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2009年08月30日

第373回「ソノスキマハソラガウメテクレル」

 出会いが大事だということはよく耳にするけれどそれが人だけではないというところまで言及されることはあまりなくて、たしかになにをやるにしても自分一人ではカタチにならないからいろんな人と出会わないと物事は進まないし人との出会いで人生が変わることだってあるのだけど、でも人以上の影響をもたらすモノに出会うことも少なくなくて、そういった出会いが人生を支えていることもあります。
 心の平穏を保つことが困難なこの時代、人との出会いだけで心を満たすことはできず、その隙間を埋めてくれるモノは無数にあります。たまたまラジオから流れてきた曲、たまたま手にした本、レンタルビデオ屋でふと目に入った映画など、これだけ無限にある言葉や音、映像のなかで自分の心にフィットしたそれは出会い以外のなにものでもありません。それらが、人との触れ合いだけでは埋まらなかった部分をやわらかいもので埋めてくれるのです。好きな音楽や映画というのはそういうことで、きっと一生それらを嫌いになることはないでしょう。もしそうなったらあなたの心が変わってしまっただけで。本でも映画でも音楽でも、芸術と言うものは、誰かの心を埋めてはじめてそう呼べるのかもしれません。たくさんの人々の心の隙間を埋められる人が偉人と呼ばれるのでしょう。求めているから出会うのか、出会ってから求めるのか。でも、そういったものがいつも心を穏やかにしてくれるとは限りません。小説や音楽、どれをもってしても隙間を埋めることができないときもあります。本を開く気になれない、人とも会話したくない、そんなときのために空はあるのです。
 巨大な建物に覆われている都会でも、ビルの合間にきれいな空を見つけることができます。空を眺めていたら、自分が考えすぎていたことに気付くでしょう。自然の中で生きていることを思い出させてくれるでしょう。それは自分を映し出す鏡のように、自分の心を映してくれます。空は平等に、みんなの心の隙間を埋めてくれるのです。だからきれいな空が見える場所に出会うことも大切です。もし空が見えなかったら風の音を聞けばいいのです。風に身をゆだねればいいのです。空が青いから木々は緑の葉を付けたのでしょうか。空が青いから土は茶色くなったのでしょうか。もし学校の先生だったら空を眺める時間を設けていたでしょう。ただ空を眺めているだけで心は満たされていくのです。
「その隙間は空がうめてくれる」
 漢字を使えば一瞬でわかることもすべてカタカナにすると時間がかかるので、あえてタイトルはそうしました。じっくり噛み締めて、さいごの文字をしっかり呑み込んではじめて味がわかるように。みなさんの歩む道の途中で、この言葉がよい出会いになることを願って。
PS:アマゾンのDVDページで映画にまつわるコラム連載がはじまりました。

08:26 | コメント (7)

