の姿に、どこかとんでもない時代にタイムスリップしてしまったような気にもなります。日本の温泉も好きですが、さすがにこの開放感は、山梨のほったらかし温泉を越えました。夕日になろうとしている太陽を浴びながらブルーの温泉につかっていると、なんだかすべての病気も治してくれそうです。次にいつ来られるかわからないと思うと、いくら満喫しても、なかなか出られませんでした。
「続きは明日にしよう」
もうひとつ見たかった滝は翌日にまわし、今日は日が暮れる前にホテルに戻ることにしました。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている | 09:24 | コメント (0) | トラックバック
2007年10月07日
第288回「地球は生きている4〜distance(プレートとプレートの間の)〜」
「これがプレートか...」
僕は、大地の裂け目が幾筋にも走ったユーラシアプレートの上に立ち、川の向こうにある北米プレートを眺めていました。
普段からプレートを意識して生活している人はいないと思います。地震のときにだって、プレートによるものだとはあまりイメージしません。でも一度、大陸を動かすそのプレートを目の当たりにすると、少なからずそのイメージは変わります。
そもそもプレートとは、これはあらためて調べたのですが、地球の中心部にあるマグマが地表に噴出して固まったもので、その上に大陸がのっています。大陸をファンデーションとすると、プレートが地球の地肌といったところでしょうか。地球上にはいくつものプレートが存在するのですが、それらがゆっくりと移動し、大陸が動いているわけです。だから通常、プレートを見ることはできないのですが、そのプレートが地表にあらわれている場所があるのです。
シンクヴェトリルという場所は、なんとユーラシアプレートと北米プレートの二つのプレートが生まれ、東西に分離している、まさに地球の裂け目を体感できる場所です。この二つのプレートはいまも左右に広がっていて、毎年2センチほど、そのdistance(プレートとプレートの間の)を広げているのです。おそらく、ガイドのおばちゃんから聞こえた「distance」はこのことなのでしょう。また、前述の世界初の民主議会アルシングが開かれたのもこの地で、いまはそこに国旗が掲げられています。
この二つのプレートが反対側の端っこで接しているポイントがあるのですが、そこがまさに日本なのです。アイスランドで生まれ、二つに分かれたユーラシアプレートと北米プレートは、日本という国で再び遭遇していたのです。ちなみに、アイスランドの面積は北海道と四国をたしたくらいで、人口は30万人。ちなみに僕の生まれ育った横浜市港北区の人口と同じです。人口は違えど、ともに島国で、火山が多く、温泉も多い。アイスランドと日本は意外な接点を持っていたのです。
ひとつのプレートの中にも、いたるところに裂け目がみられます。ギャウと呼ばれるのですが、人間でいう皺のようなものですね。だから無数にのびる裂け目を見ると、どこか、地球が生き物のように感じられるのです。
「虹だ...」
雲が流れ、青空がのぞくと、はるか遠くの山に虹がかかっていました。ユーラシアプレートの上で、北米プレート上にかかる虹を眺めているわけです。
「たしかに、地球は生きている...」
バスに戻ると、ガイドのおばちゃんが一人一人回って宿泊先のホテルをきいています。僕は、宿泊先を伝えると、オーディオプレイヤーを装着し、さっきとは逆側バージョンの巨大PVを鑑賞することにしました。
翌日、すっかり時差ボケのせいで真夜中に目が覚めてしまった僕は、夜明け前のレイキャヴィクを散策することにしました。というのも、ほとんど市内を観光する時間を設けていなかったのでチャンスはここしかなかったのです。また、街が動き出す前に散策すると、いつもとは違った表情が見られるのです。
街のシンボルとなっているのがハトルグリムスキルキャ教会です。どうしてこんなに、というくらい難解な発音ですが、カタチはとてもスマートで、白いので一見スペースシャトルのようにも見えます。この教会以外高い建物がなく、だいたいどこにいてもこの教会が見えるので、地図を持たなくても本気で迷うことはなさそうです。また、開館中は中から市内を一望でき、教会の前には、コロンブスの500年前に北米大陸(プレートではありません)を発見したレイブル・エリクソンの像が建っています。
散策しているうちに、ようやく暗闇も淡くなってきました。でもまだ車も人もなく、静けさが漂っていて、ほんのり灯りを映し出すチョルトニン湖や、朝もやに包まれた港はとても神秘的に見えました。ホテルに戻って朝食を済ませると、早々にチェックアウトをし、タクシーで国内線の空港に向かいました。
「アイスランドってもっと寒いと思ってました」
「そうだろうね。でもそんなに雪も降らないんだよ」
「そうなんですか」
英語の準備体操をするように運転手と会話をしていると、10分ほどで空港に到着しました。
「あ、おつりはいいですから」
スムーズに展開する英会話に気をよくした僕は、そんなことを言ってタクシーを降りました。ここからが、本当の一人旅の始まりでした。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている | 08:45 | コメント (0) | トラックバック