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2013年09月09日
第544回「蜻蛉の季節」
自転車を購入してからというもの、毎朝サイクリングに出かけています。家から10分ほど下っていくと、青々とした緑に覆われる河川敷。空に伸びる草木を分けるように走れば、生まれたばかりの空気が体のなかを通り抜けていきます。今日はやめようかなという日もあるけれど、この朝の匂いが恋しくなって、坂をびゅーんと降りてしまいます。もちろん、健康のためというのもありますが、汗だくになりながら風を浴びている時間は、ただ気持ちよく、頭のなかが整理されて、僕みたいな思慮深い大人には、ちょうどいいかもしれません。小学生ぶりの自転車生活が、日常に、新たな輝きを与えてくれました。
「もしかして、きた…?」
腕に落ちた水滴は、どうやら汗ではなさそうです。毎年のように耳にする「異常気象」という言葉も、今年は例年以上の「異常」ぶり。2013年の夏は、皆、天候に振り回されました。なかでも、ゲリラ豪雨は凄まじく、雨と雷、そして竜巻まで現れ、自然の脅威をあらためて思い知らされたものです。
「嘘でしょ…」
家をでるときはあんなに澄んでいたのに、いつのまにか灰色で重々しい空。偵察にきた水滴のゴーサインがでたのか、今度は一気に集団で押し寄せてきました。朝からゲリラ豪雨に遭遇するなんて。しかもまだ買ったばっかりの自転車。自分の体はいいのですが、この乗り物を濡らしたくない。錆びさせたくない。このまま家まで急いで帰ろうか。
「あそこで待とう…」
列車がホームに入るように、高架下に逃げ込みました。この降り方なら、きっとすぐに止むにちがいない。Tシャツが、汗と雨で、体に張り付いています。すると向こうからも、ホームにはいる列車のように、一台の自転車が、高架下で停車しました。こちらが急行なら、隣は各駅停車のようです。欄干に雨がぶつかる音。雨脚が強まってきました。
「やみますかね…」
女性の声でした。もしかしてと思って振り向くと、やはり、その言葉は僕に向けられいるようです。
「この降り方なら、すぐに…」
自転車の前カゴには、カバンが濡れないようにハンカチのようなものが被せられていました。この土砂降りでは、さすがに焼け石に水。どちらの列車も、駅からなかなか出発できません。
「きゃっ!」
あたりがまっしろな光に包まれました。雨は止むどころか勢いをまし、雷まで連れてきました。
「ごめんなさい、わたし、ほんと苦手で…」
「ここに落ちることはないから大丈夫ですよ」
光と音の間隔が狭まり、やがてゴロゴロからバキバキへ。彼女にも劣らずビビッているのを悟られないように、僕は、平静を装っていました。
「もう、大丈夫ですかね」
まるで、暴走族が通過していくようでした。雨脚が弱まると、次第に透き通った青空が顔をだし、発車ベルのように、蝉の鳴き声が響き始めました。
「…一人じゃなくて、よかったです」
そういって微笑むと、各駅停車は緑の中に吸い込まれていきます。その言葉の意味を消化できないままに、ペダルを漕ぎはじめると、大きな声がしました。
「ねぇ、虹!」
河川敷の緑の上で、七色の光が川をまたいでいます。
「ほんとだ…」
彼女は、ケータイのレンズを向けていました。
「すみません、呼び止めちゃって…」
「全然。僕も、キミがいてくれて、よかったです…」
彼女は顔を少し赤らめると、ケータイをカバンにしまって、サドルに腰を載せました。すれ違うように、お互い、高架下から離れていきます。坂をのぼると、橋の上から、河川敷一帯が見渡せます。勢いを増した川の上を、蜻蛉が泳いでいました。
ps:ほぼ妄想です。
第543回「父と甥と、夏の終わり」
まるで、自分自身を見ているようでした。久しぶりに実家に戻り、部屋のドアを開けると、机に向かう少年の姿があります。
「こんにちは!」
それは、甥の省語くん。夏休みの宿題を片付けるために、わざわざ秦野から横浜までひとりでやって来たのだそう。自分の家では妹たちがうるさいからか、あまり集中できないらしく、母曰く、これまでにも何度かあったようです。数年前のイメージが残っていたので、中学生になって少し大人びた彼の姿に若干戸惑いもありました。
「そうだな、ここはこうした方がいいな」
テーブルの上には、お昼ご飯が並んでいます。作文の宿題なのか、原稿用紙が父の目の前に広げられました。省吾くんは、とにかく父と仲がよく、父のタンゴの演奏会を観れば、バイオリンをはじめたり、小学校低学年にして宇宙について語りあったり、オセロでも対等に戦っていました。意識していることがクラスメイトと合わず、かつてはいじめられていた時期もあったそうですが、そんなことにもめげず、自分の道をひたすら邁進してきたようです。その省吾くんが中学生になったいまも、父と自然に会話をしている。僕自身、こんな風に話せるようになったのは20代後半だったような気もするけれど、息子と孫の違いでしょうか。
「ちょっと見てみな、文章が亮にそっくりだから」
どうやら、水をテーマにした作文のようで、社会に真摯に向き合う姿勢は確かに血のつながりを感じたものの、さすがの僕も、中学のときはここまでの目を持たなかったので、彼にはただならぬ素質を感じます。ここをこうしたらいいのではと、いつのまにか、男3人、三世代で、水質汚染と向き合うことになりました。
「部活が大変なのよ」
口を挟む母。所属する吹奏楽部がかなり厳しいそうで、高校の演奏会にも手伝いに行かなければならず、ほとんど休みがないことに父と母はどうにかならないものかと心配をしているのだけど、本人はそのことを、とても価値があることだと感じているようです。
「ニガウリのジュースのむ?」
僕はこの前のことを思い出しました。ミキサーならぬ、ジューサーを購入してから、母は、オリジナルのヘルシードリンクの開発に余念がないのです。
「ニガウリって、ゴーヤ?」
まな板の上に、青々とした、きゅうりの怪物のようなもの横たわっています。そして、ウィーンという音が鳴りはじめると、見た目にも苦そうな液体が、テーブルに運ばれてきました。夏バテ解消、特製ゴーヤジュースのできあがり。
「牛乳もはいっているから、そんなに苦くないわよ」
カーテンが膨らんでは、網戸にへばりついています。父と甥と、母と。夏の終わり。蝉が、力強く、鳴いていました。