2009年08月09日

第372回「シリーズ人生に必要な力その15振り切り力」

 ストーカーという言葉を耳にするようになってから久しいいまでもその被害の声はあとをたたず、町で声を掛けてくるキャッチやナンパ、上司からの誘いなど、日常生活において「振り切る力」を求められることは少なくないのですが、中でも特にこの力が必要とされるのは、店員さんに「なにかお探しですか?」と声を掛けられたときで、これは現代社会において最も振り切ることが困難な状況とさえ言われています。
 買う気満々であるならまだしも、なんとなくふらっと入ったお店に限って店員さんは近づいてくるもの。ただなんとなく見ていたい、自分のタイミングで手に取りたい、そう願えば願うほど背後から忍び寄ってくるのです。「なにかお探しですか?」「お色ほかのもございますよ」この言葉がきこえたら、それは彼らからの射程距離内。もはや自分のペースもなにもありません。だからといって「話しかけないでください」「そっとしといてください」とは言えず、結果、一着でも多く売りたい店側と、そっとしておいて欲しい客側とのズレが奏でる不協和音が店中に響き渡るのです。
 一種の野生動物と同様、彼らは狙った獲物は逃がしません。地の果てまで追いかけてくることもあります。気付いたら見知らぬ崖まで追い込まれていた女性が目の前に広がる大海原を前にようやく買うことを決意した、野生動物で一番怖いのは服屋の店員だ、という声をきいたことがあります。鹿を追いかけるチーターのように一度目を付けたら逃がさない、彼らもショップ界で生き抜くために必死なのです。だからといって諦めてはいけません。餌食にならないためにうまく切り抜ける術を身につける必要があるのです。現状、これなら絶対に回避できるというものはないのですが、推奨できるものはいくつかあります。
 まずスタンダードなものとして、ヘッドホンをつけてノリノリで来店、というのがあります。思いっきりリズムにのって口ずさんだりしていればさすがの店員さんも攻めにはこないでしょう。ラジカセを肩にのせればさらに効果的。自由なショッピングが可能になります。
 急に外国人になる、というのも意外と知られていない回避法です。声を掛けられた際に相手の目を見つめ一言「パードゥン?」と口にしてみましょう。まさかのネイティヴ発音にきっと彼らも子犬のようにしっぽを巻いてしまいます。あとは店員さんに英語を話せる人がいないことを願うのみです。
 上記ふたつがわりと高度なテクニックを必要とするので初心者向けに、通話を装いながら、というのもあります。「え?なにが?いま買い物中だから、え?なに?」と、まるで誰かと会話している風を装えば店員さんが入る隙はありません。しかもこれによって、ある程度の演技力も身につくので一石二鳥といえます。
 おとり作戦というのもあります。これは、知人などの刺客を送り込み、その対応に追われている間にゆっくりと自由に見る、というものです。ただし、店員の数が刺客を上回る場合は効き目がなく、また、おとりがなにかを買うはめになった場合、それは誰が払うんだという口論になることもあるので若干リスクが高いといえるでしょう。
 手紙で、というのも非常に効果的です。口でいうと角が立つものも手紙にすれば角は丸くなり思いだけがやさしく相手に伝わるもの。もしそれが面倒であれば菓子折り持参で直接伝えるというのも悪くありません。この時期はやはり水羊羹などの涼しげなものが喜ばれるでしょう。同じことでも、伝え方次第で全然効果は違うのです。
 逆に受け入れてしまう、というのもあります。やはり、店員と客という関係だから腹を割って話せないのであって、ひとたび仲良くなってしまえば気を遣わずに思ったことを口にできるはずです。なので、「なにかお探しですか?」と言われても嫌な顔をせず「そうなんですよ、それにしても最近暑いですね」などと世間話を切り出し、立ち話に花を咲かせ、じゃぁこのあと飲みにいきましょうかと二人で飲みに行くことができればこっちのもの。あとは旅行にでも誘って温泉にでもいけばもうあなたは口にできるはずです、「そっとしといてもらえますか」と。就寝時に「あのさぁ、ひとつお願いがあるんだけどさぁ」と切り出すのも効果絶大。もはやその言葉を口にしたくらいで崩壊する関係ではないのです。人によっては3年かけてようやく伝えることができた、というケースもあります。時間をかけて思いを伝えたときはプロポーズに近い達成感が得られたそうです。当然その後は、自由にショッピングができるだけでなく、試着室の前でずっと待たれたり、大した買い物をしていないのに入り口までお見送りされることもなくなったといいます。
 余談ですが、サッカーのエースストライカーは皆、あらゆる強豪国のマークよりの服屋の店員さんのほうがよほど手強い、と口を揃えて言います。試合中に敵のマークを振り切る姿は目を見張るものがありますが、それこそ実は服屋さんでの訓練の成果なのです。ショップの店員さんのマークを振り切れることができればワールドカップに通用する、ワールドカップに行きたいなら服屋にいけ、という言葉があるほどです。サッカー選手が野球選手に比べおしゃれな人が多いのはそのためでしょう。そういう意味では、店員さんを振り切る練習としてワールドカップに出場してみる、というのもありかもしれません。
 ショッピングは生活に欠かせないもの。買わないにしても、綺麗に陳列された商品を見ている時間はあなたを癒してくれるでしょう。買い物でストレスを発散できるはずなのに、そこでまたストレスをためては意味がありません。だからこそ、人生には「振り切り力」が必要なのです。

ps:来週はお盆休みのため休載する可能性が高まりつつあります。

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2009年08月02日

第371回「人生に必要な言葉・easy come,easy go」

 まるでどこかの企業のキャッチコピーかのようにスマートな表現ですがいわゆる英語の慣用句・ことわざで、これこそ僕の人生をずっと支えてきたしこれからもずっと大きな柱として僕の心に存在し続けるであろう言葉です。
「簡単に手に入れたものは、簡単に失う」
 日本語にすればこうなるでしょう。「悪銭身に付かず」ということわざに置き換えられることもありますが、個人的にはお金だけでなくもっと広い意味で解釈しているのですが、この言葉はすべての人々に有効な言葉だと思うのです。
 たとえば、富士山の山頂までずっと歩いて来た人にとっての景色と、ヘリコプターで山頂まで届けてもらった人にとってのそれとでは、同じ景色であってもまったく別物といっていいくらい印象度は違います。心に刻まれる深さが違うのです。ヘリコプターの力を借りて獲得した景色は徐々に薄れていくかもしれないけど、自らの足で獲得したそれは一生忘れないものになるでしょう。ほかのどんな光景にも負けない記憶を手に入れたことになるのです。
 2組のアーティストがいて、ひとつはテレビ番組によって生まれた人気グループ。もうひとつは地道にライブ活動をするバンド。前者が半年で武道館を埋めたのに対し、後者はなかなかライブハウスが大きくなりません。しかしながら、テレビで人気を得たグループが翌年もう一度武道館を埋めることができるかどうかは未知数ですが、仮に武道館まで10年かかったバンドはおそらくその翌年もその翌々年も武道館をうめることができるでしょう。むしろもっと発展していく可能性だってあります。テレビの力を利用することは決して悪いことではありません。テレビの力を利用すれば誰でも人気がでるわけではないですし。ただ、あまりその力に依存しすぎると、ヘリコプターに乗ってしまうと、あとで痛い目を見るということです。簡単に人を集めたら、簡単に人も散ってしまうのです。余談ですが、最近ではオリコンチャートで上位だからといって必ずしもそれに比例した数の人たちを集められるとは限らないそうです。お金をかけてプロモーションすればランキングはあがるものの、人の心まではお金で買えない。馬を池に連れて行くことはできても水を飲ませることはできないのです。
 男女の恋愛にもあてはまります。飲み会などのお酒のいきおいでなんとなく意気投合して一気に肉体的契約を交わしてしまうと、簡単なことで契約解除を迎えてしまうもの。しかし、焦らずゆっくり段階を追って築きあげた結果生まれたふたりの関係は、ちょっとやそっとでは壊れたりしないのです。恋愛だけでなくいわゆる人間関係もそう。ともに苦難を乗り越えてきた友人との間に築かれた絆は、一生切れることはないのです。
 普段一人旅をするときに何百枚も写真を撮る僕が、番組のロケでギリシアを訪れたときは2回しかシャッターを切らなかったのは単なる興味の問題ではなく、お金からチケットの手配からなにからなにまですべて自分でやる一人旅がどの瞬間も心に刻まれるのに対して、いろいろコーディネートしてもらって番組の制作費で移動する旅では、あまり心に響かないからでしょう。パルテノン神殿ですら感動が弱くなってしまうのです。
 昔、電子辞書は使うな、という先生がいました。当時はどうしてと思っていましたがそれも同じようなことで、ボタンをポチポチ押して液晶画面に表示される文字よりも、分厚い本を開いてパラパラと何度も行ったり来たりしながらたどり着いた文字では印象に残る度合いが違うのです。また、辞書には周囲に並んでいる言葉、つまり景色があるのに対し、電子辞書にはその言葉にまつわるものしかありません。やはり得るものが違うのです。
 簡単に手に入れたものは簡単に失う、それは失うことに対する恐怖ではなく、時間をかけて手に入れたものはなかなか失うことはないという強さを意味しているのでしょう。何年たっても風化せず、色褪せないどころか、時間とともに強固になる。だから、目先の甘いものに振り回されるのではなく、焦らずゆっくりと人生の山を登っていけばいい。必ず素晴らしい景色が待っているし、その道中に感じたものすべてが価値あるものになっているはずなのです。
 簡単に手に入れること自体が悪いわけではありません。そうなるべきものもあっていいと思います。でも、なんでもかんでもそうなってはそれこそ薄っぺらい簡単な人間になってしまいます。もっと奥行きのある、ゆるぎない人間になるために。「easy come,easy go」なんでも簡単に手に入れてしまう時代だからこそ、この言葉が必要なのです。

01:08 | コメント (10)